指輪の送り先(1/1)
一夜明け、シルヴェスターが出発する日がやって来た。正面玄関まで見送りにきたマリアンネは、どこか不安げな顔をしている。
「大丈夫か、マリアンネ」
シルヴェスターが頭を撫でながら尋ねると、マリアンネはか細い声で「はい」と返事した。
「いってらっしゃいませ。一カ月後のお帰りをお待ちしております」
「……ああ」
シルヴェスターは馬車に乗り込んだ。
小窓を開けたシルヴェスターは小さくなっていくノルトハイム城を見つめ、城の中で自分の帰りを待つ妻のことをずっと思い続けていた。
それは、仕事の間も変わらなかった。
やはりマリアンネ依存症のシルヴェスターには、長時間妻と離れているのは酷だったらしい。ふとした拍子にマリアンネのことに考えが飛んで仕事が手に着かなくなってしまうので、シルヴェスターは困り果てた。
この問題を解消するためには、意図的に忙しくして仕事以外のことを頭から締め出すほかない。
もっとも、そうしていても時折夢にマリアンネが出てくるのは止めようもなかったが。
妻の夢を見た翌日のシルヴェスターは、このまま馬車に乗ってノルトハイム城に帰ってしまおうかという誘惑と毎回戦うことになった。
けれど、マリアンネに会いたいという衝動を押さえつけて仕事に励んだ結果、シルヴェスターは予定より十日ほど早く領都に戻ることができたのだった。
逸る気持ちでシルヴェスターが真っ先に駆け込んだのは、孤児院の職員室だ。
「マフラーはできているか?」
挨拶もそこそこに、シルヴェスターは副院長に尋ねる。副院長は居城に帰るより先に孤児院を訪れた領主に驚きつつも、「ええ」と頼もしく頷いた。
「こちらでよろしいでしょうか」
副院長は職員室の奥へ下がると、包みを手に戻ってくる。それを開くと、中から出てきたのはマリアンネが編んでくれたものとほとんど同じ出来のマフラーだった。
「よかった……」
シルヴェスターはマフラーを抱きしめて膝から崩れ落ちそうになる。
仕事の間、シルヴェスターを悩ませていた問題は二つ。マリアンネに会えないことと、マフラーがどうなったかだった。
副院長に任せた時はこれで安心だと思ったものの、時間がたつにつれ、シルヴェスターはマフラーが無事に修復されたか段々と気がかりになっていた。
あんな毛糸の束になってしまったものが、果たして本当に元の姿に戻るのか……そんなことを考えては、悶々として過ごしていたのである。
シルヴェスターは、もし副院長が尽力してくれてもマフラーを編み直すことができなかった場合、マリアンネに失望されても仕方がないとすら感じていたのだ。
そこまで思い詰めていたものだから、マフラーが以前と変わらぬ形で自分の元に戻ってきたと分かり、シルヴェスターは表情を緩めた。
今度はカギのついた金庫にでも入れて、二度と同じことが起きないようにしなければと心に誓う。
「本当にありがとう。どうやってお礼をすればいいのか、見当もつかない。欲しいものがあれば、遠慮なく言ってくれ。どんなものでも用意してみせるから」
「そこまでのことはしていませんよ。……そんなことより、ご領主様」
喜ぶシルヴェスターを聖母のように慈愛のこもった目で見ていた副院長が、ふと眉を曇らせた。
「私宛に、ご領主様からといってこんなものが届いたのですが」
副院長は、マフラーの包みと一緒に持ってきた小箱を取り出す。その中に入っていたものに、シルヴェスターは息を呑んだ。
「これは……私がマリアンネのために注文した結婚指輪じゃないか」
銀色に輝き、頂点に美しく成形されたダイヤモンドが光る指輪。シルヴェスターが自分で注文書をしたため、どのような品にするのか決めたのだ。見間違いようもなかった。
「それがなぜこんなところに……」
シルヴェスターの頭の中で、大量の疑問符が駆け巡る。
だが、シルヴェスターがこの謎に答えを出す前に、職員室の入り口から声がした。
「シルヴェスター様?」
マリアンネだった。数週間ぶりに妻の顔を見たシルヴェスターは、指輪の謎のことをすっかり忘れ、妻に駆け寄った。
「マリアンネ……!」
シルヴェスターは妻を固く抱きしめた。
この温もり、この薄い体、このしっとりとした栗色の髪。
シルヴェスターは妻を構成する全ての要素を、全身全霊で味わった。留守中、マリアンネの夢なら何度も見た。けれど、実物はそれよりも何倍も強くシルヴェスターの心を揺さぶり、水色の瞳にうっすらと涙が浮き上がってくる。
「会いたかった、マリアンネ……」
シルヴェスターは、マリアンネも自分と同じように感動しているだろうと思い、そっと妻から離れた。
だが、予想に反してマリアンネは顔を強ばらせている。
シルヴェスターは「どうした?」と尋ねた。
「シルヴェスター様は……わたしよりも先に、副院長先生とお会いになるのですね」
「ああ。彼女に用があったんだ」
「そうですか」
マリアンネはふいと背を向けて、職員室から出ていこうとした。その傷ついたような表情にシルヴェスターは戸惑って、「マリアンネ、どうした」と声をかける。
「数週間ぶりの再会だ。もう少し傍にいてくれないか? ああ、そうだ。君に贈るものがあるんだ」
シルヴェスターは副院長から小箱を受け取り、中の指輪ごとマリアンネに差し出す。
「これを君に。結婚指輪だ」
「……」
振り向いたマリアンネは無表情だった。指輪と副院長を交互に見つめる。
「副院長先生は、その指輪をいらないとおっしゃったのですか」
「そのとおりだ。なにせこれは君宛に……」
「だからわたしにくださるのですね」
マリアンネはシルヴェスターの言葉を途中で遮った。
「ダスティンが言っていました。シルヴェスター様が指輪を副院長先生に渡そうとしていると。わたし、そんなのは嘘だと思いました。でも、本当は……」
「ダスティン? どこかで聞いたような名だが……誰のことを言っている? それに、私は副院長に指輪を贈るつもりは……」
「いいのです、シルヴェスター様」
マリアンネはいかにも無理やり作ったといいたげな笑みを顔に貼りつけていた。
「余り物の愛情でも構わないと言ったのはわたしですもの。その指輪は、ありがたくちょうだいいたしますね」
マリアンネは小箱をつかむと、職員室の外に駆け出した。
何が起きたのか分からず、シルヴェスターはポカンとなる。すると、副院長から叱責の声が飛んだ。
「何をしているのです! 早く追いかけて!」
我に返ったシルヴェスターは、マフラーを手に妻のあとを追った。
マリアンネに追いついたのは、孤児院の門の近くに停めてあるノルトハイム家の馬車の前だった。
「マリアンネ……」
シルヴェスターは大きく上下する妻の肩に手を置いた。マリアンネは振り返らず、目元を拭うような仕草をする。
「泣いているのか、マリアンネ」
「……いいえ」
「だが……」
「泣いてなどいません。だってそんなの……バカみたいではありませんか」
「どういう意味だ?」
「……」
マリアンネは答える代わりに、「わたし、帰りますね」と言って馬車に乗った。
扉がバタンと閉められる。シルヴェスターが「私も一緒に帰城しよう」と言う頃には、もう馬車は走り出していた。
仕方なく、シルヴェスターはここまで乗ってきた馬車でノルトハイム城に帰ることにした。
「お帰りなさいませ」
先に帰っていたマリアンネが、正面玄関でシルヴェスターを出迎える。その表情は暗い。
妻の目元が赤くなっているのを見て、シルヴェスターはやはりマリアンネは泣いていたのだと確信した。
「私はよくないことをしてしまっただろうか」
シルヴェスターは妻に問いかけた。
「何かが君の気に障ったのなら謝る。どうか許してほしい」
シルヴェスターは頭を下げた。これにはマリアンネもうろたえずにはいられない。
「おやめください、シルヴェスター様。あなたは何も悪くありません。悪いのはわたし。わたしは少々思い上がっていたのです」
「思い上がる? 何のことだ?」
「全て、ですよ」
マリアンネは力無く笑った。
「シルヴェスター様はわたしを愛しているとおっしゃる。それで満足しておくべきだったのです。なのに、わたしは……」
マリアンネはかすかに首を振って、それ以上は続けようとしなかった。
「勝手に帰ってしまって申し訳ありませんでした。さあ、この件はこれでおしまいにしましょう。長旅でお疲れでしょう、シルヴェスター様。しばらくはごゆっくりお休みくださいね」
マリアンネは城の奥へ引っ込んでいく。残されたシルヴェスターは、その場に立ち尽くしているしかなかった。
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それ以降のマリアンネの振る舞いはいつもどおりだった。シルヴェスターと食事を共にしたり、庭を散歩したり、談話室でお茶を飲んだり。
けれど、夜になると膝枕をする暇もなく、マリアンネはさっさと寝入ってしまった。その隣に身を横たえながら、シルヴェスターは妻の薄い背中をじっと見つめる。
「何を考えている、マリアンネ」
シルヴェスターは妻の背に問いかけた。
「頼むから話してくれ」
けれど、返ってくるのは無言の拒絶だけ。シルヴェスターの胸に、じわじわと重苦しいものが広がっていく。
人の心の機微に疎いシルヴェスターでも、二人の夫婦関係が綻び、壊れ始めているのが感じられた。
けれど、何が原因でそうなったのかはまったく分からない。そのことがシルヴェスターの心をひどくかき乱した。
「私が嫌いになったのか、マリアンネ」
シルヴェスターはマリアンネを後ろから抱きしめて尋ねる。すると、それまで無反応だったマリアンネが初めて声を発した。
「嫌いではありません」
それは、寝室の闇に溶けてしまうほどのかすかな声色だった。
「嫌いではないのです。だから、わたしはこんなにも……」
マリアンネの細い肩が震える。「泣いているのか」と、シルヴェスターは朝方と同じように聞いた。
「……泣いていません」
マリアンネもあの時と同じ言葉を返し、頑なな調子で首を振る。シルヴェスターはマリアンネの頭を撫でた。
「愛している」
そう囁いたけれど、マリアンネの震えは止まらなかった。
――シルヴェスター様はわたしを愛しているとおっしゃる。それで満足しておくべきだったのです。
マリアンネはそう言っていた。あの言葉の真意をシルヴェスターは考える。
(マリアンネは愛の言葉以上の何かを欲しているのだろうか……)
けれど、それが何なのかはシルヴェスターには分からない。ただマリアンネの気持ちが落ち着くまで、ずっと抱きしめ続けてやることしかできなかった。





