死が彼らを分かつ時(3/3)
「このバカ息子。いつまで寝ているの」
つんとした罵倒の声が聞こえてきて、シルヴェスターは起き上がる。傍らに立っていたのは母だった。
「……母上? 何故ここに」
「お前の愚かな計画なんかお見通しよ。死神は素人の手に負える存在じゃないの。まったく、こんな深夜に遠慮なく鐘を鳴らしたりして。うっかり目が覚めてしまったじゃない」
そう言いつつも、母はよそ行きのきちんとした服装をしていた。とても目覚めてから急いで駆けつけてきたようには見えない。
「まだ魂が完全に体から離れる前で良かったわ。そうなったら、もうどんな魔法でも打つ手なしだったわよ」
「……母上の仕業ですか」
シルヴェスターはようやく状況を理解し始めた。
「怪しげな術で私を呼び戻したのですね」
「怪しげとは何よ。助けてあげたのに、礼の一つもなしとはね」
「礼など言いません。余計なお世話です」
近くには、母とマリアンネの他に、仕事を妨害された死神も静かに控えていた。
「私は自分から死のうとしていたのです。邪魔しないでください」
「まあ、生意気だこと」
母はわざとらしく目を見開く。
「どうしてお前はやることがそう極端なのかしら。妻を完全に無視するかと思えば、今度はベタベタに甘やかし、最後には命まで捨ててしまう。おかしいったらありゃしないわ」
「義母様、シルヴェスター様はわたしを助けようとしてくれたのですよ」
マリアンネが控えめに抗議した。
「だから、そんなに責めないであげてください」
「妻が望んでもいないことをする夫を叱るなと? それは無理ね。わたくし、そういう男は大嫌いなの」
母は死神に向き直った。その表情から固い意志を読み取り、シルヴェスターは嫌な予感に顔を強ばらせる。
「母上、いけません!」
「死神。わたくしの息子も義娘も、お前にはやれないわ。その代わり、素晴らしい名誉を授けてあげる。このわたくしを冥府までエスコートできること、光栄に思いなさい」
「母上!」
シルヴェスターは愕然となった。
「何をおっしゃっているのですか、あなたらしくもない! 母上は誰かの身代わりになるような情け深い方ではないはずでしょう!」
「お前に言われたくないわよ」
母は肩を竦めた。
「わたくしは自分のことは自分で決めたいの。誰かに振り回されるのはもうまっぴらだわ。……残されるお前たちが気に病まないように特別に教えてあげる。わたくしは長くは生きられない体なのよ」
「あの主治医の診断ですか? 彼はとんだヤブ医者です。信用なさらない方がよろしいかと」
「あら、あの男は中々優秀よ」
母は軽く笑った。
「医師の言っていることは正しいわ。この体には、もうほとんど生命力が残っていないの。魔法の使いすぎね」
母は長椅子の上に寝そべった。
「寝心地が悪いわねえ。シルヴェスター、事が済んだら早くわたくしをもっとマシなところへ運ぶのよ。ここは貴婦人が眠るのに相応しくないわ」
「義母様、お願いですからやめてください。わたしのためにこんなこと……」
「お前は何を聞いていたの。今日は誰かが死ぬ日。わたくしはそれに立候補しただけのこと。どうしてわたくしが人のために死んであげないといけないのかしら?」
気丈に言い放ち、母はシルヴェスターとマリアンネを見つめた。こんな時なのに、母の瞳は生き生きとしている。
まるで、長年の夢が叶ったような表情だった。
(……なるほど。確かに母上は、他でもない自分のために死ぬ気なのか)
母の夢は、夫と仲睦まじい夫婦になることだった。
けれど、夫が死んだ今となっては、その夢はもう叶わない。
それに、たとえ時を戻したって、母の希望通りになったかは怪しいものだ。結婚生活を破綻させた彼女の高慢さは、一朝一夕には治らないだろうから。
だから母は、シルヴェスターに願いを託したのだろう。自分の代わりに幸せになれ、と。
そして愛し合う息子夫婦を見て、そこに自分と夫の姿を重ね合わせた。その光景がたとえ幻に過ぎなかったとしても、母の傷付いた心を癒やすには充分だったのだろう。
せっかく手に入れた安らぎ。それを守るためならば、死神にだって喜んで魂を売り渡すというわけだ。
「シルヴェスター、今度は何があってもマリアンネに寂しい思いをさせるんじゃないわよ」
母は静かに言って、腕を天井に向けて伸ばした。
「妻を放っておく夫は最低よ。肝に銘じなさい」
「……それでも、わたしはシルヴェスター様を愛しています」
マリアンネが目元を拭いながら言った。義母の選択を受け入れようと決めたのだろう。母の元から離れ、シルヴェスターにそっと寄り添う。
「最低でも何でも、わたしはシルヴェスター様が好きなんです。……そもそも、シルヴェスター様は最低なんかじゃありません」
「……お前は正直な子ね。本当に……羨ましいくらいの素直さだわ」
死神が母の手を取る。途端にその体から力が抜け、呼吸が止まった。マリアンネがシルヴェスターの腕を痛いほど強くつかむ。
シルヴェスターは別れの言葉を口にした。
「今までありがとうございました、母上」
死神はいつの間にか消えていた。
シルヴェスターは母の手指を胸の前で組ませる。安らかな顔だ。苦悩も苦痛もない。きっと、今の彼女はとても幸福なのだろう。
シルヴェスターは妻と共に教会の外に出た。自分たち二人だけで母の遺体を運ぶのは無理だ。誰か人を呼んで来なければならない。
身を切るような冷たい風が頬を撫で、マリアンネが身震いした。シルヴェスターはその小さな肩に自分のコートを羽織らせてやる。
「寒くないのですか?」
「君が温めてくれ」
シルヴェスターは妻の方に体を寄せる。マリアンネが自分の首元に巻いていたマフラーを解き、シルヴェスターと半分こする形で結び直した。シルヴェスターは妻の腕に自分の腕を絡ませる。
城へ向かう道中、二人は何も話さなかった。
シルヴェスターの心にあったのは喪失の痛み。そして安堵だった。
失ったものは大きいけれど、マリアンネは今ここにいる。彼女の魂はまだ現世に留まっている。今はそのことに感謝しよう。
月と外灯の明かりに照らされた庭園を、また風が吹き抜ける。まだ寒いのか、マリアンネがぎゅっと身を寄せてきた。
伝わってくる体温に、心が安らいでいく。シルヴェスターは隣にいる人の温かさを全身で受け止めた。
それと同時に、きっとマリアンネも同じように感じているのかもしれないと思ったのだった。





