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20/22

死が彼らを分かつ時(2/3)

 遂に決戦の時がやって来た。


 その日は、よく晴れた月の美しい晩だった。


 シルヴェスターはいつもより丹念に湯浴みをして体を清め、闇に紛れるような黒衣と黒手袋を身につける。そして、戦いの前に妻の顔を一目見ておこうと、マリアンネの居室を訪れた。


 しかし、彼女は不在だった。挨拶もなしに先に寝てしまったのだろうかと寝室を覗いてみたが、そこにも姿はない。


(まさか……もう死神はマリアンネを連れて行ったのか?)


 シルヴェスターは不安に駆られたが、死神が刈り取っていくのは魂だけのはずだ。体ごと消してしまうなどということはないだろう。


 けれど、城の中をあちこち探し回ってもマリアンネはどこにもいなかった。


 そうしている間にも、刻一刻と時は過ぎていく。懐中時計を確認すれば、予定よりも三十分以上遅れていた。


(……仕方ない)


 シルヴェスターは妻との面会を諦めた。このままズルズルと時間を先延ばしにすれば、取り返しがつかないことになってしまうかもしれない。


 シルヴェスターは庭園に出て、教会へ向かった。普段は平静なその胸の内が、ザワザワと波打っている。心臓が耳元で鳴っているようだ。寒い冬の日だというのに、肌がじっとりと汗ばんでくる。


 教会に辿り着き、重厚な扉を開ける。ロウソクの明かりに照らされた身廊をゆっくりと進んだ。


 思い出すのは、ここで結婚式を挙げた日のことだ。


 あの時のマリアンネは本当に幸せそうな顔をしていた。その笑顔が永遠に失われるなど、あっていいはずがない。


 シルヴェスターは、かつて自分が花婿として立っていた祭壇の前に魔法陣を描いた。


 そして、棺桶から抜いてきた釘や干からびた動物の死骸など、見るからにおぞましい物品を所定の位置に設置する。


「来たれよ、死よ。来たれよ、来たれよ……」


 シルヴェスターは低い声で呪文を呟き続けた。


 しばらくの時が経過する。


 変化は不意に訪れた。


 魔法陣の中に、音もなく人型をした何かが現われたのだ。


 それ・・は暗い色のローブを羽織り、背丈はシルヴェスターよりも頭一つ分ほど高かった。フードで隠し気味の顔には仮面をつけている。


 男とも女とも判断のつかない、見ていると妙に不安を掻き立てられるような出で立ちだ。だが、シルヴェスターは臆さず声をかける。


「死神か」

「他のものを呼びたかったわけではないでしょうに」


 人の心を惑わすような甘い声だった。死神はゆっくりと魔法陣から出てくる。 


「マリアンネのためだ。悪いが君には消えてもらう」


 シルヴェスターは懐から取り出した護符を投げつけた。けれど死神は怯まない。一歩、また一歩とこちらに歩み寄ってくる。


(……今だ!)


 死神が所定の位置までやって来た時、シルヴェスターは天井から下がっていた紐を引っ張った。


 頭上に設置されていた桶が傾く。そこから大量の聖水が死神の上に流れ落ちた。加えて、教会の鐘も鳴り出す。


 聖水や教会の鐘の音には、浄化の力があるのだ。そんなものを食らえば、不浄な死神などひとたまりもないはずだった。召喚場所を堂内にしたのも、悪の力を弱めるためである。


 だが……。


「あなたは悪魔払いでもしているおつもりか。私は汚れとは無縁の存在。このようなものは効きません」


 あれほど大量の聖水を浴びたというのに、死神は少しも弱っている風ではなかった。それどころか、濡れてすらいない。


 その異様な光景に、シルヴェスターは自分が今対峙しているのは、確かにこの世ならざる存在なのだと痛感する。


 死神は床に設置された聖別された品々にもまるで動じない。シルヴェスターが最終防衛ラインとして床に描いた守護用の魔法陣すらも、軽々とまたいでみせた。


(やはり、死神退治など無謀だったのか……)


 死神はシルヴェスターの目と鼻の先で立ち止まる。シルヴェスターは表情の抜け落ちた顔で死の王を見つめた。


(マリアンネ……)


 その時、予想もしなかったことが起きた。


「シルヴェスター様から離れなさい!」


 何かが飛んで来て、死神の体にぶつかる。身廊に設置されていたロウソクだった。


 鐘の音も聖水も効かなかった死神だ。当然、ロウソクごときではダメージを受けなかったらしい。床を転がったロウソクの炎が絨毯に引火しかけたけれど、それもローブで軽く撫でるだけで消してしまった。


「マリアンネ!?」


 ロウソクを投げたのは、血の気が引いた顔をした妻だった。座席の間に立ち、肩で息をしている。そのグレーの瞳からは、死神への溢れんばかりの恐れと敵意が読み取れた。


「何をしているんだ、マリアンネ! ここへは来るなと言ったはずだ!」


 シルヴェスターはマリアンネの元に駆け寄った。死神からその姿を隠すように、後ろ手に彼女を庇う。


「ごめんなさい、シルヴェスター様……」


 マリアンネは小さな声で謝った。


「わたし……シルヴェスター様が来るずっと前から、この座席の間に隠れていたんです」


「どうしてそんな危ないことを!?」


「シルヴェスター様がここで何をするつもりなのか気になって……。まさか、本当に死神が出るなんて思っていなかったんです!」


「今さら何を言っているんだ。私の計画は、ずっと前に話しておいたじゃないか」


 死神がこちらに近寄ってきて、シルヴェスターは冷え冷えとした心地になる。後ろにいるマリアンネが、恐怖に陥ったようにシルヴェスターの服をぎゅっとつかんだ。


「立ち去れ、死神」


 シルヴェスターは強い口調で命じた。


「ここは死神の来るところではない。君は招かれざる客だ」

「死を友とする者はほとんどいません」


 死神が甘い声で囁く。


「けれど、望むと望まざるとに関わらず、私はやって来る。それが死の役目。そして私は死そのもの」


「……どうしても出て行かないのか」


「今日はこの地で一つの命が刈られることになっています。私はそのか弱い魂を冥土へ送らねばなりません」


「わたしのこと……なのね」


 マリアンネがガクガクと震えながら言った。


「あなたはわたしを連れて行こうとしているのね。シルヴェスター様の言っていたことは、何もかも本当だったんだわ……。わたしは今日、死ななければならない……」


「……そんなに怯えるな、マリアンネ」


 シルヴェスターは妻に口付ける。


「大丈夫だ。君はこれからも生き続けろ」

「え……でも……」

「必ず守ると言ったはずだ」


 シルヴェスターは死神を見据える。


 恐れなど初めから感じていなかった。唯一の心残りは、妻に一目会わずにここへ来てしまったことだったが、図らずもその未練は解消されたのだ。今シルヴェスターの心は、凪いだ海のように静かだった。


「取引をしよう、死神。マリアンネの代わりに、私を連れて行け」

「シルヴェスター様っ!?」


 マリアンネが悲鳴に近い声を出した。


「何を言っているのですか! だって、死ぬのはわたしのはずでは……!」


「『マリアンネが死ななければならない』という表現は正確ではない。正しい言い方をすれば、『今日はここで誰かが死ななければならない』だ。死神に決められるのは死者の数だけ。刈り取られる魂の数だけなんだ。……そうだろう?」


 シルヴェスターは死神に向かって問いかける。


 もしかしたら死神は、個々人の終わりの時を正確に管理しているわけではないのかもしれない。刈り取る命の数だけ決めておいて、その対象は直前になって決定するのではないか。


 これは、死神に関する本を読んでいて気付いたことだった。


 もしも死神撃退作戦が上手くいかなかった場合は、この点に賭けようとシルヴェスターは決めていたのである。


「私の魂では不足などとは言わせないぞ。……さあ、さっさと持って行け。次にマリアンネの前に現われるのは、もっとずっと後にしろ」


 シルヴェスターは死神に向かって手を伸ばす。彼の推測は正しかったようだ。死神も黙ってこちらに触れようとしてきたのだから。


「ダメです!」


 マリアンネが叫んだ。シルヴェスターの腕を押さえつける。


「いけません、そんなの! シルヴェスター様がわたしのために犠牲になるなんて! そんなことになるくらいなら、わたしは喜んで死に身を委ねます!」


「それはダメだ、マリアンネ。君は生き延びるんだ。いいな?」


 シルヴェスターの声は、死が間近に迫っているとも思えないほど安らいだものだった。マリアンネは唇を噛み、「シルヴェスター様はひどい方です」となじる。


「わたしを一人にしないと言っていたのに、嘘を吐くのですか」

「ああ、その通りだ」


 シルヴェスターは穏やかに頷いた。


「いくらでも恨んだり憎んだりしてくれて構わない。許しなど乞うまい。朝が来たら、顧問官を呼び出してくれ。私の遺言状を預けてある。ノルトハイム家は遠縁の者に継がせるつもりだ。もちろん、君の身の振り方は自由だからな。この城に残っても、実家へ帰ってもいい。かなりの遺産は相続させるつもりだから、ここを出て行っても肩身の狭い思いはしなくて済むだろう。再婚は自由にしてくれ。ただ、今度は氷の貴公子なんて選ぶなよ」


「もうやめてください!」


 マリアンネは顔を覆って、首を左右に激しく振った。


「どうしてそんなことを言うのですか! わたしをお嫌いになってしまったのですか!?」


「愛しているからだ」


 最初は、他に選択肢などなかったからマリアンネを愛していた。もしも彼女をないがしろにすれば、また時間を戻すと脅されていたからだ。


 だが、今は違う。いつの間にかシルヴェスターは本気でマリアンネを想うようになっていたのだ。芽生えた温かな恋情は凍れる心を溶かし、やがて無私の愛を生み出した。


 今、シルヴェスターの頭にあるのはマリアンネの幸せだけだ。マリアンネの未来が幸福なら、彼女が自分を憎むことも、別の誰かを愛することも、喜んで受け入れようと思っていた。


「さようなら、マリアンネ。愛してる」


 この世の別れにもう一度愛の言葉を告げ、シルヴェスターは死神の手を取った。マリアンネの絶叫が石造りの室内にこだまする。


 シルヴェスターは自分の体から重さがなくなるのを感じていた。床にくずおれた肉体。そこから魂が離れようとしている。


「シルヴェスター様! シルヴェスター様っ!」


 マリアンネは動かなくなった夫の体を揺すっていた。


 シルヴェスターは微笑みたいような気持ちになる。最期に聞くのが、愛する人が自分の名前を呼ぶ声とは悪くない。もっと楽しそうな声色だとさらに良かったが、そこまで望むのは贅沢というものだろう。


 天上からは、先ほどまでは見えなかった明るい光が差し込んでいた。この先にあの世があるのだろう。自分が行き着く先は天国か地獄か。きっと地獄に違いない。氷の貴公子として、散々悪行を重ねてきたのだから。


 マリアンネの寿命が尽きた時は、ぜひとも天国へ行って欲しいものだ。まあ、彼女なら大丈夫か。あれほど素晴らしい女性など、二人といるものではない。きっと天使たちも大歓迎するはずだ。


 けれどそうなったら、もう二度とマリアンネとは会えないだろう。永久に離れ離れだ。だがその苦痛も、甘んじて受け入れなければ……。


 不意にガクンとした衝撃を感じた。階段がもう一段あると気付かずに、踏み外してしまったような心地。天上の光が消え去り、代わりに体に重さが戻っていた。


「シルヴェスター様!」


 気付いた時には、シルヴェスターは妻の腕の中にいた。涙でびしょ濡れになったマリアンネの白い頬を、無意識の内に指先で拭う。


「……?」


 何があったのだろうか。自分は昇天していく途中だったはずだ。冥府への旅を始めようとしていた頭では、状況をすぐには呑み込めない。


 一つ確実なのは、何故か自分はまだ生きているということだけだった。

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挿絵(By みてみん)
あき伽耶様が作成してくださいました!
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