マフラーに起きた悲劇(1/2)
自分の家族にまつわる難題をどうにかしようと思っただけのはずが、いつの間にかノルトハイム領の今後の在り方についても方針を定めることができた。
思い立ったからには、すぐに実行に移さなければならない。シルヴェスターはノルトハイム家の経営戦略を変更するにあたり、領内の各地を飛び回って、関係者と各種の調整を進める必要があると判断した。
「……というわけで、一カ月ほど城を空けることになった」
ある日の朝食の席で、シルヴェスターはマリアンネにそう打ち明けた。彼女は複雑そうな顔をする。その表情を見て、シルヴェスターは胸が苦しくなった。
「本当にすまない。君を一人にしたくはないのだが……」
「仕方がありませんよ。お仕事ですもの」
マリアンネは微笑んでいた。けれど、その笑顔にはどこか影がある。
「わたし、支度をしてきますね。今日も孤児院へ行く予定ですから。……そうだわ。子どもたちにも、シルヴェスター様は当分留守にすると伝えなければなりませんね。皆、寂しがるかしら」
(寂しいのは君のほうじゃないのか?)
シルヴェスターはそう問いかけようとしたが、マリアンネが椅子から立ち上がる音が予想外に大きかったので、言葉が出なくなってしまう。退室しようとした妻を慌てて追いかけ、彼女の腕を取った。
「……スープが冷めてしまいますよ、シルヴェスター様」
「君こそ、まだ食事の途中じゃないか」
シルヴェスターはマリアンネの腕をつかむ自分の手に力を込める。妻の体がこれほど細くなければ、骨がきしむほどに強く握りしめていただろう。
「長期の不在は今回を最後にすると誓う。だから……」
「ええ、分かっています」
マリアンネはシルヴェスターの手をそっと解いた。
「どうぞお気をつけて。無事に帰ってきてくださいね」
「ああ、必ず君のもとへ戻ってくる」
シルヴェスターの返事を聞かず、マリアンネは食堂を出ていった。
――一カ月後に決行しましょう。この城から逃げて、マリアンネさんは俺と結婚するんです。
ふと、シルヴェスターは何日か前に見た夢のことを思い出す。マリアンネに横恋慕する何とかという男は、ひとつき後に駆け落ちを計画していると言っていた。
(つまり、私が仕事から帰ってくる頃には、マリアンネはもうこの城にはいないということか?)
シルヴェスターは頬を張られたような衝撃を覚えたが、すぐさま「あれはただの夢だ」と自分に言い聞かせた。
(それに、マリアンネは駆け落ちに賛成していなかったじゃないか。だから、彼女がどこかに行ってしまうなんてあり得ないはずだ)
シルヴェスターは深呼吸をして心を落ち着かせると、食事を再開しようとした。その時、窓の外に見覚えのある青年がいるのに気づく。
(この間雇った者か)
あの真っ黒な目の奥に宿る憎しみには見覚えがあった。逆に言えば、それ以外の特徴は何も記憶になかったということでもあるが。
いい加減に顔くらい覚えてやらなければ、彼がかわいそうだなとシルヴェスターは反省した。
ふと、シルヴェスターは寒気を覚える。一瞬、青年の目つきの鋭さのせいかと思ったが、よく見れば開いた窓から風が入り込んでいた。
シルヴェスターは青年に窓を閉めてもらおうとして、ついでに別の用件を言いつけることを思いついた。
「これを宛名にある工房へ届けてもらえないか」
シルヴェスターは開いた窓から「注文書在中」と書かれた封筒を青年に差し出した。青年は渋々といった様子でそれを受け取り、宛先を読む。
「何か作らせるんですか? どうせ貴族趣味の無駄な品でしょうけど」
「マリアンネの指輪だ」
青年はハッとしたような顔になる。シルヴェスターは唇に人差し指を当てて、「マリアンネには内緒で頼むぞ」と言った。
「指輪は無駄な品ではない。この間夢で、マリアンネに結婚指輪を贈っていない、と指摘されたんだ。だから、今からでも渡そうと思ってな」
この手の贈り物は本人には何も伝えず、突然プレゼントしたほうがサプライズになって楽しいのではないかとシルヴェスターは思っていた。城に職人を呼ばないで、こっそり発注するのはそのためだ。
シルヴェスターはマリアンネの喜ぶ顔を想像して早くも心を弾ませていたが、ダスティンは険悪な表情をしている。
「マリアンネさん、そんなのいらないって思って捨てちゃうんじゃないですか」
「そういう悲しいことを言うのはやめてくれ。現実になったらどうするんだ。……とにかく、その注文書はしっかり届けてほしい。途中でなくさないでくれよ。完成品の受け取りも君に任せるから」
「……分かりましたよ」
青年は汚れ物を扱うように封筒を指先でつまんで去っていった。
おそらく、シルヴェスターが仕事から戻る頃には指輪もできているだろう。長い間不在にしていた妻への詫びとしても、結婚指輪は最適な品だと思えた。
シルヴェスターは冷めた朝食を作り直してもらって、食事を再開する。食べ終える頃には、孤児院への訪問時間が迫っていた。シルヴェスターは急ぎ足で私室へと向かう。
(……おや?)
自室のドアが開いているのに気づき、シルヴェスターは首をかしげる。出ていった時に閉めたはずだが、と妙な気持ちになった。
不思議に思いつつも部屋に入ろうとしたシルヴェスターは、足元を通り過ぎる黒い物体とすれ違う。
「ギド?」
シルヴェスターは、軽やかな足取りで廊下を歩いていく黒猫の後ろ姿に声をかけた。だが、猫は振り返らない。いつもなら、呼ばれたら「にゃー」と返事くらいはするのだが。
(機嫌でも悪いんだろうか。……だが、これで部屋の戸が開いていたわけは分かったな)
きっと、ギドがイタズラをしたのだろう。困ったものだ、と思いながらシルヴェスターは入室する。
その瞬間、シルヴェスターは自室の床に見慣れぬ物体が落ちているのを発見した。
(何だろう……毛糸?)
シルヴェスターはその物体を手に取り、ジロジロと眺め回した。
(なぜこんなものがここに……。それにしても、この白色や淡い色は、どこかで見たような……)
記憶をたどったシルヴェスターは、ある可能性に行き着いて固まった。クローゼットを開けて、中を引っかき回す。
(ない、ない……!)
シルヴェスターが探していたのは、マリアンネが編んでくれたマフラーだった。彼の衣装のほとんどは専用の部屋に保管してあるが、妻の真心が詰まった手編みのマフラーは自室のクローゼットに置いていたのだ。
そのマフラーがなくなっている。シルヴェスターは床に散らばる毛糸の束を力無く見つめた。
(間違いない。これはマリアンネがくれた……)
コンコンとドアにノックの音がして、シルヴェスターは飛び上がりそうになった。
「シルヴェスター様、用意はできましたか? そろそろ出発しようと思うのですが」
シルヴェスターはマリアンネの傍にいるといつも嬉しい気持ちになったが、今だけは別だった。とっさに無残な姿になったマフラーをつかみ、クローゼットに押し込む。
その際、シルヴェスターは毛糸に黒い毛が付着しているのに気づいた。
「ああ、今行く」
平静な彼には珍しく、声が上ずっていた。コートを羽織ると、大慌てで外に出る。
「シルヴェスター様? いかがなさいましたか?」
夫の様子が変だとマリアンネはすぐに勘づいたらしい。シルヴェスターは冷や汗が出る思いで、「別にいつもどおりだ」と誤魔化した。
(せっかくの贈り物があんなことになってしまったと分かったら、マリアンネはどう思うか……。なんとしてでも隠し通さなければ)
シルヴェスターはそう決意したが、マリアンネはシルヴェスターの首元を見て何気ない調子で呟いた。
「今日はマフラーをしないのですね」
シルヴェスターはギクリと身を強ばらせた。
妻にプレゼントをもらってからというもの、シルヴェスターはいつもあのマフラーを巻いて外出していたのだ。マリアンネが不審に思うのも当然である。
「なんだか暑くてな。コートもいらないかもしれない」
シルヴェスターは上着を脱いで、自室に放り込んだ。これ以上ボロが出ない内に、「さあ、行こう」とマリアンネを促す。
だが、外に出た瞬間に、何も防寒具を持ってこなかったことを後悔した。冷たい風が否応なしに体を包み込み、シルヴェスターは二の腕をこする。マリアンネは眉根を寄せた。
「震えていらっしゃいますが……。本当に暑いのですか?」
「当然だ。あと八カ月もすれば夏だろう」
シルヴェスターは少しでも風を避けたくて、素早く馬車に乗り込んだ。しかし、車内も大して温度が高いとは言えない。
(このままでは、孤児院に着く頃には私は凍っているかもしれないな。文字どおりの氷の貴公子というわけだ)
心に浮かんできたつまらない冗談に内心で失笑していると、マリアンネが車内に常備している毛布をそっと肩にかけてくれた。
「いつもとは逆ですね」
マリアンネはクスリと笑う。シルヴェスターが目的地につくまでに氷の塊にならなかったのは、ひとえにその笑顔が心を温めてくれたからだといえよう。
孤児院では、子どもたちと体を押し合う遊びをして暖を取った。いつも以上に熱心に遊んでくれるシルヴェスターに、皆は大はしゃぎだ。
もうすぐ仕事で家を空けなければならないから、次回の来訪を最後に当分は来られないことも告げ、つつがなく孤児院への訪問は終了した。





