プロローグ<夢にまで見た――>
彼女は
どうしようもなく
恐ろしかった
◆
小鳥の囀り
葉擦れの音
木々の合間からは柔らかな木漏れ日が差し込み、小川をゆく水が心地よいせせらぎを奏でる。
ベッドの柔らかな手触りとは違う、若草のチクチクとした、それでいてどこか落ち着く青い匂いと共に、少女は頭に残る微睡みを振り払った。
何か、夢のようなものを見ていたような気分に首を傾げる少女。
しかしその手掛かりは、上体を起き上がらせる過程で、指先を水がすり抜けてゆくが如く掴みきれない。
少女の意識が徐々に覚醒してゆく。
それと同時に、ある疑問も生まれた。
(私ってどこで寝てるの?)
その途端、夢の残滓は跡形もなく吹き飛んだ。
勢いを付けて仰向けになっていた身体を起き上がらせる。
少女は昨夜、確かに自室のベッドで眠りについたはずだった。
しかし五感が伝えてくる情報は、彼女が大自然の真っ只中にいることを証明している。
(……森?)
そう、目を覚ました少女の視界に広がっていたのは、開発が進んだ現代では早々お目にかかれないであろう緑豊かな森。
木々の合間を楽しそうに小鳥が飛び交い、悪戯好きな風が少女の髪を軽く撫でる。
次に目を惹いたのが少女の座る脇、細々とした小川の向こうへと続く湖だ。
海と見紛うほど巨大なそれは、地平線の遥か向こうに薄らと木々の緑が見えることから、かろうじて湖であることが窺えた。
透明度の高い水をたっぷりに湛え、燦々と降り注ぐ太陽の光を受けた水面が宝石のように輝く湖。
(綺麗なところだな……えっ?)
どこかお伽噺に出てくる風景のような美しい光景にしばし唖然とする少女。
だが、視界の端にそれを捕らえたことで、二度目の驚愕に思わず立ち上がった。
突然の激しい動きに軽い目眩を覚えて蹈鞴を踏む。
それでも地面を這うようにしてなんとか湖の岸へと近づき、少女は鏡のような水面を覗き込んだ。
陽光を遮るようにして突然現れた巨大な影を、自らを捕食する敵の出現だと勘違いした小魚たちが、散り散りになって逃げ惑う。
小魚の起こした波紋が消える頃、そこに残ったのは湖に映る少女の顔だった。
整った輪郭に可愛らしい小さな口。
ぱちりと開いた大きな瞳は小動物を思わせるように愛くるしく、実年齢よりも幾分か幼い印象を持たせる。
シミ一つ無い、真っ白できめ細かい肌は陶器で創られているかのようで、西洋のビスクドールを彷彿とさせた。
加えて、アイブロウで描いたように整った眉に、マスカラでも付けたかのように長くカールした睫は、少女により一層人形めいた印象を持たせる。
もっとも、彼女はビスクドールの実物を目にしたことはないのだが。
しかし少女の顔立ちは、化粧が見せる幻想でも、整形の果てに完成した模造品でもない。
人間と言われるよりも、むしろ人形に魂を移植したと方が納得できる造形は、神が手ずから創り上げた芸術作品だと言われても納得しただろう。
そして何より、少女をここまで動揺させたのは、白銀に輝くロングヘアと青玉のように深い青をした碧眼だった。
「なに、これ?」
思わず、といった様子で少女が呟く。
薄く茶の入った黒のショートボブも、くすんだ鳶色の虹彩は見る影もない。
そこに映っていたのは人形のように可愛らしい"誰か"だった。
理解が追いつかずにフリーズしていた少女だが、ゆっくりと深呼吸をして水面から顔を上げる。
湖を覗き込むような姿勢から膝立ちへと変わったことにより、乱れた髪が顔に掛かる。
その色はもちろん、水面に映っていた"誰か"と同じ、金色の少し入ったプラチナブロンド。
ふわりと靡く髪が片目を隠すが、そんなことは関係ないとばかりに少女は現状を整理しようと思案する。
「うん、違うね。今のナシナシ。寝起きだから頭が働いていないだけ。ああ、うん。ちょ〜っとまだ眠気が抜けきってないかなー。それに光の反射とか角度とかも悪かったかも。そう、もう一回この綺麗な水面を覗き込めば、今度はちゃんと私が映ってるはず」
若干パニックによって語彙がおかしくなりつつも、少女は自身に言い聞かせるように呟くことで、一先ずは心を落ち着かせることに成功した。
そして少女はもう一度、今度は恐る恐る水面を覗き込んでみた。
プラチナブロンドの少女とばっちり目が合った。
とびっきりの笑顔を作ってみると、水面の彼女も眩しいくらいの笑顔を浮かべてくれた。
右手を振ると、水面の彼女も手を振り返してくれる。
(クッソかわいい……じゃなくて! なるほど……つまり、水面に映っている女の子は私と同一人物な訳か)
少女は水面に映った人形のような彼女が、自身と同一人物であると結論付けた。
「いや、納得できるか!!!」
突然の少女の叫び声に、近くの木の枝で寛いでいた小鳥が数羽、青空の彼方へ羽ばたいてく。
現実は無情だった。
◇◇◇
「分かった。これは夢だ」
思いの丈を叫んだことでスッキリした少女の頭に、一つの仮説が浮かび上がった。
(起きてみれば知らない場所? そんなドッキリ企画の真っ只中に、自分がいるとは考えられない)
(自分の容姿が変わっている? 顔だけならまだしも、若干縮んでいる身長は整形手術じゃあ説明が付かない)
つまり、"夢"――
実際の少女は未だベッドの上で寝返りを打っており、現在目の前に広がるこの世界は脳が映し出した虚構の世界と言う訳だ。
そうと決まれば話しは早い。
少女は自らの頬を抓ってみたり、軽く叩いてみたり、両手に掬った水を顔に掛けてみたり……。
終いには湖に顔面から突っ込んで息を止めたりもした。
だが、そこから得られた成果も、実に無慈悲なものだった。
頬を抓れば、皮膚の感覚神経がやけにリアルな痛覚を脳に伝達した。
水面に顔を浸けると、思ったよりも冷たかった水に目を白黒させる。
湖から顔を出して胸いっぱいに吸い込んだ空気は新鮮で、鼻孔を擽るのはどこか安心する草や土の芳香だった。
行動を起こす度、世界は霞むどころかより鮮明になってゆく。
水のせせらぎが鼓膜を震わせ、髪から滴る水滴が頬を伝う。
それら途切れることない時間の流れ。
以上の結果が示すこと、それは……
(夢じゃ、ない?)
少女がその考えに行き着くと同時に、それまで彼女が抱いていた焦燥は一転、胸の奥から言葉に表せない高揚感が溢れ出してきた。
見知らぬ土地
変化した容姿
よくよく見れば、遙か上空を竜のような生物が飛翔し、物理法則に逆らうようにしていくつもの大岩が宙に浮かんでいるではないか。
空飛ぶ岩の裂け目からは滝のように大量の水が吐き出されており、空気中に飛散した微小の水滴が日光を乱反射させ、幾重もの虹の帯を青空に描いている。
視界いっぱいに広がる幻想的な世界。
コンクリートと排気ガスが主成分の味気ない灰色の街ではない。
もっと鮮やかで、美しく、心の躍るような世界。
「異世界?」
そのような言葉が少女の口を衝いて出た。
現在、少女が直面している状況は、彼女が好んで読んでいた小説――ライトノベルの冒頭にあるシーンと酷似していたからだ。
主人公が見ず知らずの風景に囲まれ、一人佇んでいる状態から物語はスタートする。
魔物――俗に言うモンスターと戦闘を繰り広げ、多種多様な魔法を操り、ストーリーが進行してゆく。
正しく、夢のような世界。
夢であれば、楽しめたであろう世界。
そう、あくまでもここは現実だった。
どうしようもない現実。
そして現実はいつも無邪気で、残酷で、過酷な運命を人に突きつける。
(あれ、ってことは私……ッ!!!)
突如として少女を襲う激しい頭痛。
鋭い痛みは無意識に記憶の淵へ追いやろうとしていたモノを強引に呼び起こした。
粉砕される骨の音を――
叩き潰される肉の痛みを――
流れ出た血の滑りが――
徐々に冷たくなっていく自分の身体が――
黒一色に塗り潰されていく視界が――
その全てが否定のしようがないほど生々しく、少女の"死"を如実に物語っていた。
心拍が五月蠅いくらいに逸る。
それにも関わらず、水面が映し出す少女の顔は血の気が失せてゆき、ただでさえ陶磁器のように白い肌が一層白くなっていた。
たった数秒間の苦痛。
されどその数秒は、少女へ死に対する恐怖を刻み付けるには十分過ぎた。
思わず自分の身体を掻き抱く。
少女の頬を伝う雫はしばらくの間、乾くことはなかった。
異世界転生1日目
"始まり"とは即ち、"終わり"の延長に存在する一つの可能性だ。
それは絶対的な区切りであって、かつての道と再び交わる事は決してない。
そう、決して
こうして少女――佐藤愛の命と引き換えに、物語は新しい幕を開けた
異世界
そこは魔物――所謂モンスターと呼ばれる生物が独自の生態系を確立し、魔法と呼ばれる物理法則の埒外にある超常の力が存在する世界。
果たして愛は、何の因果でこの世界に転生したのだろうか?




