無音の暗殺者
――生きる
それは誰しもが、然も当然のように享受している、生物としての権利
しかし権利には必然に義務が付随する
藻掻き、苦しみ、死に物狂いで生にしがみつく義務が
時に無様に
時に無意味に足掻くそれを――
――きっとそれを、人は努力と呼ぶのだろう
◆◆◆
佐藤愛が新たな生を得て一日が経過した
突然の死と友人・家族との別れに対し、割り切れない部分は多くある。
けれど愛は、一先ずこの世界で生きることを決意した。
繋がりも思い出も、その全てを捨てる覚悟で。
未練はある。
後悔をするかもしれない。
それでも愛は、何の因果か手に入れた新しい命を精一杯生きようと決意した。
愛にとって、二度目の死という選択は是が非でも回避すべきものであったから。
ふとした拍子に思い出される得体の知れないあの感覚。
流れ出る血が徐々に体温を奪うとともにに、暗く恐ろしい何かに引き込まれて行くような絶望感。
あの途方もなく長く感じた一瞬が、何度忘れようと願っても、頭の片隅にこびり付いて拭えない。
まだ項の辺りにこびり付く死の残滓から逃れるように、愛は森へと繰り出した――
◆◆◆
陰鬱とした森の中。
湖の周辺に広がる幻想的で美しかった光景がまるで嘘であったかのように暗く不気味で、魔境と呼ぶに相応しい別世界。
周囲の巨木は樹齢を推し量るのも馬鹿馬鹿しくなるような大きさで、高層ビルが立ち連なる摩天楼を彷彿とさせる。
白灰色に染まる幹など、少なくとも大人が数人手を繋いだ程度では囲い切れない太さだ。
それが幾本も立ち並ぶことでこの森は形成されており、伸びた樹枝によって降り注ぐ太陽の恵みの殆どが遮ぎられる。
地上に届くのは針のように細い木漏れ日が僅かに射すだけだ。
もちろん、これだけ巨大な樹木が日光から得られる養分で満足することはない。
根からは土壌に含まれている水分や栄養分を貪欲に啜り、常に潤いが枯渇した大地は鋼のように固く、幹と同じく雪のように白い。
だが、その日照りで干涸らびたような地表の姿は無数の緑によって覆い隠されていた。
その正体は苔やシダといった、ごく少量の光と湿り気さえあれば育つことのできる植物やキノコをはじめとした菌類。
この様な養分の乏しい環境にも関わらず、奇矯な性質を持った植物や菌たちは所構わずびっしりと繁茂し、その勢力は地上に現われた大樹の根や幹を浸食している。
これによってただでさえ暗く薄気味悪い森にじめりとした湿気が加わり、より一層不気味さを演出していた。
独特な植生の織りなす何とも不思議な光景を前に、愛は童話の舞台として描かれる魔女の住む森を重ねた。
時折、何処からか聞こえる鳥の声は老婆の嗄れた声のように嗄れていて、一人森を行く愛を嘲笑っている気さえする。
埃を絡ませた蜘蛛の巣や遙か頭上から垂れ下がる蔦のカーテンに奇怪な姿をした植物の枝葉は、まるで亡者が黄泉の国へと誘うかのようだ。
大きく顎を開いた闇の先へ、愛は飲み込まれるように進んでいった。
――異世界転生二日目
愛が求めたモノは水・食料。
水の確保について愛が目を覚ましたのは湖の畔だったが、彼女がその水を口にすることは無かった。
生水には雑多な細菌に始まり、下手をすれば命を奪われかねない微生物が含まれることもあるという知識を愛が持っていた為だ。
詳しい知識などは決してない。
所詮はネットで得た中途半端な知識だ。
だからと言ってその知識の答え合わせのために、自らの胃腸を実験台にする蛮勇を愛は持ち合わせてはいない。
少なくとも、煮沸ができない現状では生水を口にすることは憚られたのだ。
だが、その選択は間違っていたのかも知れないと考えるようになったのは、転生して丁度一日が経とうとしていた頃――森の中からは窺うことの出来ない太陽が天頂に差し掛かっていた時だった。
森を歩き続けていると喉が渇く。
汗によって水分が失われ、喉の渇きが加速する気分だった。
あの時は色々と混乱していたと振り返ってみても後の祭り。
後悔は、いつも背後から迫って来る。
――異世界転生三日目
目覚めたときに着用していたのはワンピースのような貫頭衣一枚のみ。
素足のままで森を歩けば予想以上に体力を削られた。
慣れない長距離の移動。
筋肉痛でふくらはぎが張り、枝や小石で足裏が傷付く。
何か口にできるものをと考えて森に入ったはよかったものの、そもそも口にできる植物がどれなのか判別することが不可能。
黄土色に発光する拳大の果実。
燃え盛るような赤に染まる指先ほどの大きさの茸。
ターコイズブルーをした艶やかな草花。
どれも口に入れたいとは考えたくない代物だ。
鮮やかな色は毒を連想させ、触れるだけでも害があるのではないかと疑わざるを得ない。
さらに問題は続く。
森を歩き始めた当初こそ、木の実や野草らしきモノが疎らではあるが確認できた。
それが今となってはめっきりと数を減らしてしまっている。
それどころか動物の鳴き声や気配すら感じられない。
来た道を戻ろうにも周囲は同じ光景が広がるばかりで、進んでいるのかさえ不明。
八方塞がりの状態だった。
空っぽの胃がキリキリと食料の摂取を訴え、乾いた喉が水分を欲する。
ただ徒に時間だけが過ぎていく中、愛の頭の中には次々とネガティブな思考が浮かぶ。
――この森からは出られるのだろうか?
――私はここで死ぬのだろうか?
長時間の移動は足を鉛のように重くさせ、変化することのない風景は精神的な疲労をもたらす。
それでも愛は歩みを止めることはない。
それは偏に死への恐怖。
生き残るという確かな意思。
この二つを原動力にして歩き続けた。
諦めるという選択肢は欠片もなく、何かに取り憑かれたように、ただひたすらに歩き続けた。
◆◆◆
――異世界転生四日目
森へ足を踏み入れ、早くも三日が経過した。
未だに愛は森の中を彷徨っている。
加えて愛はこの三日間、まともな睡眠を取れていなかった。
陽が落ちるとどこからともなく聞こえてくる獣の咆哮。
ふとした拍子に風が吹きすさび、木々の枝葉が忙しく身を震わせる。
葉擦れの音一つするだけで意識は覚醒し、それまで感じていたはずの眠気は跡形もなく吹き飛んだ。
それら何ということもない単なる環境音にさえ、愛の恐怖心は掻き立てられ、眠りを妨げるには十分だった。
休息らしい休息と言えば、そこら中に乱立する巨木の幹に身体を預けるだけ。
歩くのに疲れれば立ち止まり、喉が訴えかけてくる渇きを無理矢理押さえつける。
愛の疲労はとうに限界を超え、もはや空腹すら感じられない。
次第に歩いている時間よりも休む時間が長くなり、肉体的にも精神的にも疲弊していた。
果てしなく続く巨木の群れ。
無心になって歩みを進める愛。
延々と変化の乏しい光景が続く中、愛が小さな異変を捉えたのは、まさに幾度目かも知れない休息を取っている最中だった。
愛は樹の根元に腰を下ろし、乱れた呼吸を整えていた。
その時、ふと視界の端を黒い何かが横切った。
上から落下してきたソレは、地面に激突すると同時に湿った音を鳴り響かせる。
恐る恐る音のした方向を見る愛。
振り向いた先にあったのは巨大な牡鹿だった。
それは大角鹿と呼ばれる魔物。
この魔物の特徴は、しなやかな筋肉に包まれた大きな身体と、雄は種特有の槍のように鋭い立派な角を携えていることだ。
その中でも、愛が目にしているこの個体はとりわけ巨大で、艶のある美しい毛並みは、如何にこの個体が優れているかを物語っているようであった。
焦げ茶色の毛皮、独特な捻れのある角、大型自動車に迫る程の巨体……。
しかしそのどれよりも、愛の目を引きつけれ止まない特徴がこの大角鹿にはあった。
それは吸い込まれるような黒だった。
どこを見ているのか分からない虚ろな視線。
乾いた眼球は光を全く反射せず、その瞳孔からは欠片も生気を感じられない。
それは突き刺すような赤だった。
半ばまで裂けた頸動脈から絶え間なく流れる血液。
生い茂る緑のクッションの上に広がりつつある赤黒い水溜まりは、色のコントラストも相まって強烈に愛の目に焼き付いた。
それらの情報は大角鹿が何者かに狩られ、ここまで運ばれてきたことを示している。
愛は素早く樹冠を仰ぎ見た。
しかしそこにはただ複雑に絡まり合った樹枝の群れが夜空の様に広がり、隙間から星のように細く小さな日光が零れるばかり。
(いや、違う)
よく見れば巨木の群れの一つに表皮が僅かに削れている樹枝があり、その木屑や付着していたと見られるコケがはらはらと落下している。
(ついさっきまで、あそこに何か居たんだ……ッ!?)
ソレに気づけたのは奇跡としか言いようがない。
音も、色も、空気の揺れも、さらには死角からという完全な認識外からの攻撃。
愛がソレに気づけたのは殺気を感じ取った為だ。
極限状態がもたらす研ぎ澄まされた精神が、己に向けられる害意を敏感に感じ取ったのだ。
半ば本能にも近い動きで咄嗟に身を屈めた愛だったが、何者かの繰り出す攻撃を完全に躱しきることは出来ず、颶風に巻き込まれた数本の毛髪が宙を舞う。
すぐさま崩れた体勢を立て直した愛は、攻撃を仕掛けてきた対象に目を遣った。
それはごく自然に、まるで端からそこに居たかのように、樹枝の上から愛を見下ろしていた。
全体のシルエットを例えるならば梟。
ただ、違う点を挙げるとするならば、先程の立派な牡鹿が可愛く見える程の巨体であることだ。
目測だけでも大角鹿の倍近くある。
全身を包む不思議な光沢のある羽毛は、薄暗い森に溶け込む深い闇色をしており、霞のように朧気な気配と相まって、ほんの瞬き一つの時間でも注意を逸らせば見失ってしまいそうになる。
そして一際目を惹くのが羽根の合間から覗く鉤爪。
暗殺者の扱うナイフのように、鋭利なそれは力を加えずとも獲物の肉を引き裂くことが可能だろう。
そう、あの牡鹿の首筋のように。
この魔物、影梟は、別名『森の暗殺者』とも呼ばれ、森での活動を生業とする者たちの間では特に恐れられている魔物だ。
獲物に致命傷を与える鉤爪は鋼鉄の鎧であろうと紙のように切り裂き、巨大な翼が巻き起こす突風は岩さえも吹き飛ばす。
だが、この影梟を『森の暗殺者』たらしめているものは鉤爪でも、ましてや大翼のどちらでもない。
特殊な構造の羽根と身に纏う風の魔法によって音もなく獲物に近づく隠密性と、一度狙いを定めたらどこまでも獲物を追い続ける執念深さ。
これこそが影梟の最も恐れられている所以だ。
故に『森の暗殺者』。
この魔物に狙われたが最後、その者に待つのは死。
そして現在、影梟の闇を凝縮したようにドス黒く、大きな瞳は愛を捉えて離さない。
(見逃してくれそうにないみたいだ)
逃げることは不可能だと覚悟を決めた愛は足元に横たわる巨木の樹枝を拾い上げる。
太陽と大地の恵みを一身に享受した樹枝は、鍛え上げられた鋼のような硬度を誇っていた。
手のひらにずっしりと加わる確かな重み。
丁度、長剣と同サイズのそれは不思議と愛の手に馴染む気がするが、相手が影梟であるだけに些か心許ない。
両者の間に静寂が訪れる。
襲撃者――影梟と愛の、命を対価にした鬼ごっこが幕を開けた。
大角鹿
等級:|上級
成熟した個体は3~4メートルの巨体を誇る。
雄の角は槍のように鋭く、外敵から身を守る武器としての使い道の他に雌を引きつける役割も持つ。
基本的に戦いを好まない性格なため、人が襲われることは稀。危険度は低い。
影梟
等級:|禍災級
別名『森の暗殺者』と呼ばれる魔物。
影梟の高い隠密性と乱立した木立の中を高速で移動する飛行能力を前にして、標的となった生物は己の死を知覚することなく、その首を刈り取られる。
この魔物に目を付けられたが最後、生きてその森から出ることは叶わない。




