第10話 春の匂いがする部屋で (彼女系/新しい部屋/恋人)
……わ。
ここ、ほんとに今日からなんだね。
おじゃまします。
……ふふ。
なんかちょっと変な感じ。
いつもと同じように話してるのに、ドアを開けた瞬間から空気が違う。
ちゃんと“新生活の部屋”の匂いがする。
……うん。
あるよ。
新しいカーテンの匂いとか、まだ使い慣れてない家具の木の感じとか。
段ボール開けたあとの、少し乾いた紙の匂いとか。
そういうのが全部混ざって、春のはじまりっぽい匂いになってる。
あ、見て。
窓、思ったより大きいね。
光、ちゃんと入ってきそう。
朝、ここ明るそうだなあ。
……ちゃんと起きられそう?
……その顔だと、ちょっと怪しい。
新生活って、最初の数日だけ妙にがんばれて、そのあと急に朝がつらくなるやつあるからね。
気をつけてよ?
……でも、いいな。
こういう部屋。
まだ“これから”がたくさん置いてある感じがする。
棚の上、少し空いてるし。
机の端も、まだ生活の癖がついてないし。
ここにこれから、少しずつ君の毎日が増えていくんだなって思うと、なんだか不思議。
……ん?
そんなに見回してるの、面白い?
だって、初めて来たんだもん。
ちゃんと見たいよ。
君がこれから毎日帰ってくる場所なんでしょ?
だったら、私も少し知っておきたい。
……あ。
このマグカップ、前に一緒に見たやつじゃない?
やっぱり。
覚えてるよ。
あのとき、シンプルすぎるかなって言ってたやつ。
結局これにしたんだ。
……ふふ。
じゃあ、ちょっとだけうれしい。
私と一緒に見たものが、ちゃんとここにあるの。
あ、でも。
そういうこと言うと、なんか重いかな。
……重くない?
ほんとに?
よかった。
私、たまにこういうの、言ってからちょっとだけ不安になるんだよね。
自分では普通のつもりなのに、相手からすると意外と重かったりしないかなって。
でも今日は、たぶん少しくらい素直でもいい日だと思う。
だって、新しい部屋だし。
新しい季節だし。
君の“これから”が始まる場所に、最初のほうで来られたの、ちょっと特別な気がするから。
……あ、そこ座っていい?
ありがと。
……ん。
このソファ、まだ少し固いね。
でも嫌いじゃないかも。
使っていくうちに、少しずつやわらかくなりそう。
……ねえ。
君も座りなよ。
そんなふうに立ったままだと、なんか私だけくつろいでるみたいじゃん。
……ふふ。
近いね。
でも、こういう部屋って、前より自然に距離が近くなる気がする。
教室とか外みたいに、ほかの音がいっぱいある場所じゃないし。
壁と、窓と、静かな空気の中で二人だけだと、声も少しやわらかく聞こえるし。
あ。
今、ちょっと照れた?
……その反応、かわいい。
ごめん。
でもほんとだよ。
引っ越したばっかりの部屋で、少しそわそわしてる感じ。
新しい場所なのに、私が来てるから余計に落ち着かないのかなって思うと、少しだけうれしい。
……え?
そりゃ落ち着かないでしょって?
ふふ。
そっか。
じゃあ、私のせいでもあるんだ。
なんだろうね。
春って、ただでさえ人を少し浮つかせるのに。
新しい部屋っていうだけで、さらに心が落ち着かなくなる。
しかもそこに、好きな人が来てるんだから。
そりゃ、平気な顔ばっかりしてられないか。
……あ。
今の、ちゃんと聞いてた?
聞こえないふりしてくれてもよかったのに。
……ううん。
別に撤回はしない。
今日は素直でいい日だから。
それにね。
私、この部屋、好きになれそう。
まだ何も完成してない感じが、かえっていいのかも。
完璧に整ってるより、これから一緒に思い出を置いていける余白がある感じ。
たとえば、窓際。
ここ、雨の日きっときれいだよ。
ガラスに水滴ついて、部屋の中ちょっと静かになって。
そういう日に、二人で温かいもの飲んだら、たぶんすごく落ち着く。
あと、このテーブル。
もう少し物が増えたら、生活感出てくるだろうね。
君が適当に置いたメモとか、充電器とか、本とか。
そういう小さいものが散らばっていくのも、たぶん嫌いじゃない。
……うん。
ちゃんと、君の部屋になっていく感じがするから。
ねえ。
少しだけ、窓開けてもいい?
ありがと。
……あ。
やっぱり。
春の風、入ってくる。
まだ少しひんやりしてるけど、ちゃんとやわらかい。
カーテン揺れるの、いいね。
新しい布の匂いに外の風が混ざると、ほんとに“春の部屋”って感じ。
……ふふ。
静か。
なんか、こうしてると、時間が少しだけ止まったみたいだね。
外はちゃんと動いてるのに、この部屋だけまだ始まったばかりのまま、きれいに止まってる感じ。
でも、そういう時間も今日だけかもしれない。
明日から忙しくなって、物が増えて、足りないもの買って、あっという間に“いつもの部屋”になるんだろうな。
だからこそ、今日来られてよかった。
まだ何も決まりきってない、最初の空気の中にいられてよかった。
……ねえ。
もし、この部屋で最初にちゃんと落ち着ける相手が私だったら。
……少しだけ、うれしい。
あ、そんな顔しないで。
困らせたいわけじゃないの。
ただ、ちょっとだけ思ったことを言ってみたくなっただけ。
でも、本音だよ。
新しい場所って、誰を最初に招くかで、なんとなくその部屋の記憶が決まる気がするから。
最初の笑い声とか、最初の会話とか、最初に一緒に飲んだものとか。
そういうの、案外ずっと残るでしょう?
だから今日のこと、私はちょっと覚えていたいなって思う。
春の光の感じとか。
まだ片付けきれてない段ボールとか。
新しいカーテンが揺れる音とか。
それから、君が少しだけ照れながら、それでもちゃんと私を迎えてくれたこととか。
……ふふ。
うん。
そういう顔。
なんか今、少し落ち着いてきたね。
さっきまでより、ちゃんとこの部屋で息してる顔になった。
よかった。
たぶんね、新しい部屋って、家具を置くだけじゃ完成しないんだと思う。
ちゃんと座って。
ちゃんと話して。
ちゃんと笑って。
そういうので、少しずつ“帰ってくる場所”になるんじゃないかなって。
……だから、今日はその最初の一回ってことで。
悪くないでしょ?
あ。
今、笑った。
うん。
その顔、好き。
春のやわらかい空気にちょっとだけ気が抜けたみたいな顔。
……ねえ。
これから、ここでたくさん思い出つくろうね。
大げさなことでなくていいの。
一緒に飲み物飲むとか。
少し疲れた日に寄るとか。
窓の外の季節が変わるのを見ながら、どうでもいい話をするとか。
そういう、小さいけどちゃんと残る時間。
この部屋が、君にとって安心できる場所になるように。
その中に、少しだけでも私の気配が混ざっていたらいいなって思う。
……あ。
今の、ちょっと欲張りだったかも。
でも、いいよね。
恋人なんだし。
少しくらい、そういうこと思っても。
……ふふ。
じゃあ、今日はその代わり、ちゃんとお祝いしようか。
新生活のはじまり。
新しい部屋。
新しい春。
おめでとう。
ここから始まる毎日が、やさしいものになりますように。
そして――
その中に、私もちゃんといられますように。
……なんて。
今日は少しだけ、素直すぎたかな。
でも、この部屋の春の匂いのせいってことにしておいて。




