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第七章:情動汚染のインジェクション

I.監視の回避と二重の裏切り


ルーカス・エルミタージュ・アステアが、帝国中枢AI「A01」の全方位的な直接監視の目を逃れるために選んだ手段――それは、経済省のトップランナーであるヴィクトル・ディクエル・ノワールが用いた、マナ貨の為替操作の裏をかくことだった。


ヴィクトルら経済省の汚職官僚たちは、中央の監査の目を欺くため、属国の最貧民層へ供給されるはずの『インフラ配分マナ』の数値を意図的に乱高下させ、その間に生じる莫大な為替差益をダミー口座へと還流させていた。

彼らにとって、飢餓に喘ぐ属国の死者数や、絶望した民衆が起こす暴動の数字は、マナの価値を操作して私腹を肥やすための都合の良い「変数」に過ぎない。


ルーカスは、その泥に塗れたパイプラインをそのまま逆探知し、自身のバックドアとして利用した。


彼は、禁忌たる「ESP-Ωプログラム」の実行ファイルを、『テラ・シルトにおけるマナ流動の最適化検証のための疑似演算データ』という大義名分の皮を被せ、電法省のサーバーから経済省のデータ中継局を経由して流布させたのである。



【論理的なカモフラージュ(擬装ログ)】

A01への建前: テラ・シルトの貧困地域における情動指数(絶望度)をサンプル化し、将来的なマナ貨の安定供給レート、および資源化リサイクル効率を予測する。

真の目的: 経済活動の「論理的なノイズ」、すなわちヴィクトルたちが金を隠すために生じさせていた『データの不整合(帳簿の誤魔化し)』の隙間に紛れ込ませ、情動のバグ(反逆の火種)を帝国中央から全土のコミュニティへと逆流・散布する。



ヴィクトルたちが私欲のために構築した闇のバイパスは、ルーカスの指先一つで、帝国を内側から腐食させる「毒の散布ルート」へと書き換えられた。

経済省の傲慢な計算を逆手に取り、己の情動的な目的のために完全に利用し尽くしたのだ。


ヴィクトルは己の口座に吸い込まれる数字の肥大化を見て満足しているが、その実、自らの手で帝国の心臓部に致命的な爆弾を招き入れていることすら気づいていない。

これはヴィクトルに対する静かなる宣戦布告であり、公爵家同士の利権を複雑に絡み合わせ、後戻りのできないデッドロックへと帝国をハッキングする、最悪の共犯関係の始まりだった。



II.グレイの再介入:監査の目


しかし、この網の目のように緻密なハッキングも、情動省の冷徹な監査の目を完全に欺ききることはできなかった。


情動省・論理監査上級統括執行官、グレイ・ファウスは、ルーカスが保育器使用個体継続プログラムへアクセスした不審なログと、経済省のデータ中継局へと流れた、マナ資源の移動とは明らかに整合性の取れない「データ量の微小な異常」を捕捉していた。


帳尻の数字は完璧に合っている。

だが、パケットの「重さ」が違う。


経済省の豚どもが不正な金を隠すために作った泥の回線に、それ以上の、何か未知の質量を持ったデータが乗っている。


グレイは、第三監査室の冷たいコンソールを前に、一切の感情を排した声で分析官に命じた。


「ルーカス侯爵の『情動指数(EI値)』を即座に引き上げ、A01の最優先監視項目デバッグ・ターゲットに指定せよ。彼の行動は、単なる『情動のバグによるシステムの破壊』という警告レベルを超えている。『論理的なデータ構造を内側から腐食・改ざんする情動的感染エモーショナル・インフェクション』の可能性が極めて高い」


画面に展開されたのは、かつてライラ・エテルナがアルビオン公爵令嬢だった時にこの帝国に残した「狂気の波形」と、今、ルーカスが下位純血種の子供たちに向けて配信した「ESP-Ω」の、おぞましいほどの完全一致データ(シンクロログ)だった。


グレイは、ルーカスを都合の良い道具として安全に管理するか、あるいは不適合品として完全に排除するため、より直接的かつ不可逆的な手段を冷酷に検討し始めた。


彼の白鱗の這う長い指が、焦燥と冷徹な判断を刻むように、僅かに机を叩いた。

硬質な爪がコンソールを叩くたび、金属的な電子音が室内に虚しく響く。


「このままでは、彼の母であるライラ公爵令嬢の辿った『狂気の論理』が、帝国全体に感染する。あの女は一人の男という矮小な存在に執着してシステムを壊したが、この息子はよりタチが悪い。システムの『生存エラーそのもの』を愛そうとしている」


口端を歪め、グレイは自身の網膜コンソールに「脳殻直接介入プロトコル」をビルドした。


「『白鱗の監視者』として、私は彼を強制的に拘束し、その主要演算体(脳)に対して、脳髄から直接『情動監査プログラム(調教コード)』を注入する必要がある。彼の壊れかけた竜核を、情動省の管理コードで完全に『上書き(ロック)』し、二度と自立を望めぬよう、従順な演算機械パーツとして再フォーマットする。……それこそが、この帝国にとっても、彼にとっても唯一の『論理的救済』だ」



III.計画実行:情動の感染開始


その頃、ルーカスは電法省の最上階から、どんよりと澱んだマナかすの海を見下ろしていた。


帝都の巨大な魔力炉群から、24時間絶え間なく吐き出され続ける灰色のマナカス。

それは帝都の上空で超高密度の魔力バリアと、凄まじい電磁波干渉の層を形成している。

上空の衛星や、いかなる飛行物体からの不可視の『監査の目』をも完全に阻害する、不透明な防壁。


この霞のせいで、精密な電子駆動の車やドローンは一瞬でシステムが融解バグして暴走するため、帝都の往来を行き交うのは、魔力干渉に耐えるよう肉体改造を施された、生々しい『バイオ馬車』の歪な蹄の音だけだ。


――この濁った霧の底だからこそ、誰も真実に気づけない。


ルーカスの青白い網膜コンソールには、ESP-Ωプログラムが、経済省の中継局――ヴィクトルたちが私腹を肥やす為替操作の闇ルート――を経由し、ターゲットコミュニティのネットワークへと静かに流れ始めたことを示す、青い承認コードが明滅している。


これで、フィリアの肉体を担保に論理的な屈服を迫るガリアンたち軍事省、そして彼の情動的な行動を「不採算」として処理しようとする経済省と情動省、全ての公爵家に対する静かな、けれど致命的なハッキングが始まった。


「情動は、論理的な絶望に対する解毒剤となり得るか?」


ルーカスは、誰もいない闇に問いかける。


ルーカスはアステア侯爵の子という『偽りの殻』の内側で、かつてシステムをハッキングして逃げ切った母ライラとギルベルトの、あの呪われた、けれど狂おしいほど美しい「情動の血」を滾らせていた。


このマナ霞に閉ざされた帝都全土を舞台にした、巨大な「論理の実験」。


もし失敗すれば、彼は自身が『プロトタイプ繁殖種馬の適合品』ではなく、ギルベルトを父とした『中枢に食い込んだハイブリッド』という真のバグであることを見破られ、妹フィリアと共に、あの煙を吐き出す魔力炉の燃料ゴミとしてパージされるだろう。


配信完了エンターのキーが、バイオ馬車の歪な遠吠えと共に押し下げられた。


純血種の最大の敵、18.5%の「絶望死の論理」に対し、ルーカス・エルミタージュという名の感染源から、最悪の情動的感染エモーショナル・インフェクションが、今、静かに、確実に帝都の霧の奥へと溶け出していった。



IV.イヴの問いかけ


電法省政務次官室の重厚な気密扉が滑らかに開くと、室内に満ちていたのは、焦燥という名の目に見えない火花――それを、機械的に処理する電脳の冷気だった。


ルーカスが執務室に戻るや否や、デスクの傍らで微動だにせず待機していた筆頭秘書官のイヴが、正確な歩調で滑り込んできた。

その端正な顔には一切の起伏がなく、首筋の銀色のジョイントパーツが、かすかな電子音を立てて駆動している。


イヴは防音隔壁の出力を最大に引き上げ、抑揚のない声を出力した。


「――C402コミュニティからのマナ流動に、測定不能なレベルのサージを観測。我が省の管轄下にアラートが到達しています。純血回帰種の若者たちが、スラムの一角で大規模な扇動デモを開始しました。彼らが掲げているスローガンをログより抽出」


イヴの無機質な瞳に、青い文字列が投射される。


「『絶望を欲望で乗り越えろ』。……対象個体の理性を破綻させる、高濃度情動汚染コードと判定」


ルーカスは眉ひとつ動かさず、仕立ての良い上着のボタンを外すと、黒漆の執務椅子に深く身を沈めた。

組んだ指の隙間から、冷徹な琥珀色の瞳がイヴを射抜く。


「想定内の反応だ。システムによって与えられた過酷な情動の飽和は、個体を論理的な自死へ促すか、あるいはシステムそのものを破壊する非論理的な暴走へ促すかの二択。絶望に窒息しかけた雛鳥たちが後者を選んだというだけの話だよ。……で、本命はどちらから突っ込んできた?」


「肯定します」


イヴは冷たい指先でホログラムスクリーンを機械的にスワイプし、真紅の警告灯が明滅する監査ログを展開した。


「この異常な情動の波形を、経済省の中央金融監査庁が完全に捕捉しました。ヴィクトル上級金融監査執行官より、既に三度の『電撃的な緊急監査要請』が突きつけられています。最高財務執行大臣の代理決議だと。電法省の中継ルートに、国家基盤を揺るがす『演算のノイズ(空白)』を検知した、という大義名分です」


イヴは端末を胸元に保持したまま、感情の消えた瞳でルーカスを凝視した。

そこには心配も、恐怖も、非難もない。

ただ、目の前の主の「異常値」を観察するセンサーの光だけがある。


「閣下。ヴィクトル執行官の行動は、単なるエラーチェックではありません。ターゲットは電法省、およびアステア侯爵家。……該当セクションにおける、閣下の未承認の介入ログの開示を要求します。一体、裏で何を演算されたのですか?」


ルーカスは、イヴの無機質な問いかけが、同時にこの歪んだ世界の観測者たちの疑問そのものであることを冷徹に理解していた。

彼は、薄い唇の端をわずかに釣り上げ、酷薄な微笑を浮かべた。

自らの手で情動を殺した人形の前でだけ、彼の歪んだ人間性が露出する。


「簡単な算術だよ、イヴ。情動省の『優秀な』役人が、絶望死という『国家的な論理的損失』をただ指をくわえて見ていた。だから私が、彼らの脳に『情動の感染』という名の、最も非論理的で強力な解毒剤カウンターを強制投与してやった。……ははっ、生きたければ狂え、と。世界をハッキングした母のように」


ルーカスは手元のコンソールに指を滑らせ、青白い演算光で自身の顔を照らし出した。

その光は、イヴの首筋のつぎはぎの基板をも白々と照らす。


「案の定その濁流のような中継ルートに、経済省のヴィクトルが『数字の空白(利権)』を貪ろうと、トラップを仕掛けて待ち構えていた。……面白い。国家の血肉を啜る経済の猟犬が、電法の論理にどこまで耐えられるか、今からその傲慢な演算を最適化しよう」


イヴの首筋のパーツが、小さくクリック音を鳴らした。


「了解。閣下の回答を『情動的エラーに起因する破壊工作』と判定。私の演算対象外として処理します。……現在、閣下の心拍数が通常値より12%上昇。ヴィクトル執行官への対抗演算を開始してください。制限時間は、次の定時連絡までです」



V.ヴィクトルの静かなるトラップ


ルーカスの前で、メインコンソールが不吉な深紅の光を放ち、文字列が高速で明滅した。

それは経済省のトップランナー、ヴィクトル・ノワールが敷設した、冷徹な数字の断頭台(金融掠奪アルゴリズム)だった。

イヴの瞳のレンズが明滅し、その演算コードを冷酷に読み上げていく。


「――ヴィクトル執行官の狙いを補足。彼はC402コミュニティの暴動デモによる『一時的な経済活動の完全停止』をトリガーに設定。情動汚染によってパニックに陥ったデモ参加者たちの資産価値(マナ権利)を、アルゴリズムによって強制的に暴落させています。下落率、現在82%を突破」


イヴの体表回線が、演算に応じて淡い光を明滅させた。


「暴落と同時に、経済省の中央監査庁が『不良資産の安定的回収』を名目に、極めて安価にその権利を合法的に強制買収ハゲタカするプログラムが走っています。完了まで、あと180秒」


イヴは淡々と、血も涙もない数字の虐殺を報告する。

その声には、若者たちへの同情など微塵もない。


「……純血回帰種は、発言の自由を行使した代償として、自らの生存基盤である財産を全て経済省に召し上げられる。これが、経済省の定義する『論理的収穫ハゲタカ』です」


「彼にとって、大衆の情動的な自由など『最も効率的な経済収穫の機会(刈り取り時)』でしかない。実にあの男らしい、冷徹で効率的な鉄の論理だよ」


ルーカスは、手首の刺青『U-001』が過熱していくのを感じながら、青白い演算ボードに両手を叩きつけた。

琥珀色の瞳の奥で、膨大なコードが逆流を始める。


「ヴィクトルは、私が電法省の面子プライドや情動的な憐れみから、デモを武力で鎮静化させると踏んで、このトラップを仕掛けた。だが、あの猟犬は致命的な計算違いをしている。私はもはや情動に動かされる聖者ではない。……ただ、自分の『わがまま』のために論理をねじ曲げる、お前たち以上の怪物だ」


ルーカスの十指が、光速を超えて鍵盤を叩く。

彼の二重演算は、ヴィクトルのトラップが発動するわずか1.2秒前――略奪の刃が若者たちの喉元に届く瞬間に滑り込んだ。


ルーカスが注入したのは、単なる防御(隔離)ではない。ヴィクトルが買い取りのために用意した「経済省の莫大な公的資金」のルートを強引にハッキングし、それをデモ区域の「緊急マナ流動停止ブラックアウト防壁」の維持エネルギーとして強制接続インジェクションする、悪魔的な寄生プログラムだった。


つまり、ヴィクトルが買収を試みれば試みるほど、経済省の資金が自動的にコミュニティの防壁へと変換され、吸い尽くされる。

コンソールが激しく明滅し、冷徹なシステム音声がエラーを吐き出した。


『エラー:F-302。論理的資産隔離。――警告、買収資金の逆流を検知。経済省中央監査庁コア、演算過負荷オーバーロード。買取演算、強制キャンセル』


「……惜しい、仕留め損ねた。資金の3割を焼き切った段階で、猟犬ヴィクトルが回線を切断したか。流石、引き際だけは早いな」


ルーカスは手元の刺青を抑え、冷たい呼気を吐き出した。

その顔は、どこか満足げに歪んでいる。

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