第五章: 不可逆の最適解
用語解説:
マザー:
始祖竜。不老不死。
帝国の礎。全ての竜はマザーに傅く。
彼女は言う、『竜は増えよ』と。
A01:
帝国中枢演算体。
現在の管理権限はマザーとルーカス。
I.妹との面会と皮肉
情動省管轄の『純血回帰種育成施設』は、無機質な純白の要塞だ。
施設全体が巨大なサーバーラックのように唸りを上げ、空調からは鎮静化のナノ粒子が散布されている。
この帝国では、出産は全て国管理の公的出生施設で行われる。
生まれた子はその日から施設が引き取り、純血種の母親が授乳を希望すれば職員が届けに行く——それだけだ。
高位の純血竜種ならば産んだ瞬間から関知しない。
人間の血を引くハイブリッドの母親だけが、人間の血の濃さゆえに、時折この白い要塞に通ってくる。
出入りは厳密に管理され、許可がなければ立ち入れない。
ルーカスが面会室に入ると、そこにはフィリアがいた。
彼女の肌には、異種淵源種特有の、わずかに彩度を落とした鱗の斑紋が浮かんでいる。
『調整済み』の兄とは違う、未加工のハイブリッドの面影。
ルーカスが二十四歳になるまで、二人は遊戯場Ωにいた。
竜の母と人間の父が、密かに生きていた幸せな時間。
あそこは管理された実験場ではあったが、確かに人間らしい家族の姿があった。
それがルーカスの知る「家族」の全てだった。
帝国に連れてこられてから、もう何周期が過ぎたか。
正体を隠したアレスと恋仲にあったフィリア。
遊戯場を出るのを拒んだ母の代わりに連れてこられたフィリア。
そのフィリアが、ついにアレスの子を、純血回帰種産んだ。
「……顔色が悪い」
ルーカスは言った。
それ以上の言葉が出なかった。
ルーカスの網膜コンソールへ、フィリアの身体パラメータが直接投影される。
頬に刻まれた青黒いアザ――それは、物理的な殴打の痕跡ではなく、アレスの『所有印』が、組織を静かに腐食させた痕跡だった。
「兄さん、ごきげんよう」
フィリアの口角が、プログラムされたかのように完璧な角度で上がる。
その表情は、彼女の瞳の奥底で渦巻く底なしの諦観を、高精度のマスクで隠蔽していた。
「……フィリア、その顔は。なぜ……アレス閣下の『資源提供』の対価は、安全の保障だったはずだ」
ルーカスが絞り出した言葉に対し、フィリアは自らのアザに触れ、冷たく笑った。
「ああ、これ? マーキングよ。すぐ再構成されるわ。わかりやすい配置印ね」
「なぜだ。君は純血回帰種を生んだ。論理的に考えれば、君は守られるべき存在だ」
フィリアは肩をすくめ、周囲の無菌室を指し示した。
「そうよ。衣食住も、生存インフラも完璧。私は遊戯場のゴミ溜めで廃棄されるはずだったのよ? それが、魔力炉送りを免れ、純血認定の子を産み、公爵家の資産の一部としてカウントされている。道具として機能する『場』があること自体、破格の待遇でしょう」
その言葉は、ルーカスの神経系を深く抉った。
彼の衝動的なバグは『救済せよ』と叫ぶが、フィリアの論理は『現状こそが最善』と最適化を完了させている。
「君は道具じゃない。君の情動は……そんな枠組みを凌駕している」
ルーカスは震える手で彼女の手首を掴もうとしたが、彼女はそれを微かに避けた。
「情動? 兄さん、あなたこそが危ういわ。あなたは情動を武器にできると錯覚している。でも、私は学んだの。情動とは、純血種の『支配欲』を充填するための最高純度の燃料よ。彼らは、私たちの悲鳴や歓喜をスキャンし、それによって自らの生存実感を確認しているだけ。……可哀想なのは、アレス閣下よ。支配なしには生を認識できないなんて」
「違う、情動は.....それは、君自身のっ」
彼女は身を乗り出し、幼子を嗜めるかのように優しく、それでいて通信傍受を避けるためにさらに声を低くした。
「あなたは情動を『飼い慣らした道具』として使うつもりね。でも、情動に飼い慣らされる道具になるのが、私たちの本来のプロトコル(運命)よ」
フィリアは、兄の顔を鋭く見つめる。
「私は自分の意志でここにいる。この肉体を、帝国論理の担保として差し出したの。兄さん、私を救おうなんて、非論理的な情動に溺れないで。あなたは、前執行官の最高の成功品として、道具の役割を全うすべきよ」
終了のシグナルが鳴り響く。
フィリアの背後、保育器の中で眠る純血回帰種たちが、ルーカスが開発した『安定化プログラム』によって、規則正しく鼓動を刻んでいた。
それは、妹が自己を犠牲にして生成した、支配者のための希望である。
「……お前はまた!」
ルーカスが叫んだ。
それは執行官の冷徹な管理コードではなく、感情の決壊だった。
(……speech.exe:文法破綻。原因:情動プロセスの割り込み)
コンソールに赤い同期エラーがポップする。
最適な身体活動が演算からずれている。
ルーカスは一瞬目を閉じ、呼吸を落ち着けた。
彼はフィリアの頬に浮かぶ、不規則な青黒い『所有印』に手を伸ばす。
「お前は、なぜそこまで……アレスに何を許しているんだ!」
フィリアはその手を、目にも止まらぬ速さで回避した。
彼女の動作には一切の迷いがない。
それは、考えるより先に体が動く“生存の反射”だった。
「兄さんも、結局手が出るの?みっともないわ。執務室で論理を演算していた時の、あの冷静さはどこへ行ったの?」
彼女は冷ややかに微笑んだ。
その表情が、ルーカスの神経系に強烈なノイズを走らせる。
脳内に埋め込まれた『防壁』が熱を持ち、数年前の記憶のパケットが、バイパスを破壊して溢れ出した。
――『母は行かないと決めました。ならば帝国のため、私が参りましょう』
あの日、ライラがアレスへの献上を拒絶したとき、フィリアはただそう言っただけだった。
それは、純血の貴族たちの影で、雑種として生きるための『最適解』を提示したに過ぎないのだ。
『ほう....?なら、この短剣で自らの顔を切れと言っても、か』
アレスが弄ぶように短剣を放り投げた時、フィリアは躊躇しなかった。
『お望みなら』
彼女は、美しかったはずの自らの頬を、機械的な正確さで切り裂いた。
鏡すら見ず、ただアレスの期待値を満たすためだけに。
ルーカスの視界が、赤く染まる。
目の前のフィリアと、短剣を握りしめた過去の彼女が重なり、その時の彼女の瞳が、今も変わらず自分を冷静に見下ろしていることに気づいた。
「救おうなんてしないで、兄さん。あなたは強すぎるのよ。制度をどう使おうが、私の勝手でしょ。これは最適解よ」
フィリアは、ガラスの向こう、保育器の中で眠る『純血回帰種』たちを、愛おしげに、しかし道具を愛でるように視界に収めた。
「私はこの『傷』を担保に、彼らの生存権を確保したの。兄さんが開発した安定化プログラムのおかげで、彼らは廃棄されずに済んでいる。あなたこそが、私のこの地獄の共犯者よ」
ルーカスは言葉を失った。
常時ポップコンソールの一つが、『CRADE:stable』を静かに表示している。
彼が守ろうとした『純血の希望』の安定プログラムこそが、妹が自らの肉体を切り売りして得た対価を、完璧なものに仕上げていた。
「……私のせいだというのか」
「いいえ。あなたは、あなたの役割を果たしただけ。私を『可哀想な妹』と認定し、救い出そうと足掻くことで、私を完璧な『成功したハイブリッドの物語』として完成させてくれた。でも別に、恨んでないわ」
フィリアは面会室の扉へ背を向けた。
「お兄様」
フィリアはわざとらしく呼ぶ。
「その泥だらけの偽善は、ここに置いていって。私は、私の『戦場』で生きるわ」
閉じていく防壁の向こうで、ルーカスは崩れ落ちた。
フィリアの足音が遠ざかっていく。
自分の指先が、あの時の金属の感触を思い出して震えていた。
妹の頬に残る傷ではなく、かつて自分がフィリアを「見ないふり」をして選択した、血のついた短剣の冷たい温度を。
面会時間は終了した。
フィリアは、帝国に“正しく”適応している。
「……私は」
揺籠の権限はすべて帝国側に移った。
ルーカスに許されたのは“初期型開発者”の名義と、前執行官が許可した“監視権”のみ。
規則的な施設の作動音が、帝国論理たるマザーの心音のようにルーカスを圧迫する。
乱れた演算を嘲笑うかのように、あるいは諭すかのように。
ーーそれは、お前の偽善ではないのか。
II.軍事省の論理
軍事省の論理は、暴力の最適化ではなく、”竜の美学としての暴力“そのものの維持だ。
その日の夕刻、電法省の会議室は、鉛のように重い空気に満ちていた。
会議の議題は、マナ資源の配分。
対峙するのは、電法省ルーカス、経済省のヴィクトル、そして、軍事省を代表する執行官だった。
軍事省の猛犬、大尉ガリアン・グレイヴ・ガンドゥルフ子爵は、他を圧倒する巨躯に、重厚な赤い鱗と装甲を纏っていた。
彼はアレス公爵の最も信頼する代理人であり、その瞳には、支配と暴力の冷酷な輝きがあった。
「ルーカス侯爵」
ガリアンは低い声で言った。
その声は、床を這う唸りのように響く。
空調から漂う冷却霧が、その重い声を冷たく分解しながら、会議室の空気を均質化し、広がる。
「貴方のテラ・シルトへの介入により、レートの再調整が行われた。これは、経済論理上は最適化されたかもしれないが、我々軍事省にとっては『マナ備蓄の軍事転用レート』に遅延を生じさせている」
「待て、ガリアン大尉」
ヴィクトルが口を挟んだ。
手元の演算卓の表面が赤く明滅する。
「経済省の演算では、テラ・シルトからの資源の安定供給を優先した結果、長期的に軍事備蓄への供給は安定する。短期的遅延は避けられないが、それはすでに通達している」
「数字の上では、だ」
ガリアンはヴィクトルを一瞥し、鼻で笑った。
肉体的強さを誇る彼にとって、ヴィクトルの冷静な論理は「身体的な弱さの表れ」と映る。
「ヴィクトル中尉。論理は机上で展開するものだ。我々軍事省の論理は『力』だ。マザーは、種の存続(繁栄)を第一とする。そして、種の存続は『敵対勢力の排除』にかかっている。故に、有用資源の最優先配分権は軍事省にある。貴方の机上の効率論は、戦争の論理を理解していない」
彼は再び、ルーカスに視線を戻した。
その視線は圧倒的な強者の余裕を湛えている。
「ルーカス少尉。貴方は、異種淵源種に肩入れしすぎる。ハイブリッドも帝国民だと言う前執行官の信念を継ぎ、彼らを資源化した功績は素直に賞賛しよう。しかし、貴方の行動は情動のバグにしか見えない。私は、貴方の判断権を疑う」
ガリアンは、テーブルの上をコツコツと叩く。
晶脈がその音を拾い、光脈が壁面を静かに走った。
マナ波動と電子信号は、無言のままA01の演算層へ吸い上げられる。
帝国の演算は、この場の空気すら監視していた。
「貴方の妹が、閣下の道具として純血回帰種を創出したことは、軍事的な“資産増強”に寄与した。その功績を鑑み、我々は貴方に『省庁間共同』を求める。具体的には、電法省のマナ配分決定権の一部を、軍事省に移譲する。代わりに、軍事省は以前から要求されていた電法省による軍事情報監査を一時的に承諾しよう。貴方の妹への不名誉タグは、“非論理的な損失”として、削除される可能性が高い」
「........それは、釣り合わない」
「閣下は別に手足をもいでいるわけではない。ハイブリッドも資源として適切に扱っておられる。ならば、何の問題があるのか。ルーカス少尉。随分と妹を心配しているようだ、顔でも見てきたのか?」
「........ガリアン大尉、何が言いたい」
「電法省の機械仕掛けの論理など、竜の戦場では通用しない。ルーカス少尉、貴方が触れたのは“最高統合戦略大臣たる閣下”の資源だ。竜界トップの資産に、無許可に手を伸ばした。閣下の第二婦人に過剰に肩入れをしているようだが......本当に“やましい動機”はないのか?異父異母は繁殖対象だ。ゆえに厳密に管理されている。あれは竜核を孕んだ貴重な母体だ。軍事省としては、扱いを誤られると困る」
ガリアンの言葉は、論理的な脅迫だった。
所有権の確かなハイブリッド(資産)に関与することの、竜界の法規制。
そして、ハイブリッドを秘匿しているルーカスにとって、反論不可能な詰んだ問い。
「.....っ...」
ガリアンの言葉が空気を裂いた瞬間、
ルーカスの胸腔の奥で、竜核が“異常振動”を起こした。
——バチッ。
胸骨の裏で、魔力回路が一瞬ショートする。
視界の端に、赤い同期エラーが滲む。
(……emotion.exe:異常値検知。プロセス強制終了だ。再試行……抑制)
だが、抑制プロトコルは起動しない。
ガリアンの「妹」という単語が、
ルーカスの神経網の“禁止領域”に触れた。
いつもなら瞬き一つで流せる嘲りが、異物となってそこにある。
心拍が跳ねる。
血液の魔力濃度が急上昇する。
竜核が、怒りの波形を誤認して過剰出力を始める。
喉の奥が焼けるように熱く、呼吸が浅い。
指先が震え、机の縁を掴んだ手が白く変色した。
『兄さんは強いから』
フィリアの幻聴が、聞こえる。
(……落ち着け。これは怒りではない。ストレス反応だ。情動ではない。情動では……)
しかし、身体は嘘をつかない。
ガリアンの嘲笑が、“敵対者の声”として脳幹に突き刺さる。
その瞬間、ルーカスの背骨を走る魔力回路が、まるで獣が牙を剥くように逆立った。
——殺意ではない。
だが、“排除”の演算が自動生成される。
視界の中心に、ガリアンの頸動脈の脈動が浮かび上がる。
演算が“最短で沈黙させる手順”を提示してくる。
(……やめろ。私は獣ではない。誇りある、電法省のっ)
だが、身体は止まらない。
椅子の脚が軋む。
膝がわずかに前へ出る。
筋肉が“跳躍”のために収縮を始める。
その“刹那の殺意”を、ガリアンは見逃さない。
巨躯がわずかに沈み、赤い鱗の装甲が密着し、頸部の角度が“反撃への最短距離”に変わる。
完全な防御姿勢。
竜種の戦場反射。
けれどその瞬間、ルーカスの頭蓋内で、20基の補助演算脳が一斉に警告を上げた。
(……攻撃動作に魔力を回してはいけない。サブサーバーが揺らぐ。保育器の監視が、途絶えるっ……!)
遊休サーバー帯域に、1bitのノイズが走る。
(……駄目だ。あの子たちの生命維持が一瞬でも乱れる可能性が....っ)
ルーカスは、自分の身体の“初動”を理性で強制的に停止させた。
筋肉が悲鳴を上げ、魔力回路が逆流し、膝がわずかに震えるのを、力技で押し殺す。
そのコンマ一秒で、ガリアンの瞳から警戒が霧散した。
彼は肩をわずかに緩め、その巨体を椅子に再び預けて鼻で笑う。
「……終わりか?少尉」
まるで“期待外れの玩具”を見るように、息を吐く。
「今のが貴様の“殺意”か。反応速度は悪くない。だが——」
ガリアンは机を指先で軽く叩いた。
「所詮は電脳の金庫番だな。回路が俺の魔圧に負けたか?それとも“電子信号の安定“とやらが最優先か。牙を抜かれた竜核など、脅威にもならん。少尉」
「.......」
ルーカスは応えないが、ガリアンの嘲笑は止まらない。
「竜らしく噛みつくかと思えば、この程度で終わりとはな。やはり貴様は旧神たる殿下の後継者に相応しくない。所詮は生きた演算機」
ガリアンの勝利宣言の直後。
廊下の向こう、重い軍靴の音が一度だけ微かに響いた。
(——あの魔力圧。ランスロットか)
補助演算脳が危険度Aを点灯させるより早く、ルーカスの胸腔がわずかに縮んだ。
(……来るな。今は、来るなよ)
あの若き戦神は、場をかき乱す。
ただでさえ狂っている演算予定が、今度こそ破綻する。
それに。
弟に無様な姿を見せたくなかった。
足音は、会議室の前でぴたりと止まった。
ガリアンは気づかない。
誰も気づかない。
ルーカスだけが、その沈黙の意味を理解していた。
彼の介入基準は“最適化”。
(お前はフィリアのことを、どこまで知っている?竜界倫理で、姉を、継母を、“最適解”と割り切るのか?)
足音は、静かに遠ざかっていった。
ルーカスは机の下で震える指先を押さえつけながら、胸の奥でひどく冷たい演算がひとつ、
ゆっくりと沈んでいくのを感じた。
(……ああ、予測は狂ってばかりだ。だが、本当に狂ってるのは)




