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第194話 逡巡

惟任光秀(明智光秀)がその重臣たちに叛意を打ち明けていた頃、その進路上にある老の坂にひっそりとひとつの人影がありました。


太田牛一マタスケが光秀の謀叛を予想し、確認のために潜んでいたのでした。


ただ、光秀が本当にやって来るか確認した後、どのような行動をとるかでマタスケの心は揺れていました。


信長に伝えるべきかどうか。


逡巡のなか、夜は更け、そして明けていこうとしていました。

 6月2日。

 歴史は好きでも年号や日付を覚えるのがとにかく苦手だった俺が、本能寺の変があったこの日だけはしっかりと記憶していた。

 年号までは覚えていなかったが、武田家を滅ぼしてわずか数ヶ月で織田政権のあっけない崩壊を迎えることも。


(それが・・・間もなくか。)


 俺は真っ暗な山中でやぶ蚊に悩まされながら、じりじりとその時を待っていた。

 本能寺の変が本当に起こるとすれば、光秀の軍はこの老の坂峠を夜のうちに通るはずだった。


 このところ、寄親である丹羽長秀は四国攻めの副将や備中へ出陣する光秀に代わって徳川家康や穴山信君らの接待といった役を次々に下命され、寄騎・家臣ともども多忙を極めていた。

 寄騎である俺も近江国番場での接待や大坂への物資搬送などで近江~京~大坂間を忙しく飛び回る日々を送っていた。


 そんな中、あの運命の日が刻々と近づいていることが、頭の片隅で黒雲のように広がって離れなくなっていた。

 本能寺の変は本当に起こるのか。


 それを確かめるため、俺は適当な用事をつくって京へ入り、ひそかに情報を集めた。

 俺が京へ入ったとき、すでに織田信忠は入京していたが、信長は安土を動いていなかった。

 徳川家康や穴山信君は短期間京で滞在した後に大坂や堺の観光へ出かけていて、供廻りも少なくのどかなものだった。

 光秀の領国では戦支度がさかんに行われているが、それは信長の命令によるものなのだから当たり前の話だった。


 そんな話ばかりを聞かされると、実際には何も起こらないのではないかという気もしてくる。


 俺が戦国の世に放り出されてから、歴史の流れはおおむね俺が知っている動きをたどっている。

 俺が記録をつけることに徹して歴史の改変を行うつもりがないこともあるが、もうひとりの転生者であるヨシロー(羽柴秀吉)のスタンスも影響している。

 ヨシローは史実の秀吉になり切ろうと邁進しており、今や俺以上に戦国に溶け込んでいると言っても問題ない。

 2人ともが無理に捻じ曲げるつもりがないのだから、変わりようがないと言うべきかもしれない。


 ただ、これまでそうだからと言って、本能寺の変が必ず起こるとは限らない。

 一見すると、起きそうにないと言うのが俺の実感だった。


 織田家の勢威はかつてないほど高まり、信長の「絶対王政」はますます安泰に見える。

 光秀にしても相変わらず重要な地位を占め、君臣の仲が極端に悪化したようには見えない。


(現代の説では光秀が信長にイジメられたから裏切ったとかいうものがあったけど、ちょっと眉唾やな。そんな話があったら、織田家中や京でも噂になってるはず。けど、そんな話は聞いたことがない。)


 そんなことを考えつつ、一応京ですべき仕事をこなしていた俺のもとに驚愕すべき知らせが飛び込んできたのは、天正10年(1582年)5月29日の夜のことだった。


(信長が上洛したか・・・しかも、本能寺に。)


 俺は一気に緊張を覚えた。

 前提条件が整ったのだ。


(それにしても、これほど軍事的にエアポケットができることも珍しい。)


 信長は数十人の小姓衆のみを連れて上洛した。

 10日ほど前から滞在している信忠が従えているのはせいぜい2百人ほどに過ぎず、京に滞在する軍事力と言えばほんの3百人ほどに過ぎない。

 広い織田領のど真ん中に、織田政権のトップとその後継者が丸腰でいるに等しかった。


(もし光秀がすでに叛意を持っていてこの状況を知ったなら、動いても不思議はない。あの男は頭が切れるから、手際よく京を包囲すれば織田家のツートップを葬りさることができるとすぐさま気づくやろう。実際、光秀の指揮能力を考えたら、それくらいの芸当は難しくない。すぐに確かめんと!!)


 俺は夜が明けてから実際に本能寺に行き、信長滞在の報告が事実であることを確認した。

 屋敷に戻って身支度をし、馬を引き出し飛び乗ると、一路北西に向けて駆けだした。

 光秀が謀叛を起こすなら、人目につかぬよう夜陰に紛れて京へ近づくに違いない。

 そして、その場合は夜通し老の坂峠を越えて京の北西へ出、そこから市中へとなだれ込むはずだ。

 ならば、老の坂で待っていればはっきりするだろう。


 ひとりで馬を飛ばしたこともあり、老の坂峠についた頃はまだ辺りは明るかった。

 ちょうどこの峠の辺りはわずかばかり標高が低く、人が行き来するにはまだしも条件がいい。

 京は西・北・東の三方を山に囲まれており、山陰地方へ行こうと丹波へ入るにはどこかで山を越えて行かねばならないが、その場所としてかつて朝廷が目をつけた場所が老の坂峠だった。

 狭い峠道ではあるが、山陰道が通っていた。


 老の坂峠は、京の西北にまたがる大江山のなかにある峠のひとつでもある。

 大江山と言えば、平安期に酒呑童子という化物が巣くい、都周辺の人々に害をなした場所として有名だ。

 もちろん酒呑童子なる怪物が実在したとは考えにくく、恐らくは実際はここを根城にしていた盗賊団か何かが災厄をもたらしてはずだ。

 ここが悪の巣窟となってしまったのは、難所ながら山陰へ向かう人が必ず通らざるをえない場所であったからだろう。


 俺は目立たぬ場所に馬をつなぎ、麓を広く確認できる場所を探して確保した。

 後は待つだけだ。

 ただ、本当に来るかわからない待ち人を待つうち、やはり光秀が謀叛を起こす動機について考えてしまう。


(細かく蓄積していった結果という可能性は捨てきれんけど、いじめや怨恨が原因とは考えにくい。それと、誰か黒幕がいるというのもないかな。会ったときの印象や行動なんかを見た感じやと、光秀は頭が良くて教養人やけど、野心も大きいように思う。誰かにそそのかされて動くような人間には見えんな。)


 何しろ、光秀には主を裏切ったという前科がある。

 旧主である将軍・足利義昭と織田信長の対立が決定的になったとき、幕府奉公衆という出自でありながら義昭を見捨て、織田家臣として生きることを選んだ。

 その後、織田家随一の出頭人(出世頭)と言われる地位に登ったのは周知の事実である。


 キャリアの分かれ道で光秀は自分の野心によって行動し、より高い地位を得た。

 そこに誰か第三者の意思は感じられない。

 透けて見えるのは、自分自身への強烈な自信と飽くなき向上心だ。

 もし誰か高貴な存在と連携することを考えたとしても、それはその権威を利用するためであろう。


(それに、この時代の通信手段を考えたら、密に連絡を取り合うことは難しい。現実的な話やない。電話もパソコンもないんやから、今回みたいな一瞬の好機に判断を共有することなんてまず無理や。)


 結局、光秀が謀叛を起こすとしたら、まず自分自身の野心のためだろうと俺は結論づけた。

 そんなことを思ううち、異変ははるか下方で生じた。

 辺りを夕闇が染め、遠く亀山城下にちらほらと灯りが灯りはじめたのが見える。

 ただ、それとは別に麓でひとつまたひとつと次々に光が増えていく。

 最初は集落の灯りかと思ったが、それにしては互いの間隔が狭い。


(松明の火かもしれん。となれば、この後峠に向かってくるやろ。少し様子を見に行くか。)


 不審な火があるというだけでは、軍勢かどうかわからない。

 俺は峠道を下り、確認しに行くことにした。

 何かあったときにすぐ逃げられるよう、馬を曳きつつ進む。


 やがて、はるか前方から物音が聞こえてきた。

 砂利を踏む音、金属のこすれる音、かすかにざわざわと人声のようなものも聞こえてくる。

 どうやらひとりふたりではない、もっと大勢の集団のようだ。

 いずれにせよ、この時間に大勢で登ってくるなど、地元の民ではあるまい。

 おそらく光秀軍の先鋒部隊だろう。


 俺はすぐに馬にまたがり、その場を離れた。

 とりあえず京へ向かって馬を走らせる。


(さて・・・どうする。光秀の謀叛はほぼ間違いないやろ。問題はこれを信長に伝えるかどうか・・・。)


 風の音を聞くともなく聞きながら、俺は迷い続けた。


 ここ数年の織田家中における信長の酷薄な振る舞いには疑問を感じていた。

 おかげでピリピリとした空気が常に流れ、外観ほど織田家内部はうまく行っているとは思えない。

 ただ、だからといって見捨てるのか。

 信長が魅力的な人物であることは変わらない。

 彼がつくっていく新しい日本の形を見てみたいという思いもある。


 しかし、伝えるとすれば、なぜそれを知ったのかうまく説明できない。

 それに聞き入れてくれたとして、そこで歴史が変わってしまう。

 それが果たして良いことなのか。


 前から漠然と考えていたことではあるが、この土壇場でも悩みは尽きない。

 答えが出ぬまま、ただ馬の蹄の音だけが夜道に響いた。

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