その七 生け贄 1
日曜日の来るのが怖かった。
御影と敦子のひそひそ話を聞いてしまってからの僕は、心の中で社会的常識と暗愚な慄きとの戦いを繰り返しながら日を送った感がある。
いや、言葉のとおり真に受けて、(((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル してたんじゃないぞ。
「生け贄」が言葉のあやだってことはなんとなくわかる。それは察せられる。
いくらなんでも言葉通りであるはずがない。そうだったら僕の身が危ないし。
でも……。
二人のあの口ぶり。「生け贄」という言葉をやり取りするときの、いかにもという感じで声をひそめ聞かれるのをはばかる様子(しっかり聞こえたけど)。
儀式……生け贄の儀式……入団者の生け贄の儀式。
「生け贄」という言葉から連想できるあらゆる事案が懸念された。
『ハムナプトラ』、『アポカリプト』、『インディ・ジョーンズ魔宮の伝説』……それまで見た映画のさまざまな流血場面が脳裏に去来する。
大丈夫だろうな、まさか大丈夫だろうな。
21世紀だし、日本だし、市街地でのことだし、現実だし……。
しかも入団の儀式があるのは昼前だ。小さな子を含む信者の面々が揃ったあの礼拝所で、笑い出すのをこらえて苦しむことはあっても、ホラー映画のようなおぞましい出来事が待ち受けてるわけがない。
よもや我が身がバーベキューの具材になるとかゾンビ化した会衆に囲まれ、生きながら食われるとか、ひそかに案じるような事態がこの身に起こりはしないよな。そういうのって劇画の中だけだろ。
かくたる次第で、日曜日が来るのを人生でこれほど恐れたことはない。
それでも出かけるとは我ながらどうしたもんだろう。
僕は朝十時の礼拝に間に合うよう身支度を整えた。支部長は念入りに身を清めてくるよう言ったっけ。その通りに、朝シャワーを浴びてリフレッシュすると、大人びた感じに髪を撫でつけ、ネクタイを締め、スーツを着込み、自分なりに正装した姿になった。
階下に下りていくと、母が即座に反応した。
「あら、デート?」
「なんでそう言う、お母さん?」
「その服装とおまえの顔。女の子と大事な約束があると見た」
母はなにか誤解してる。でも本当のことは明かせないし、勝手にそう思ってくれるなら好都合だ。しかも違った意味で効能があった。
「お小遣い、足りてる? 臨時のボーナスあげようか?」
いや、くれるというならもらっとくけど。
あれ、一万円も? いいの?
母は楽しんでらっしゃいという感じでウインクしてみせた。
この母親、善良だが、息子の苦悩がわかってない。
表に出ると、いつもの環境があった。
まばゆい光に包まれた日曜朝の住宅地、静けさのうちに喧騒を予兆させる空気に身をさらし、平穏な景色の一部として溶け込んだ自分を感じながら道を行く。
デートに行くのか他の用事なのか、すれ違う女の子たちがみんなお洒落をし、それぞれ魅力的に見える。
「おはよう」と呼びかけると向こうも、「おはよう」と返したり会釈したりで好意的に反応する。それがまた、理不尽な思いをいや増しさせた。
なぜ、あの娘たちのうち一人でも傍らにいないのだろう。それは雑作もない、きわめて自然なことなのに。
なんて気の重さだ。
この素晴らしい日曜日、デートに出かけるのがふさわしい服装でカルト教団の入信の儀式に出席って……。
まったく、やるせない思い。それも、待ち受ける「生け贄の儀式」が何なのかに怯えながら。教団支部に行けば行ったで、御影からそっぽを向いて迎えられるんだ。
ああ、神様。いや、ダラネーナ教の神じゃなくて。
それにしても、黒石御影。
家の中ではよくしゃべった。全然おとなしくない。活発に動き回る。そして我がままなくらい、臆面もなく自分を主張する。
御影の友だちで教団員の志摩敦子から聞いた、狂信に染まった家庭で虐げられる、愛に恵まれない少女というイメージは崩れてしまった。
言ったことと実際とがぜんぜん乖離してるじゃないか。
それでも、敦子の話は根底では正しく、御影のおかれた状況を的確に捉えてるかもしれない。
御影が日頃から、自宅であんな風に性格をあらわにするからといって、彼女がまた学校に行けば、みんなに知られるとおりの寡黙で引っ込み思案な少女のイメージを通し続けるだろう。
これは、自分を偽ったとか別人を演じてるというのとは違う。
三田のおねえさんの心理学講義によれば、厳しい締め付けを課されて育った家の子にはありがちなんだそうだ。
つまり家の中で無意識のうちに感じる圧迫を外側に投影し、本来は自分の家族に対してもつべき認識を世の中に向けることになる。そうすると、巷の人々が自分に悪意を抱いてると感じるのだ。だから自分の家から一歩出れば、敵意と危険が満ちた世界に身をおくような、臆病な態度で警戒的に振る舞うという。
しかもおねえさんによれば、これは特別なものじゃなく、どんな人でも多かれ少なかれ持ってる性向だという。
むずかしいこと書いちゃったかな?
ようするに黒石御影というのは、彼女の家があのままであるかぎり彼女もまたあのままで、家の外で本来の自分をさらし屈託なく振舞うようにはならないってことだ。
さて。
電車に乗り、大野小町の駅から歩く。
妙なもので、この教団支部への往路に関しては妨害を受けそうな気がしないし、現に何も起こらなかった。
日曜日ということもあり、道中で、数え切れないほどの女の子や女の子と一緒に歩く男どもとすれ違い、そのたびに一種独特の胸の痛さと癪な思いを味わいはしたが。
さあ、目的地に着いたぞ。
聖ダラネーナ協会(「教会」じゃない)大野小町一丁目楽園通り支局。
どう見ても、さびれた商店街の店舗が分不相応に背伸び、カルト宗の聖殿を気取っただけの建物だ。通行人の一人として好奇のまなざしを注ぎつつ通り過ぎるのがふさわしい。それがまさか、自分にとって馴染みの場所になるなんて。
チン、コーン。
「守屋護です」
「あ、守屋くんね。どうぞ、入って」
礼拝室には黒石夫妻の他、何人かの信者がすでに来ており、到着した僕を親愛の念をこめて迎えてくれた。仲間として見られるようになったのはあきらかだ。御影の姿は見えないが、志摩敦子がいた。
心なしか、お洒落してきたように感じる。華やいだ色のワンピースに、ポニーテールをリボンで結わえ、可愛く見せようとしてる。
なにより僕への接し方が積極的だ。当たり前のように、僕の隣りに寄ってきて腰かけるし、香水の匂いもこの前と違う。
聞けば、母親より一時間早く来て、礼拝室の掃除やお昼の会食の下準備を手伝ってたという。
「わからないもんね」
敦子は誰に言うともない調子で、ごちた。
「守屋くんが入信だなんて、先週の日曜には思いもしなかった」
そうだろう、そうだろう。僕もだよ。
まったく、この一週間で人生は急転回した。学校では疫病神扱い、そのうえ登校もできない有様だ。ネットでは日本中から叩かれてる感じで、味方がない。そして最愛のおねえさんが食中毒で入院する身なのに見舞いにも行けない。
もとをたどれば、黒石御影という風変わりな同級生のせいで。
その御影は思ったとおり、奥に引っ込んでる様子だ。いよいよ午前の礼拝が始まるまで出てこない気で満々なんだろう。
十時になり、日曜礼拝が始まった。
今度は御影は、時間通りにあらわれた。
その姿に、ハッと息を呑んだ。
盛装している。インドのサリーと神道の巫女の装束を混交させたような、なんとも名状しようがない、しかし美しい長衣。教団の儀式で特別な役割を受け持つ者が身にまとうものらしい。
それでも御影にはよく似合うというか、自分のものとして着こなしていた。髪もそれらしく束ねてるが、まるで違和感がない。女子学生の姿で教室の片隅にいるよりよほどさまになる。
学校などでみせる態度を知ってても、まったく別の美貌の少女として愛しさを感じそうなほどだ。敦子によれば、「御影ちゃんに憧れて入団してくる人が結構いる」らしいのだが、同意したくなる。
だが御影ときたら、例によってこちらの居場所を確認しただけで、あとは見向きもしない。
祈祷のやり方は前とおなじ。ただ、いっそう賑やかだ。平日の夕方礼拝の時よりずっと人が多く、老若男女あわせて五十人くらいいる。ここの教団支部に属するほとんどの信者が揃ったようだ。しかも、ちゃんとした服装で来てる。
カーン、カーン、カーン!
「七難ボジャイ、八苦ダラネーナ!!」
「何とぞ我らから七難八苦を退け、九死に一命を授けたまえ!!」
チーン! ポコッ!
誰もが真剣に祈祷を朗誦する厳粛な熱気の中、吹き出すまいとする努力、その苦しさを理解してくれたのは傍らの敦子だけだった。
絶対に粗相は許されない。ちょっとでも笑ったりしたら信仰の度合いを疑われてしまう。
今日は重大な日。この僕の入団審査の日なのだ。
祈祷が終わり、黒石支部長のボジャイ様や教団支部にまつわる近況報告が続いた。
そして、いよいよ――。
「さあ、皆さん。この時、わたしたちに救いの傘を差し伸べ、加護してくださるボジャイ様への感謝の印に、生け贄を捧げましょう」
生け贄……。
そら、きた。
ついに「生け贄」という言葉が、現実に、支部長の口から、衆目の前で発せられたぞ。
ところが誰も動じない。それどころか人々は黒石氏の音戸に合わせ、教団聖歌のひとつ『生け贄の歌』を唱和し始めたのだ。
あ~あ~あ
大切だから捧げます
失くしたくない 離したくない 別れたくない 奪られたくない
命のように大切なもの
生け贄として捧げます
ボジャイ様、どうぞお召しを
わたしとよりもあなたとあれば、価値も命も永遠に
あ~あ~あ
僕は不安げな面持ちで(敦子があとで、そう見えたと言った)周囲を見まわしたが、狂信的な熱気や殺気などヤバさはすこしも感じられない。いるのは従順でおとなしく、慎み深い人ばかりだ。
でもみんな、ふところやカバンからあるものを取り出してる。
僕は目を見張った。
人の顔だ。人の顔が見える。誰もが見覚えある、あの人の顔を手にしてる。
福沢諭吉。
ほとんどの人が一万円札を出して握ってるのだ。
人々は手にもった紙幣を、人伝いに回ってきた募金箱のようなものに収めていく。これがつまり、ボジャイ様に「生け贄」を捧げる儀式。
「生け贄」って……何のことはない、教団への献金のことだった。
敦子の話だと、大昔は山羊など家畜をダラネーナ神への貢ぎ物に捧げ、神殿で生け贄として捌いたが、いまでは社会事情にふさわしく現金を供出するようになったのだという。
「生け贄っていうから何事かと思ったけど、教団への献金のことなんだ」
「ふふ……そうよ。何だと思った?」
「いや……祭壇の前で誰かを縛りつけて、心臓くり抜いちゃうとか……」
敦子はしなを作るように笑った。愛らしく見える笑い方を鏡の前で研究し、実践してる感じだ。
「あり得ないでしょ。いくらなんでもね、うふふふ……」
( 続く )




