第4話 光の眩しさに目を背けず
公開オーディションの勝利から数日。舞台芸術部の練習は、文化祭本番に向けて熱を帯びていた。
だが、顧問である益田塔子の心だけは、どこか宙に浮いていた。
放課後、渡り廊下の陰で待っていた「その人」の姿が、頭から離れないからだ。
「久しぶりね、塔子」
変装を解き、サングラスを外した顔。目元に刻まれた微かな大人びた陰影以外は、十年前と変わらない。国民的人気アイドルグループ『ルミナス・ガールズ』の絶対的センター、星野美咲だった。
◇
「テレビで犬山北高校の部活が取り上げられてるのを見てね。顧問の名前を見て、まさかと思ったら……本当にあなただったんだ」
学校近くの古びた喫茶店。美咲はアイスティーのグラスを指で弄びながら、真っ直ぐに塔子を見つめていた。
「あのオーディションの舞台、影から見てたよ。……相変わらずね。あなたの書くメロディも、作る世界観も、やっぱり人を惹きつける」
「美咲……私は、もう関係ない人間よ」
塔子は伏し目がちに言った。「私はマイクを捨てて逃げた。あのドームツアーの最終日、プレッシャーで声が出なくなって……あなたやファンを裏切って姿を消した弱虫よ」
「逃げたなんて思ってない!」
美咲の声が少し強くなった。テーブルを挟んで、美咲の手が塔子の手に重なる。
「あの時、あなたが消えてから……私はずっと一人でセンターを守り続けてきた。でもね、塔子が隣にいないステージは、どれだけスポットライトを浴びても寒かったの。あなたの音楽があったから、私は歌えていたんだよ」
美咲の瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。
「私は今、歌う意味を見失ってる。事務所との契約更新も、ソロ転向も、全部どうでもよく思えて……。だから、あなたに会いに来たの。塔子がまた音楽に向き合ってるなら、私の止まった時間も動くかもしれないと思って」
◇
翌日。特別講師として美咲を音楽室に招いた舞台芸術部は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
「本物の星野美咲……!?」「嘘でしょ、テレビの中の人じゃん!」
大騒ぎする隼人や部員たちを余所に、結衣だけはじっと美咲を見つめていた。
美咲は部員たちの稽古を一通り見つめると、優しく、しかしプロとしての厳しい目線でアドバイスを送った。
そして、劇中歌の伴奏を弾く塔子の元へ歩み寄る。
「塔子。昔みたいに、私と一緒に一曲弾いてみない?」
「え……?」
「部員のみんなに見せてあげようよ。『表現する』ってことが、どういうことなのか」
美咲がピアノの横に立ち、塔子は戸惑いながらも鍵盤に手を置いた。曲は、かつて二人が共同でつくり、デビュー初期に歌っていた懐かしいバラード。
塔子の指が奏でる繊細なイントロ。美咲が息を吸い込み、第一声を放つ。
——完璧な歌声。
朗々と響く声量、感情を揺さぶる表現力。これが日本トップに君臨するアイドルの力か、と部員たちが息をのむ。
しかし、二番に入った時だった。
塔子の指が突然カタカタと震え出し、間違った音を叩いた。
「あっ……」
途切れる演奏。過去のトラウマ——超満員のドームで声が出なくなり、指が動かなくなったあの恐怖の感覚が、フラッシュバックとなって塔子を襲っていた。冷や汗が吹き出し、ピアノの鍵盤が真っ黒な底なし沼に見える。
「……やっぱり、ダメね。私は、ステージに立つ資格なんて……」
うつむき、鍵盤から手を引き抜こうとしたその時。
「——先生!」
叫んだのは、結衣だった。
結衣はまっすぐに塔子の元へ駆け寄ると、両手で塔子の震える手をしっかりと握りしめた。
「先生、思い出してください! オーディションの時、先生は私に言ってくれましたよね。『上手く歌おうとしなくていい。伝えたい言葉をひとつだけ乗せて』って!」
結衣の瞳から、ボロボロと涙がこぼれ落ちる。
「私、声が出なくなった時、世界中で自分だけがひとりぼっちだと思ってました。でも、先生が私を見つけてくれた。先生のピアノがあったから、私はもう一度歌う勇気をもてたんです! 先生の音楽は……逃げてなんかいません!」
「水瀬さん……」
「そうです!」隼人が叫ぶ。「益田先生のピアノがなきゃ、俺たち踊れないっすよ!」
「先生の作る音が、僕の物語の心臓なんです」(悠真)
「あなたの光が、私たちの舞台を照らしているのよ」(玲奈)
「僕に『光の役割』を教えてくれたのは、先生です」(蒼)
部員たちの温かい声が、波のように塔子の胸に押し寄せる。
自分は指導者として生徒を導いていたつもりだった。だが、違った。傷つき、挫折を知る生徒たちに、自分自身が救われていたのだ。
塔子は目から溢れ出る涙を拭うと、再び鍵盤の上に手を置いた。
震えは、もう止まっていた。
「……ごめんね、美咲。もう一度、最初から弾かせて」
「ふふ、喜んで」美咲が誇らしそうに微笑む。
ポーンと鳴り響いた一音目。それは先ほどまでの迷いを含んだ音ではなく、力強く、どこまでも優しい、益田塔子自身の本当の音色だった。
美咲の歌声と、塔子のピアノが重なり合う。音楽室の窓から差し込む夕暮れの光が、二人を、そして部員たちを温かく包み込んでいた。
歌い終えた美咲は、すっきりとした笑顔で塔子を見た。
「ありがとう、塔子。私が探していた歌う意味……ちょっと分かった気がする。私も、私の場所で、もう一回もがいてみるよ」
「美咲……ありがとう」
「文化祭、絶対に観に行くからね。あなたの最高の子たちと作る、最高の舞台を期待してる」
美咲は大きく手を振ると、颯爽と音楽室を去っていった。
過去のトラウマという最後の影を振り払った塔子は、振り向いて大切な部員たちを見つめた。
「みんな……ありがとう。さあ、最高の文化祭にしましょう!」
「「はいっ!!」」
部員たちの弾けたような返事が、夕焼け空に溶けていく。
いよいよ、舞台芸術部の「最初で最高の幕」が上がろうとしていた。




