第一章 6『神は慈悲を与えず』
暗い空から降り注ぐ月光が、ロマノフに直撃する。
ロマノフの腕に抱えられるレイも光に当てられており、その傷がより明瞭に映し出されていた。
裂創からは赤い血の付着した白い骨髄がよく見え、時間の経過により、もはや血液も出ていない。
「――レイ、起きてくれ。頼む」
「――」
ロマノフの弱い叱咤に、呼応の返事はない。
レイを発見してからというもの、ロマノフはその懇願を止めず、ただ旧友に、神に祈りを捧げる。
どんどんと潤っていくその瞳は、今まで見てきたロマノフからは決して考えられないほど弱々しかった。
「なぁ、頼む……頼むよ」
友との再会が叶わないことは、わかっている。それでも尚、ロマノフはただ、目の前の親友との邂逅を望む。
先の冷酷な瞳からは想像もつかない大粒の涙を、レイの容貌に垂らして、ただ咽び泣くだけのロマノフに、神はなんの温情もかけやしない。
「――」
その姿に、ミナトはただ押し黙ることしか出来ず、なんとも不甲斐ない感情で、胸中をすし詰めにしていた。
ロマノフはレイの灰髪を掻き分け、その額に手を当てる。
「……ヴェルザード、必ず、この手で貴様を――」
そう、重々しく口を開くロマノフ。
その瞳と、その声には決意、覚悟等という綺麗なものは一切宿っておらず、憎悪と殺意、そして厭悪という負の感情のみが宿されていた。
「殺す」
ただドス黒い殺意を渦巻かせそう言い、ロマノフは拳を固めた。
◆◆◆
「見苦しいとこを見せたな。申し訳ない」
「……」
ロマノフはかれこれ一時間程、涙を流していた。
そのせいで目は腫れており、瞼は重くなっている。
そんなロマノフの謝罪に、ミナトはどうも居た堪らない気持ちになり、同時に胸が痛くなる。
「レイもこの状態だ。もう、この宿も廃業となる。俺が紹介したと言うのに、ごめん」
再びロマノフは頭を下げ、悔いを滲ませた声でそう深謝する。
「あぁ、大丈夫。それに、俺が、俺がロマノフに出会っちまったから――」
「それはない。ミナト、お前が居なくても、あの男はレイを殺しに来ただろう」
「――」
ロマノフはミナトの言葉を遮り、否定した。
その言葉はミナトを庇うものではなく、ただ事実を述べているだけだった。
ミナトも、それ以上の無駄口は言わずに口を閉ざす。
レイの他界によりゴンデルは廃業となる。それは、ロマノフの口から今聞かされた。
つまり、ミナトの安息は再び遠くなった。
しかしそれ以上に、初めて見る死体というものに目が離れない。
強烈なその光景に、ミナトの心は怯え、怖気付く。
ロマノフの姿から、先程まではあまり感じられなかったこの感情が、急速にミナトを襲う。
「――ミナト」
「な、なんだ?」
「あまりそっちに意識は向けるな。今は、俺と話すことに集中しておけ」
ミナトの心情を見透かすように、ロマノフはそう口出す。
そしてその言葉通りにミナトは意識の方向を目の前のロマノフへと向ける。
そこには、心配と殺意を混合させた薄紅の瞳をこちらに向ける美青年がいる。
「行くあてが無いんだよな。それなら、俺の邸に来い。明日までは、面倒を見てやれる」
「……良いのか?」
「あぁ。元は、ここに泊まるはずで、俺が紹介したんだ。こんなことになった以上、俺が一時預かる」
ミナトからは、ロマノフが自分の贖罪の為に預かると、そう言っているように見えた。
ミナトとしては、安全ももちろん大事であるが、それより、ロマノフの安静の時間があるのかと心配になる。
なにせ、世界で最も大事であろう親友を亡くし、心に多大なダメージを喰らっている筈だ。
そんな中で、他人を自身の憩いの場に招くというのは、相当気の滅入ることだろう。
「……だが、俺は明日の昼時からネイトを訪れなくてはならない。面倒を見れるのは、それまでだ」
「それまでっていうか、そこまで見てくれんのか! それは、俺としては嬉しいし、めちゃくちゃに助かるんだが……」
「俺の事なら心配いらない。なにせ俺は、この国の『剣客』だからな」
『剣客』、それはヴェルザードの口からも出た言葉だ。その二つ名がロマノフを指し示していることがよく分かる。
その異名は、ロマノフの強さを象徴するには充分で、先程の剣技を見たミナトも納得する。
ロマノフはそう言って笑っていたが、しかしどうも作っているように見えてしまい、余計憂慮してしまう。
「それならいいんだが」
「そうと決まれば、早く行こう。今はゆっくり休むんだ」
ロマノフは、ミナトの腑の落ちない納得にさらに被せてそう言う。
そしてそのまま、ロマノフはどこか頼りない背中を向け、レイの亡骸を抱えて歩き出した。
「ミナト、俺の事なら気にしなくて大丈夫だ。これは嘘でも偽りでもない、本心だ」
「――そう、か」
ミナトの本心はいつでも見透かされているのだろうか。
ロマノフは決して顔はこちらに向けず、背後にいるミナトにそう言った。
ついさっきも同じことを言われたが、この世界に来て初めての知り合いであるロマノフを心配しないというのは無理な話だ。
いや、知り合いではなく、友人と言った方が正しいのだろう。ロマノフもそう言っていたし。
「あぁ、今日はゆっくり休もう」
ロマノフの顔は一切見えなかったが、微笑んでいることが声色からわかる。
ゴンデルを出て、人気の無い商街を歩き、さっきまで萎縮していた自分をミナトは馬鹿がる。
約五分程を歩いて、ロマノフは古びた宿のような所に止まった。
ロマノフは重く口を開き――
「これから、俺は別れを告げてくる。少しの間待っててくれ」
そうとだけ言い、ミナトの顔も確認せず中へと入っていく。
その口振りから、ここは葬場なのだろう。声色は出会ってからいつよりも重く、悲壮感を漂わせていた。
ただ一人残されたミナトは、その時間で自身の置かれている立場を理解する。
「ロマノフのおかげで、なんとか安全な場所には行ける。それは良い事だけど……レイさんみたいな死者が沢山出るってんなら、もう長くは居られねぇ。けど――」
その後に続く言葉は、自身に対するものではなかった。
いや、自身に対するものでもある。しかしそれは、他でもない他者へのものだった。
「もうこれ以上、死体は見たくない」
レイの失われた右腕、溢れ出る血液、生々しい骨肉。
そんな悲惨なものは、もう見たくないしあってはならないものだとも思う。
そう思っても、ミナトに何が出来るわけでもない。出来るなら今すぐにでも我が家のある日本に戻りたいし、安全な場所に逃げ込みたい。
しかしそれでも、先程の遺体が脳から離れなくて、ミナトを苦悩させる。
「俺に何が出来るんだよ……。そんなこと言ったって、俺には何も、何もねぇのに。なんで――」
今のミナトには、何かを成せる力も無ければ、一人で動ける行動力も無い。
「こんな気持ちになってんだよ」
何かを成せるわけでもなく、人を惹き付けられるわけでもなく、力を保持しているわけでもないのに、なぜこんなにも、「どうにかしたい」と思ってしまうのだろう。
そのせいか、ミナトの心は酷く昂っていた。死者を見て、落ち込んでいた心もあったが、それは全て使命感に変わっていく。
まだロマノフとしか深い関係を築けていないミナトが、なぜここまで思えるのか、それはきっと、さっき助けてもらったあの少女のおかげに違いない。
アーシュは、見ず知らずのミナトを、ただのお人好しすぎる理由で連れ出した。
その姿を見て、今のミナトは感化されたのだ。これから出会う人達を、助けたいと。
そして何より、俺を救ってくれた友人が悲しむのは、嫌だ、とそう思う。
「絶対だ……。俺が帰るまで、俺が帰れるようになるまで、誰も死なせない」
謎に満ちて止まらない使命感を拳に握り、一人で小さく呟いた。
◆◆◆
「泊場の提供が遅れてしまって申し訳ない。ここが、俺の邸だ」
「お……おぉ〜」
目の前に広がる広大な敷地にミナトは思わず感嘆する。
この屋敷にはロマノフだけが住んでいるらしい。
それは、一個人が所有するには勿体なさすぎる広さで、一族が住んでいると言っても過言ではなかった。
ロマノフがあの葬場から出てきたのは、拳を握ってすぐ後だった。
その後すぐに歩き出し、少しの談笑を挟みながらここに辿り着いた。しかしその間も、ロマノフの顔はどこか浮かれていなかった。
「驚いたか? どうだこの広さ、攻められても到底俺たちは見つけ出せまい」
「それはそうだな……」
ロマノフの口から発せられたその言葉が、今はどうも恐ろしく聞こえる。
ただ、ロマノフが傍にいるというだけで大分、というか物凄く安心出来る。
邸の玄関へと続いて敷石を歩き、その広さを体感する。
「まじででけぇな。一人でこんなとこ住んで持て余したりしないのか?」
「使ってない部屋も多いし、仕事柄、あまり自宅待機する事が少ない。ここに来るのも二週間ぶりだな」
「……二週間も?」
新鋭団は単なる警察のような職業ではないらしく、その大変さを伺わせる期間だ。
玄関の前へ立ち、ロマノフが自身の背丈の二倍はあるだろう扉を開く。
「おぉ……」
ここに来て、はや二度目の感嘆を漏らす。
玄関だけでも人が住めそうなほど大きく、奥にある大階段は広幅で、一人で通るにはなんだか申し訳なさそうだ。
「驚いてくれて嬉しいが、もう夜も遅い。寝室までは案内するから、今日はお互いゆっくり休もう」
ロマノフは驚いているミナトの手を引き、大階段を登っていく。
二階まで行き、案内された右に曲がってから二つ目の部屋へ行く。
左右に二つに別れた通路には扉が幾つもあり、とても覚えきれない。
「多少埃っぽいかもしれんが、堪忍してくれ」
「……いや綺麗だな」
その綺麗さに思わず声を漏らし、ロマノフの前言を撤回する。
「今思えば、色んなことが起こった、いや起こりすぎたな」
ロマノフとの出会いに、ヴェルザードの襲撃、アーシュとグルトル、クラウスたち、そして――レイの死の現場。
そして、レイの死を見て死人を出さないと誓った。
この心だけは、過ぎ行く時間の中で忘れてはならない。
「絶対に忘れない。戻るまで、俺は誰も死なせてやらない」
案内された部屋のベッドへと腰を掛け、再び拳を固め、そう自身へと誓う。
その決意とは裏腹に、急激な眠気がミナトを襲い、瞼を重くする。
「明日の為にも、もう寝るか」
襲い来る睡魔に抗わず、ミナトは深い深い眠りに就いた。
◆◆◆
『汝、力を欲すか』
誰かの声が聞こえた。
その声は不思議と落ち着き、首肯せざるを得なかった。
そして――
『――迫り来る災厄を、汝がその手で振り払え』
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