第3幕ー1
「おかえりなさいませ、お嬢様」
ジュリアは正午過ぎ、数日ぶりにバリエ伯爵邸へと戻り使用人に迎えられる。そしてぱたぱたと軽い足取りが聞こえて来て口元を緩める。
「ジュリア! おかえり!」
廊下を走って無邪気に飛び込んできたのはみっつになる甥だった。
「今日もずっとおしごと?」
団服であることにつまらなさそうな顔をしながら甥が見上げてくるのに、ジュリアはうんとうなずく。
「大事なお仕事が終わったら、戻ってくるわ」
そう言うとしょんぼりとした顔で甥がわかったと返事をする。
「おかえりなさい。この子ったらすぐに走り出すから困ったものだわ。あなたも満月の日ぐらいゆっくり家にいられればいいけれど、新しい大司祭様の任命式に聖騎士がいないわけにはいかないものね」
ゆったりとした足取りでやってきてため息をつくのは四つ年上の義姉で、その腹部はふっくらと膨らんでいる。
「だからせめて顔だけでも見せに戻って来たの。時間があれば晩餐にもいたかったわ」
「本当に慌ただしいこと。詰所ではゆっくり休めているの? 顔色があまりよくないわね」
義姉が心配そうに頬をなでるのに、ジュリアは大丈夫と笑顔を取り繕う。
「ここ最近は夜警も忙しくないからそれほど大変ではないのよ。やらないことはたくさんあるけれど、その子が産まれてくるまでには片付けたいわね」
義姉が表情を強張らせた後、不安と恐怖の入り交じった表情を一瞬見せる。
夜会での騒動がまだおさまらないことに誰もが内心怯えている。これから三月もすれば子が産まれる義姉も不安でたまらないだろうが、現況を自分に問い詰めることはしない。
「ジュリア、遊ぼうよ」
退屈そうな甥が手を引いて緊張した空気が緩む。
「いけません。ジュリアはまだ大事なお仕事があるからそれまで休まないといけないの」
「気にしないで。走り回るのは無理でも話相手ぐらいはできるわ。……先におじいさまとおばあさまと会ってくるから、少し待っててね」
甥が素直にうなずいて自分の部屋で待っていると使用人と共にまた走り去る。
「……本当に、無理はしないで。二年前みたいなことはもう嫌ですからね」
悲しげに眉尻を下げる義姉へ、ジュリアは心配しすぎだと苦笑して大丈夫だと念押ししてから両親の元へと足を向ける。
父はいつもと変わらず穏やかで、母は夜会の日からほとんど家に帰ってこない娘にもっとゆっくりしていけばいいのにと愚痴を零していた。
母の心配性はきりがないので甥との約束を口実に切り上げて、そのまま甥の部屋へと向かった。
この頃止まらない甥のお喋りに耳を傾けている内に時間はやって来て、ジュリアは詰所へと戻ることにした。王宮に出仕している兄には会えそうにないかと、思っているとちょうど門扉を出る辺りで出くわした。
「戻っていたのか。忙しいな、お前も。満月の日だっていうのに家族揃って晩餐もできない」
「みんな同じこと言うんだから。一応は帰ってきたんだからいいでしょう」
「今夜は大司祭様の任命式だから仕方ないのは分かってはいるさ。しかし、エルネスト殿下がとはな。お世継ぎになるよりはいいのか、もっと悪いのかなんともだな」
幼少期のエルネストの悪評は貴族達に浸透していて、修道士となってからの様子はほとんど知られていない。複雑な心境で満月を迎えているのは皆一緒である。
「聖女様が決められたのだもの。じゃあ、私、仕度があるから」
「ああ。……次の満月は一緒にいられるといいな」
何か物言いたげだった兄がそう言って、ジュリアはええ、と静かに返す。
月が満ちるにつれていくらか人々の不安や畏れは和らいでも、常闇の王がどこかに潜んでいるままでは本当の安らぎは訪れない。
月が欠け始めればまた底知れぬ闇への恐怖が膨らんでいくことだろう。それは常闇達にとって、格好の侵食の糸口となる。
(早く、終わらせないと)
密告者である聖女の世話係は大聖堂へと一度戻った後、家へ戻る用事があると夕刻に出て行ったということだった。しかし世話係から用件を聞いたのはジャンヌだ。
今になって露骨に手札を見せてくるジャンヌへの不審感は強いものの、満月を超してこちらが有利になる条件はなく今日の夜明け前には踏み込むと決まった。
ジュリアは我が家を振り返り半眼を伏せる。
もう帰れないかもしれないという考えがよぎることはあっても、立ち止まる気持ちはわいてこなかった。
***
侯爵家の自宅から詰所に戻ったシリルはジュリアの姿を探すが、まだ戻っていなかった。
祖父の小言にうんざりして早めに屋敷を出た自分と違い、自宅でゆっくり家族との時間を過ごしているのだろう。母は夜会の日から足繁く妹であるローベルの母の元に通っていて今日も不在で、そちらにまで足を伸ばす気にはなれなかった。
(討伐が最優先、か)
常闇の王をどうするかは前例のない事態なので可能なら捕縛をしたいものの現実的なことを考えればやはり討伐が第一となった。
ローベルの魂が完全に消滅したという確証はどこにもない。しかしローベルの体だけは無事に確保し、フェルだけ消滅させるなど都合のいい手段は持ち合わせていない。
迷って勝てる相手ではないのは分かっていても、いざその時が近づくと何かと考えざるをえない。
そうして、フェルと直接対峙することになるのはジュリアの方になりそうだった。
「シリル、もう戻ったのか?」
行く宛もなく詰所をうろついているとクレマンが王宮から戻ってきた所だった。
「はい。このまま作戦遂行になりそうですか?」
「今の所、特に問題は何も起っていない。今夜、任命式の後に司祭方は王宮に移られる。予定通り、お前は司祭方が王宮に移られる間の護衛と、その後詰所の見張り塔で待機だ」
「……ジュリアは大丈夫でしょうか」
罠である可能性を考慮して大聖堂の地下へと降りるのはクレマンとジュリアの二人だけで、シリルは王宮と大聖堂両方を見通せる詰所で不測の事態に備える。
ジュリアを行かせることに不安はあったものの、武器特性から広範囲へ長距離から対応できる自分が外にいる方がいいということになったのだ。
「私もついている。お前はお前の務めに集中していればいい」
突き放すのでなく諭すように語りかけるクレマンへ、シリルは鷹揚にうなずいて自分の部屋で鎧でも磨いておくことにした。
東の海岸沿いにある銀山が緩やかに枯渇し始めている今、希少な銀を含んだ鎧の手入れは怠れない。没頭してしまえば余計なことを考えずにいられるので、シリルはこの時間が嫌いではなかった。
しかし今日という日は陰鬱な自分の顔がぼんやりと映り込むのに、気が散ってしまう。ほとんど毎日手入れしてることもあって終わるまでにそう時間がかからなかった。
腹の底にぐずぐずと煮えているのか腐っているのかよくわからない感覚があってわずらわしい。
寝台に体を投げ出して、シリルはため息をつく。
常闇の王を討伐すれば、平穏になる。それだけのことなら、もっと気分は楽だったのに。
ジュリアはローベルと一緒に彼女自身の心ごと葬ってしまいそうで、少し怖い。
自分のこの手で救えるものがあるのだろうかと、シリルは手を持ち上げ聖刻を眺める。
(救いたい? 奪いたいじゃなく?)
不意に浮かんだ自問に息を呑んでシリルは何かを握りつぶすように聖刻のある手を固く閉じて腕を下ろす。
ジュリアの視線の先、そこにはいつもローベルの姿があって。
意図せず流れ込んで来る記憶を振り払い、シリルは体を起こす。
「違う、僕は」
言い訳するような言葉が口をつくが、それをあざ笑うように違わないよと自分自身の声が胸の内で聞こえた。




