第1幕-1
この大陸には魔が潜む。
ある地には森に、またある地では水辺に、風に、雨に、岩に、住処が異なりながらも魔は人の魂を糧として息づく。
そうして大陸南部の半島部に位置するこのセレネ聖王国では夜に魔が潜む。
夜を恐れる王国は最も昼の長い季節を迎え、太陽の恵みが燦々と降り注いでいた。
天高く尖塔を掲げる王宮と大聖堂は太陽の姉神と月の弟神のように背中合わせで丘の上に立ち、その裾野に広がる橙の屋根と白壁の街のどの家にも赤や白の薔薇が咲き誇る。
王宮の傍らの大邸宅、サジェマン侯爵邸の中庭も深紅の薔薇が盛りの時期を迎えていた。
「僕でよかったのかな」
杏色のドレスを纏ったジュリア・バリエは、ついさきほど婚約が決まったばかりのサジェマン侯爵の孫であるシリルがそう言うのに苦笑する。
「またそんなことを言って。私はあなたでよかったわ」
鳥籠に似た四阿の長椅子にジュリアが腰を下ろすと、シリルがその隣に距離を空けて座る。彼はいつも無造作にしている黒髪をしっかりなでつけて前髪を上げていて、藍色の瞳が陽光の色を反映して紫がかっている。
「でも、ローベルはまだ生きている」
「そうね。だけれどもう二年経つのだもの」
常闇の王の奇襲から早二年。ジュリアは背に常闇の王の爪によって深手を負ったものの、鎧のおかげで致命傷には至らずひと月で回復した。
そして婚約者であったローベル・ディドロは一命を取り留めたが意識が戻らず、そのまま衰弱し命の灯は消えるかと思われた。しかし水の一滴も飲めない状態で時が止まっているかのように全く同じ姿で眠り続けている。
ローベルとの婚約は一年前にバリエ伯爵家とディドロ侯爵家の両家が話し合い白紙になった。
「本当に君は彼が目覚めるのを待たなくていいのかい?」
両親も兄夫婦もシリルと同じように結婚を急ぐことはないと気づかってくれている。
しかし常闇の王が消え去った影響かこの二年間で聖騎士としての任務も少なく、時々疼く背中の傷跡にあの夜を思い出しては時が過ぎていくのに疲れ始めていた。
「……これだけ平和ならいつ聖刻が消えるとも分からないわ。そうなったらあの人を待つだけの人生が待っているの」
ジュリアは生まれたときから右の掌に刻まれている聖刻を見つめる。
月神によって常闇と呼ばれる魔を払う力を授けられた証は誕生したときには掌にあるが、消えるのは死を迎えるときではない。はっきりとした条件は分からないが、常闇の勢力が衰えてくると聖刻を持つ者は自然と減る。
「どうだろう。今、聖騎士の任についているのは団長と君と僕だけだ。いくら常闇達の力が弱まっているとはいえ、これ以上は少なくなっては困る」
「それでも聖刻を持つのは七人もいるわ。ローベルの聖刻だって消えていない」
「いずれ、消えるかもしれない。彼が聖別した剣はもうなんの力も持たない」
聖騎士は銀製の武器に常闇を払う力を与えることができ、地方に配備された騎士達へ支給されている。ただ武器を聖別した聖騎士から離れるほど月の満ち欠けの影響が強く、遠方にあるローベルによって聖別された剣達は次第に力を無くしていった。そして一年前からついに彼の近くにあってもなんの力も発揮しなくなってしまった。
「月神のお考えはわからないものね。必ずしも相応しい者の元に聖刻をお与えになるなんて」
聖刻を持ちながらも力を使えぬ者がふたりに、隠遁者がひとり。半数近くが月神の加護を持ちながら行使できていない。
「聖女様もそろそろ落ち着かれるとよいのだけれどね」
「もう十五だったわね。常闇の存在をいつも身近に感じているから、ああなのでしょうけれど」
感情の起伏の激しい少女の癇癪を思い出してジュリアはため息をつく。
聖女もまた聖刻を持つ。聖騎士が右手にあるのに対して左手に聖刻を刻まれた聖女は、常闇の息づかいを常に感じている。そのせいか歴代のどの聖女も情緒が不安定である。
(もっとはっきり教えてくれれば)
常闇の群が現れるとき聖女は泣きじゃくって場所を示すこともあれば、うっすら微笑んでいることもある。二年前はどこか投げやりにあの場所を示した。
困ったことに群の大きさや強さは何も言わない上に、聖女が怯えているからといって危険度が高いこともなく状況を察することもできない。状況が見えれば団員達とてあんなにも犠牲にならなかった。
「君は気に入られているからまだいいさ。僕なんか目も合わそうとしない」
「彼女、ローベルがお気に入りだと思ってたわ」
ローベルがいるとジュリアは比較的機嫌が良かった覚えはあるが、彼の惨状に残念の無感情な一言しかなかった。
「それは、国の女性達みんなそうさ。月神の愛し子にみんな夢中だったし、今でも彼は常闇の王を討った英雄だ。僕にとっても自慢の従兄殿だよ。いいのかい、こんな日陰者の僕と結婚するなんて」
同い年の従兄同士であるが故にシリルはローベルと比較されることが多かった。そのせいもあっていささか自虐的であるものの、ふたりは兄弟のように仲がよかった。
「あなたこそ、私でいいの? 侯爵の言いつけで仕方なく承諾したのなら破談にしてもいいのよ」
ほんの軽口のつもりだったのに、シリルが表情を強張らせる。
「……僕は、君のことがずっと好きだったよ」
長年抱えていた感情の告白は重く、ジュリアは沈黙する。
「だからこそ僕は仕方なく結婚してほしくないんだ。いつかローベルが目覚めた時、結婚してしまったら僕は君を彼の元に帰せる自信がない。お爺様ともう一度話し合ってみてもいい」
どうやらシリルは祖父であるサジェマン侯爵とすでに一悶着した後らしかった。
「いいの。私自身、決めたことだもの。それに、昔からよく知っているあなたとならうまく結婚生活をやっていけると思ったのよ」
これ以上の良縁はなくバリエ伯爵家にとってもいい話で、家族もきっとこれで安心するだろうという気持ちもあった。
「……ごめんなさい。あなたの気持ちを考えたらもっと慎重になるべきだったわ」
シリルも似たような思いでこの婚約の話を受けたと勝手に思い込んでいた。
「君は悪くないよ。最近、僕らあまり話していなかったし、お爺様はいつも強引だから仕方ないさ」
そう苦笑するシリルの優しさに心苦しくなる。
ここしばらくどうしてもローベルの話題になりそうで意図的に彼と長話をするのを避けていた。
「私、もうずいぶん前から彼がどこにもいない気がしているの。もし、目覚めることがあってもきっともう元の関係には戻れないなんて思うのは、待ち疲れたかしら」
昏睡状態のローベルと最後に会ったのは婚約が白紙になる前だった。破談の話を受け入れたのはそのこともあった。
「……君には言えずにいたけれど、実は僕も一年ぐらい前からそう思ってた。一昨日も会いに行ったけれど、やっぱり目の前にいるのに空っぽな気がして」
自分と違って足繁くローベルの見舞いに行っているシリルがそう言って、ジュリアは彼と顔を見合わせる。
気のせいではないのかもしれない。
言い様のない不安な感覚にふたりは沈黙する。
そうしてこの三日後、ローベルが目覚めた。しかし彼はすべての記憶を失っていた――。




