第37話:ヤマノススメ
冬山と化した武甲山で孤立した飯能軍は疲弊し切っていた。
もう三日間、山の幸も湧き水も手に入らず、極限の空腹状態。
山に入れば食糧も水も手に入る、という見込みは外れてしまった。
高地を制する者は戦いを制す。
盤石な兵法のはずだった。
だが飯能の目論見は悲惨なまでに裏目に出ていた。
眼下の麓。
武甲山を取り囲むように陣を敷く秩父軍の姿。
その数、およそ6000。
小鹿野の旗本、横瀬の旗本、そして秩父王国の総大将・秩父の旗本。
敵の精鋭本隊が勢揃いしていた。
飯能は焦っていた。
秩父軍の6000は、山に登ろうとしない日高軍4000に襲いかかると、瞬時に蹴散らし山を取り囲んだ。
迅速な攻囲だった。
逆落としで駆け下りて打開しようにも、山肌の至る所にある巨大な氷柱が障壁となってしまう。
それでも無理やり強行突破を試みれば、秩父軍の前線の一角を崩せるかもしれない。
しかし広大な山裾に展開する後続の軍勢に包み込まれ、揉み潰される危険がある。
気がつけば、飯能軍6000は身動きが取れなくなっていた。
それよりももっと致命的なことが起きていた。
飯能軍が陣取った武甲山のあらゆる水源が、全て固く凍結していたこと。
焦った兵たちが水源を確保しようと地面を掘り返しても、出てくるのは石灰石ばかり。
突如として訪れた季節外れの極寒では、山菜や獣などの食糧も消え失せる。
低体温症にかかるのも時間の問題だった。
「水……水を飲ませてくれ……」
「誰か! 食糧残ってる奴は寄こせ!」
飯能軍は水食糧など、現地調達できていたので運び上げていないのだ。
各自が携帯していたわずかな水筒と乾パンを巡り、仲間同士で奪い合いさえ始まりそうな一触即発の空気が漂っていた。
「みんな落ち着いて! ずっと山上にいるわけじゃない!」
大将の飯能が励ますように声を張り上げるが、その口調とは裏腹に自身の頭の中は真っ白だった。
糖分が不足してどうすればいいか、考えがまとまらない。
飢えと喉の渇き。
まさかこれほどまでの窮地に陥るとは。
飯能は一塁の希望を抱く。
麓で襲撃された日高軍は蹴散らされただけで、大きな犠牲を出していないはずだ。
そして北側からは本庄率いる北部討伐軍が、秩父鉄道に沿ってこちらへ進軍してきているはず。
彼らと合流できれば――!
そう思った時、飯能の心は決まった。
「みんな武器を取って! 逆落としで山を囲む氷柱と前線の敵を突破するよ! 一点突破で盆地へ駆け抜け、味方と合流するんだ!」
限界を迎えていた兵たちだったが、やっと下山できると知ると、その目に気力が戻る。
「突破口はあそこだ! 敵を突き崩したら、とにかく駆け抜けて!」
兵たちが思い通りに統制を保って動けるとは思えなかった。
飯能自身も、すでに詳細に指示を下せる判断力は残っていない。
ただ逆落としのタイミングを号令するだけだ。
飯能は震える手で剣を引き抜いた。
空高く掲げてから、一気に振り下ろす。
「全軍、突撃ーーっ!!」
一斉に山を駆け降りていく飯能軍。
弾みがつき、勢いに乗る。
氷柱の壁を破り、前線の敵陣を突き崩した。
これならば敵に大打撃を与えられるかもしれない。
そう思ったのも束の間だった。
目の前に展開していた秩父軍が、引いた。
下山してきた飯能軍に道を開けたかと思うと、後方と側面から囲い込みにかかる。
地上に降り立ち、必死で盆地を駆け抜ける飯能軍。
それを秩父、小鹿野、横瀬の旗本がひしめく精強な軍勢が追い立てる。
悲鳴がとどろいた。
飯能軍の最後尾の兵たちが討ち取られていく。
飯能は心臓を鷲掴みにされたような恐怖に身体を震わせる。
「こっちだ!!」
ふいに前方から力強い声。
絶望色に染まった飯能の瞳に、日高の姿。
日高は街道に手勢4000を展開させていた。
追撃してくる秩父軍を迎え撃つ布陣だが。
飯能が日高の陣営の中へ駆け込んだ時、日高は叫んだ。
「撤退するぞ! 北側討伐軍も撤収したと伝令が届いた!」
「えぇっ!?」
驚愕する飯能。
日高の陣へ、満身創痍の飯能軍の兵たちが次々と駆け込んでくる。
追撃でどれほどの数がやられたのか。
飯能は犠牲になった自軍の兵を思って顔を歪めた。
勢いに乗る秩父軍の追撃は緩まない。
6000の軍勢が、飯能・日高軍を飲み込もうと押し寄せてくる。
それを見つめながら――
日高は静かに目を閉じた。
全神経を研ぎ澄ませると、哀愁を帯びた顔で口を開いた。
詠唱(埼唱)
『紅蓮に咲き誇れ、巾着田の彼岸花よ。一輪は幻、一輪は惑、一輪は迷……』
『真紅の絨毯に踏み入る愚か者どもよ、己が立つ場所すら忘れ、曼珠沙華の海に沈むべし!!』
日高の埼玉術式奥義が発動する――!
『曼珠幻想! 彼岸・紅迷ッ!!』
その瞬間、街道を埋め尽くすように、色鮮やかな赤い無数の曼珠沙華が咲き誇った。
妖しい香気と幻想的な霧が辺りを包む。
「な、なんだこれは!?」
先頭にいた秩父王国の総大将・秩父は、不気味な光景に思わず追撃の足を緩める。
警戒しつつも、その赤い花畑の中へ兵たちと共に踏み込もうとするが。
「お待ちください! 全軍、進撃中止っ!!」
後方から小鹿野の切羽詰まった叫びが響き渡る。
秩父含め先頭を行く将兵たちは慌てて足を止めた。
その時であった。
一面に咲き乱れる無数の曼珠沙華が、一斉に秩父軍の方向へ振り返ったのだ。
「おわっ……怖っ!」
横瀬が弾かれたように後ずさる。
脳裏をよぎったのは、彼岸花が持つ物騒な別名――。
小鹿野は悪寒に囚われている秩父と横瀬へ駆け寄った。
「これ以上の深追いは危険です。迂闊に踏み込めば、文字通り『彼岸』へ導かれてしまうかもしれません」
秩父は怪しい光を放つ赤い曼珠沙華を見渡し、冷や汗を拭った。
「アヤカシの類か。侮れん埼術だ。確かにこれ以上足を踏み入れてはならん気がするな」
一見すれば幻想的で美しい光景かもしれない。
だがその花畑に一歩でも足を踏み入れれば、強力な幻惑作用によって即座に方向感覚を奪われる。
底なしの迷宮へと引きずり込まれることになるのだ。
紅の海の向こう。
飯能・日高軍が逃げ延びていく。
秩父はその背中を悔しそうに見つめていた。
それでも即座に思考を切り替えた。
ハツラツとした笑顔を浮かべ、周囲の将兵へ向けて声を張り上げる。
「小鹿野、横瀬、そして皆のもの。見事な戦いぶりであった!」
惜しくも弱りきった敵を取り逃がす形にはなったが。
秩父王国が帝都の放った大軍勢の討伐軍を撃退したという事実に変わりはない。
「我らの防衛成功だっ! 大勝利であるっっ!」
「うおーーーっっ!!!」
勝者となった山の民たちの大歓声が、秩父地方に高く響き渡るのであった。
全速力で駆けに駆け、なんとか西武秩父線の正丸駅まで後退した飯能・日高軍。
ここまで逃げ延びればひとまず安全圏である。
息を整えつつ、すぐさま損害の確認に取りかかった。
被害のほとんどが飯能軍だった。
負傷兵は2000を越え、さらに1000名が行方不明である。
一方で日高軍はほとんど犠牲を出していなかった。
日高軍が水と食糧を飯能軍に分け与えると、飢えと渇きに苦しんでいた飯能軍の兵たちは必死にそれを貪った。
その傍ら、涙で顔をぐちゃぐちゃにした大将の飯能が座り込んでいた。
見るからに憐れで痛々しい姿だったが、被害の大きさを思えば日高も責めずにはいられない。
「なぜ武甲山に布陣した? 見てみろ、この無惨な有様を」
日高の詰問に、飯能は号泣した。
大敗、そして自軍の兵たちの損害。
自分の采配のせいだった。
言葉にならない嗚咽が、正丸峠まで虚しく響く。
しばらくの間、泣き崩れていた飯能だったが、やがて弱々しく口を開いた。
「その昔ね、女子高生たちが登山を楽しむアニメ作品があったんだ……」
「は?」
唐突すぎる話題に、日高は眉間にしわを寄せる。
「劇中にね、ぼくの飯能市が誇る大切な山……『天覧山』が出てくるんだよ……」
日高は一考して、思い当たった。
「ヤマノススメか」
「うん……。でね、そのアニメを見た市外の友達がさ。天覧山が見たい!って、飯能市に遊びに来てくれたんだ。だからぼく、嬉しくて嬉しくて。天覧山を案内したんだよ……」
飯能は嗚咽を挟みながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「なのに、その友達……。山頂に着いたら、こう言ったんだ。『天覧山って、大したことないね』って……」
「なっ、なんだと?」
飯能の衝撃の告白に、日高は思わず両手で口元を覆った。
「天覧山はね、標高195メートルしかないんだ。だけど……気軽に登れて市民に親しまれている最高の山なんだよ。でもその友達はもっと刺激を、アニメみたいな華やかさを期待していたみたいで……」
「飯能……」
「『景色も木が邪魔で微妙だね』って! 『地味な山だね』って! 馬鹿にされたんだよぉぉ~っ!!」
飯能の目からボロボロと涙が溢れ出した。
日高も絶句して、かける言葉を失っていた。
「ぼくはそれが悲しくて、悲しくてたまらなくて……。きっと心のどこかでトラウマになっていたんだ! それで武甲山を見た時、憧れなのか、コンプレックスなのか自分でも分からないけど。どうしてもあの山に登ってみたくなっちゃったんだよ!」
飯能の悲しい過去のエピソード。
それを日高と共に聞いていた周囲の飯能兵たちは、自分たちをこんな目に遭わせた大将を責めるどころか、全員が頷きながら号泣していた。
それどころか、日高の兵たちまでもが同情してもらい泣きしている。
日高も目に涙を蓄えていた。
埼玉の市町村大名の誰だって、自分の地域が誇るご当地スポットやシンボルを馬鹿にされたら、切ないし、悲しい。
実際には自虐的になって笑い飛ばす者も多いのだが。
もはや飯能を責められる人間など、誰一人としていなかった。
「そうか……そんな悲しい過去があったのか……」
日高は地面にしゃがみ込んだ。
そして子供のように嗚咽する飯能の肩を、優しく叩いた。
こうして――
埼玉国を揺るがした秩父王国討伐は、南北とも大失敗に終わったのである。




