第36話:マインド・ブレイク
乱戦の最中、どこからともなく聞こえてくる音。
重低音の太鼓、弾む三味線、透き通るような笛の音が響き渡る。
戦場には似つかわしくない、陽気な祭り囃子。
一体、何が起きているのか?
上里と美里は、困惑の表情を浮かべた。
押し寄せる秩父兵の後方、月明かりに照らされた場所に敵将の皆野の姿を捉える。
皆野は軽やかに踊りながら、朗らかな声で民謡を唄っていた。
「何やってんだアイツ……」
「あれはまさか、埼玉三大民謡の一つ、『秩父音頭』!?」
呆れる上里と驚愕する美里。
異変はその直後に起きた。
急に秩父兵たちの動き、攻撃の威力が格段に上がった。
「なんじゃこりゃあッ!?」
「敵兵が強くなっています!」
ただでさえ一兵一兵が屈強な秩父兵に、バフがかかった。
秩父音頭は秩父兵の戦闘力を強化する恐るべき効果をもっていたのだ。
秩父軍の猛攻。
こうなってしまっては、上里と美里の軍勢はじわじわと後退を余儀なくされる。
固まって陣形を小さく縮め、防戦一方が関の山だった。
そこへ荒川方面から、護衛兵に囲まれた討伐軍大将の本庄が駆けつけてきた。
「上里さん! 美里さん! 荒川から長瀞水軍の奇襲を受けました! そちらは宝登山から奇襲が!? 大丈夫ですか!?」
「よう、大将! 見ての通りちょっとやべぇ状況だぜ!」
「かなりまずいです! 皆野の秩父音頭によって敵軍全兵士に強力なバフがかかっており、手が付けられません!」
本庄の全身に鳥肌がたった。
「なんと……恐るべし秩父音頭……」
本庄に続いて、荒川方面からぞろぞろと複数の影がこちらへやって来る。
ボロボロになった神川が、傷だらけの兵を引き連れていた。
それはまさに敗走という絵面。
「本庄さま~! 長瀞の奴らにボコボコにされちゃった~っ!」
「神川さん! 無事でしたか!」
本庄は危機的状況に顔面が蒼白になっていた。
が、唇を噛み締め決死の号令を下す。
「皆さん! 後退します!」
討伐軍は互いに背中を庇い合いながら後退を開始した。
西側の荒川から長瀞水軍。
東側の宝登山から皆野軍。
さらに市街地から東秩父軍。
押し寄せる怒涛の攻勢。
「逃がすな! 一気に囲い込めぇー!」
「討伐軍を長瀞駅へ追い詰めます!」
長瀞と東秩父が秩父兵を鼓舞し、さらに勢いづく。
討伐軍の陣形が崩れていく。
これでは後退どころか、まともな移動すら困難に。
激しい交戦と混乱の末、討伐軍は長瀞駅舎内へと追いやられていた。
そこまで大きな駅ではないので、文字通りのすし詰め状態になる討伐兵たち。
数の利は完全に死んだ。
秩父軍による完全な包囲!
本庄、上里、美里、神川の四将が背中合わせになる。
なおも聞こえてくる場違いな秩父音頭は、彼らにとって敗北の旋律として鼓膜を振動していた。
絶体絶命の窮地である!
「大将、こりゃ正直マジでヤバいぜ……」
「ここは駅舎に立て籠もって一時的な籠城戦に持ち込み、南軍の飯能・日高軍の到着を待つべきでしょうか?」
「ぴえ~ん! 本庄さま~! ボクたち完全に八方塞がりだよ~っ!」
本庄の額に、冷めきった玉のような汗。
思わず手に力が入った。
そこで本庄は右手に持っていた書物の存在に気づく。
視線を落とすと、そこには本庄の愛読書。
本庄市が生んだ歴史の偉人、塙保己一の『群書類従』。
――こんな時、塙保己一だったらどうする?――
本庄は考えた、必死に考えた。
書の装丁が指に食い込むほど握り締めながら、とにかく考えた。
迫り来る秩父軍の将兵たち。
「観念するんだな、本庄!」
長瀞がオールを大きく振りかぶる。
「どうか、投降して下さい」
東秩父もそう言いながら剣の切っ先を向けてくる。
上里も、美里も、神川も、絶望的な状況に顔を歪ませている。
ここまでか――?
本庄の脳裏に、一筋の光明が差した。
本庄は強く目を閉じ、念じた。
塙保己一は、武力で敵をねじ伏せる男ではない。
だからと言って、強固な防御で身を守る男でもない。
その代わり――
誰よりも知識を集め、後世へと語り伝えた男!
「……見えた!」
本庄の眼が見開かれる。
極限の精神状態の中、無意識に言の葉が口から発せられた。
詠唱(埼唱)
『人の脳は器なり。ならばその器、1273種、530巻、666冊に及ぶ巨大なる情報で満たし、かの者たちの思考を埋め尽くせ!』
『考えなくていい。理解しなくていい。ただ、知るがよい!!』
本庄の埼玉術式奥義が、解き放たれる――!
『知識注入! 群書類従・万巻脳獄ッ!!』
それは、情報の洪水であった。
人間の脳の処理能力を超える莫大な量の情報を一気に流し込み、思考そのものを停止させる。
「ぐああああああああっ!!」
秩父軍の凄まじい叫び声が夜空にこだまする。
歴史書、日記、系譜、和歌、物語、神道などの文献の知識。
あまりに膨大すぎるその情報量が、秩父軍の脳を襲う!
「やめろ! やめてくれぇ! もう何も知りたくねぇー!」
絶叫した秩父兵たちが頭を抱え、膝から崩れ落ちていく。
将もまた、この絶技には抗えない。
「な、なんだこれは…待てよ…系図が…平家物語が…! 藤原氏多すぎるだろッ!」
長瀞も。
「大量の和歌が…百人一首じゃない歌まで…! ああ…なんと情緒的でしょうか……」
東秩父も。
激しい目眩に襲われ、頭を抱えてその場にうずくまることしかできない。
「みんな! 一体どうしちゃったんだいっっ!?」
後方から皆野の絶叫。
必死に秩父音頭を続けるが、秩父軍の将兵はまとめて戦闘不能状態へと陥った。
一気に訪れた形勢逆転。
上里が飛び跳ねて歓喜の声を上げる。
「ヒャッホー! 大将、最高だぜ! 敵が脳みそパンクしてる間に、片っ端からぶっ倒してやろうぜ!」
美里も目を輝かせた。
「今こそ一斉反撃の好機です!!」
「本庄さま、すご~い! 大逆転だよ~!」
神川もぴえん顔から一転、無邪気にはしゃいでいる。
しかし本庄は一切浮かれることなく、真剣な表情で諸将へ告げた。
「この隙に全軍直ちに撤収を開始します」
「は!? 撤退だぁ!?」
上里が思わず耳を疑うように大声を上げた。
構わず本庄は続ける。
「この能力の効果はあくまで一時的なものです。脳に無理やり注入された情報はすぐに忘却されます。直ぐに復帰してくるでしょう」
「マジかよ! 滅多にない大チャンスだぜ? ここで畳み掛けねぇのは勿体なさ過ぎる!」
食らいつく上里。
本庄は淡々と諭した。
「冷静になって周囲を見て下さい。我が討伐軍は既に甚大な損害を受けています。この混乱と疲弊のまま進軍を再開するのは、大将の立場としてお受けできかねます」
「だがよ!」
「討伐失敗の全責任は私が取りますっ! ……さあ、急いで負傷兵を救出して全軍撤退の準備を」




