第28話:真のコンプレックス解放
「東秩父くん! 東秩父くん!」
親しげに呼びかけられ、ヤギとヒツジの世話をしていた東秩父(埼力:2500)は顔を上げた。
視線の先、皆野町の大名である皆野(埼力:7500)が息を切らしてやって来るところだった。
ここは東秩父村にある“彩の国ふれあい牧場”。
「これはこれは、皆野さん。遠路はるばるようこそ」
和やかな笑顔で応じる東秩父。
「動物たちの世話とは精が出るね」
「はい。この子たちは世話をすればするほど可愛くて」
皆野は牧場の眼下に広がる広大な景色を見渡した。
「それにしてもここは関東平野を一望できる実に最高のロケーションだな」
「そうでしょう? 私のお気に入りの場所です。世間がどれほど荒れていようと、この一帯だけはいつも変わらず穏やかですから」
その言葉に込められた“含み”を皆野は感じ、表情を引き締めた。
今日は動物と戯れに牧場にやって来たわけではない。
皆野はさっそく本題に入った。
「東秩父くん。秩父殿から『建国決起の書状』が届いているはずだ。何故、未だに返事を出さない?」
東秩父は笑顔を解き、無言のまま皆野を見つめる。
「もしかして、まだ迷ってるのかい?」
畳みかける皆野の問いに、東秩父は憂いの顔になる。
この追及からは逃げられないのだと悟ったように。
諦めたように、持っていた飼育道具を片付け始めた。
「ここでは何ですから、場所を移しましょう。“道の駅 和紙の里ひがしちちぶ”へ」
落ち着いた風情の庭園に建つ、情緒あふれる建造物。
ここはユネスコ無形文化遺産にも登録された伝統の手漉き和紙『細川紙』の産地。
屋内の作業場には、楮を原料とした紙漉きの製造道具が並んでいる。
ちなみに、本格手打ちそばの体験もできるみたい。
皆野は木製の椅子に腰掛け、それらの道具をまじまじと眺めていた。
「東秩父くんの誇る紙の製法技術は素晴らしいな。かつてオイルショックならぬペーパーショックが埼玉国を襲った際、世間では紙が手に入らず、一時的に竹簡で民は書類をやりくりしていた。あの時、東秩父くんが連日徹夜して和紙を作り続けてくれたお陰で埼玉国は危機を脱することが出来たんだ」
「いやいや滅相もない。私は目の前の職分を果たしたまでに過ぎませんよ」
東秩父は恐縮した顔で、淹れたてのお茶を運んできた。
「狭山茶が手に入りましたので、どうぞ」
そう言って、皆野の向かいに腰を下ろした。
二人は温かいお茶を啜る。
湯気が立ち上る中、皆野は再び本題へと踏み込んだ。
「秩父殿を新たな王として仰ぎ、この地に『秩父王国』を建国する。地方のことなど考えないダ・サイタマ王の帝都さいたま市には、もう皆が失望し見限っている。我々は埼玉国から離脱し、自分たちの理想の国を起こすんだ。すでに横瀬くん、小鹿野くん、長瀞くんは快くこの決起に賛同したよ。当然、僕もね。で、東秩父くん。なぜ君だけがこの歴史的な決起に躊躇してるんだい?」
皆野の言葉に苛立ちはない。
ただ、断る理由などどこにあるのか、という純粋な疑問が滲んでいた。
東秩父はやがて、観念したようにひっそりと語り始める。
「皆野さん。この村は埼玉における“陸の孤島”です」
「陸の孤島?」
自虐めいた前置きに、皆野は首をかしげた。
「私はかつて『市』や『町』に憧れ、自分だけが『村』であるという事実に激しいコンプレックスを抱いていました。隣の芝生は青く見え、周囲が眩しく見え、羨ましかったんです」
東秩父の眼差しは窓の向こうの、遠い空へ。
「でも、花桃の郷の綺麗な風景を毎日眺めているうちに、気づけば胸のわだかまりは消えていました」
「うん……つまり?」
「つまり里山の美しさに囲まれているうちに、己を縛り付けていたコンプレックスがいかに下らないものだったか、気づかされたわけです」
東秩父は視線を屋内に戻し、真っ直ぐに皆野を見つめた。
「国家という枠組みもまた、人を縛り付けるものでしょう? 埼玉国であろうと秩父王国であろうと、私はどうでもいいです。現状、帝都からの重税には苦しめられていますが、なんとか穏やかに生きていけてます。それをわざわざ荒波を立てて争いを始めること自体、億劫で仕方がないと敬遠してしまいます」
「東秩父くん……」
「それにですね、もう一つ決定的な事実を申し上げましょう。東秩父村は確かに秩父郡に属する村ではあります。ですが秩父盆地の東側に存在するのです。なので東秩父村は秩父地方ではなく、隣接する比企郡(小川町や嵐山町など)の自治体とともにあります。名前に『秩父』と付いてはいますが、私たち東秩父村の心はどちらかと言えば『比企』寄りなのです」
「な、なんだって……?」
皆野は言葉を失いかけた。
東秩父村は秩父地方に属するのではないのか。
しかし、皆野はここで引き下がる男ではなかった。
大きく深呼吸してから、勢いよく椅子から立ち上がった。
「心は比企寄り、名ばかり秩父。だから秩父王国の建国は自分には関係ない、そう思わないで欲しい!」
「何ですって?」
東秩父の眉がぴくりと動く。
「皆野町はね、“秩父音頭”発祥の地なんだ。僕も幼少の頃から踊りと民謡を叩き込まれてきた。今から東秩父くんにその真髄をお見せしよう。秩父王国へ君を迎え入れたいという、僕の溢れんばかりの情熱を込めて!」
そう言うと皆野は腰を落とし、舞い始めた。
情緒あふれる和紙の里と、その踊りは共鳴する。
皆野が民謡を唄い出すと、周囲に光の粒子がふわりと漂う。
予期せぬ皆野の奇行に圧倒され、東秩父は思わず後ずさった。
でも何故だろう。
段々と東秩父の胸の奥から、熱い記憶がじわじわと蘇ってきた。
聞こえてくるはずのない太鼓の拍子、三味線の音色、吹き抜けるような笛の旋律。
幻聴なのか、実際に聞こえてくるのか、もはや判別など出来なかった。
これは……秩父地方の祭り!?
瞼の裏に、幼き日の情景が浮かび上がってくる。
熱気に包まれた祭りの夜、秩父の大きな手に引かれながら提燈に囲まれた人混みを歩いたこと。
立ち並ぶ出店で、横瀬や小鹿野が買い与えてくれた焼きそばやリンゴ飴の味。
心臓に響き渡る夜空に高らかに打ち上がる花火を、隣りにいた長瀞と一緒に夢中で見ていたこと。
東秩父は、泣いていた。
なんだろう、この気持ちは――
どうして私は――
こんなにも大切な思い出を、忘れていたんだろう――
かつて味わった青春の息吹。
いや、秩父地方の青春は終わらない。
これからもずっと、ずっと――
いつの間にか皆野は踊りを終え、東秩父の手を力強く握りしめていた。
「頼む、東秩父くん。我々と共に理想の国を創ろう。一緒に立ち上がってくれ!」
そしてあろうことか、皆野は跪いて深々と頭を下げたのだ!
「そんな……!?」
かつてない激震が東秩父の胸に走る。
皆野は『町』で、東秩父は『村』だ。
町が村に、地面に膝をついて頭を垂れるなんて。
そこに上も下もなかった。
長年、東秩父の心を苛み続けていた村コンプレックスが今、完全に消滅した。
「……もう顔を上げてください。分かりました。私も秩父王国に籍を入れましょう」
東秩父は涙を拭って微笑んだ。
その笑みは、幼い頃に祭りを楽しんでいたあの笑顔そのもの。
「建国宣言書に使う紙は、是非、私が作った細川紙を使って下さいね!」




