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透明の心臓【外典】  作者: 水瀬 悠里
Ⅳ【外典】ダーク・ハート

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スピンオフ【外典】Ⅳ

塔に飲まれた幼い影


◆リリカ


塔が、ノヴァを呑んだ。


それは「連れて行かれた」という言葉では足りない。空間ごと、呼吸ごと、未来ごと──奪われた。


リリカはその場に立ち尽くしていた。足が動かなかった。叫び声も出なかった。


胸の奥が、痛い。


ただ悲しいとか、怖いとか、そういう感情の前に、痛みが、身体の中心で鈍く鳴り続ける。


(……あたしが、見ていれば)(あたしが、もっと早く気づいていれば)


頭の中に、無数の「もし」が走る。それは全部、遅い。


風が吹く。埃を巻き上げ、焦げた匂いを残したまま、塔の周りを巡っていく。


リリカは唇を噛んだ。血の味がした。


慧吾が、塔を見ている。いつものように静かで、いつものように表情が読めない。


けれど──リリカには分かった。


あの背中は、今、折れないために“固まっている”。


誰かが泣けば、あの背中はすぐ振り向いて、全部背負おうとする。だから、リリカは泣かなかった。


泣いたら、慧吾が壊れる。


そう思ってしまう自分が、また痛い。


(……違うのに)(あたしが守るんじゃないのに)


でも、リリカの手は震えたまま止まらない。胸の奥の光が、弱く、必死に脈打っている。


“行って”“迎えに行って”


言葉にならない願いが、心臓の裏側で擦れる。


リリカは息を吸った。肺の奥まで痛かった。


(でもきっと――)


リリカは、慧吾の横顔を見ないようにして、思った。


(いちばん痛いのは、慧吾だ)


◆辰彦


丘の家に戻っても、空気が薄い。


笑い声が一つ減るだけで、家の中は、こんなに広くなるのか。


辰彦は台所に立ち、無言で米を研いだ。水の音がやけに大きい。


具を刻む。手は覚えている。握り飯は、いつだって“帰ってくる腹”に合わせて作るものだ。


ノヴァが好きな具。少し甘い卵。濃いめの塩。大きめの海苔。


握って、置く。


テーブルの上に、二つ。


“いつ帰ってきてもいいように”


それは祈りではない。辰彦にとっては、生活だ。生活は、絶望に負けない。


勝手に終わらせない。終わらないと決めて、手を動かす。


窓の外で風が鳴った。夜の匂いがする。冷たい。


辰彦は腰を下ろし、握り飯を見つめた。誰も食べないまま、湯気だけが消えていく。


「……あほう」


声に出した瞬間、自分の声が少し掠れていることに気づく。喉が熱かった。


(わしが、もっと早く気づいていれば)(あの子を、遊ばせてやる時間を――守れたかもしれんのに)


悔しさが胸を掻いた。だが、それ以上に、寂しさが残る。


子どもの気配が消えると、家は静かすぎる。


辰彦は、ふと廊下の向こうを見る。慧吾が座っている。動かない。息の音さえ、薄い。


あの男は泣かない。泣き方を知らないまま、生きてきた。


「……いちばん寂しいのは、きっと慧吾じゃ」


辰彦は、握り飯を一つ、布で覆った。冷めても、そこにあるように。


◆哲平


哲平は、拳を握ったまま立っている。


握りすぎて、爪が食い込む。痛いのに、緩められない。


怒りが行き場を失って、身体の内側で熱になる。


塔の前で、哲平は一度、叫びかけた。追う。突っ込む。砕く。取り返す。


でも、慧吾の声が落ちた。


「待て」


短い命令。拒否じゃない。止めないと、誰かが死ぬから──その声。


哲平は止まった。止まれた自分が、悔しい。


(なんで止まった)(なんで届かなかった)(なんで、守れなかった)


胸の熱が上がる。目の奥が痛い。


「……くそっ……!」


壁を殴りたい。地面を砕きたい。でも、そんな音を立てたら、慧吾が振り向く。


慧吾は今、塔を見ながら、全部を計っている。どれだけの犠牲で、取り返せるか。どれだけ自分を削れば、道が開くか。


哲平には、その計算が見える気がした。


(やめろよ)(お前が払うなよ)(みんなで払うんだろ)


でも慧吾は、言わない。言わないまま、背中で決める。


哲平は歯を食いしばる。


「俺が……もっと強けりゃ」


言葉が喉で引っかかる。自分の弱さが悔しい。そして──


慧吾が“強すぎる”のが、もっと悔しい。


あいつは自分の限界を、限界だと思わない。限界の方をねじ伏せて進む。


だから、誰も追いつけない。


哲平は、塔の影の中に立つ慧吾を見て、低く呟いた。


「……いちばん悔しいのは、慧吾だ」


◆諒介


諒介は端末を叩く。


解析ログ。残留波形。崩壊した構造の記録。塔が呑み込んだものの痕跡。


数字は正直だ。嘘をつかない。だから頼れる。


だから──残酷だ。


「……足りない」


呟く。情報が足りない。推定が立たない。誤差が大きすぎる。


(俺が、もっと早く)(俺が、もっと正確なら)(ノヴァは──)


諒介はそこで止めた。仮定を積み上げると、必ず行き着く先がある。


“取り返せなかった”という結論。


それが嫌で、さらに端末を叩く。数字の海に沈めば、感情を消せる気がした。


だが消えない。


慧吾が、近くにいる。呼吸が乱れていない。脈も、いつも通りに見える。


けれど諒介は知っている。


慧吾は計算するときだけ、緊張する。誰かを安心させたいときだけ、過剰に正確になる。


(リリカに負担をかけたくない)(仲間に不安を渡したくない)(ノヴァに“待て”と言いたくない)


そのために、今も、無言で自分を削っている。


諒介は端末を閉じた。静かに息を吐く。


数字は解ける。構造も読める。


だが──


「守れなかった」という一点だけは、どんな計算でも、取り返しがつかない。


その事実が、やるせない。


諒介は視線を伏せた。


「……いちばんやるせないのは、慧吾だ」


◆ジャック


夜風が冷たい。


ジャックは外に立って、煙草を咥えた。火をつける前に、塔の方を見る。


あそこにいるのは敵だけじゃない。“終わらせきれなかった世界”がいる。


ジャックは吐き捨てるように息を吐いた。


「……チッ」


悔しい。腹が立つ。


でも、その全部の底にあるのは──悲しみだ。


ノヴァはまだ子どもだ。守られる側のはずだった。取り返すのが大人の役目だ。


それなのに、取り返せなかった。


ジャックは煙草を噛んだまま、手を下ろす。火をつけない。


火をつけたら、泣きそうになる気がした。


ふと、気配が隣に並ぶ。慧吾だ。足音がない。


ジャックは、わざと軽口を言いたくなった。空気を壊したくなった。


でも言えなかった。


慧吾の沈黙が、硬すぎる。


壊れないための沈黙。崩れないための鎧。


(お前さ)(それ、いつまで着るつもりだ)


ジャックは言えない。言ったら、慧吾が崩れてしまう気がした。“慣れてる”と言って、さらに奥へ沈む気がした。


だからジャックは、空を見上げる。


星が遠い。あまりに遠い。


「……いちばん悲しいのは、慧吾だ」


煙草の火を、まだつけないまま、ジャックは呟いた。


◆慧吾


慧吾は、塔を見ている。


見ているだけで、何も動いていないように見える。だが、身体の内側は騒がしい。


痛い。寂しい。悔しい。やるせない。悲しい。


全部ある。


それを一つずつ認めたら、膝が折れる。だから、慧吾は認めない。


呼吸を整える。脈を数える。風の向きを読む。次の動きを決める。


“迎えに行く”それだけが、唯一の行動だ。


背後で誰かが泣く気配がした。リリカかもしれない。辰彦かもしれない。誰でもいい。


慧吾は振り向かない。


振り向いたら、その痛みを受け止めてしまう。受け止めたら、今度は自分が動けなくなる。


胸の奥が、ぽっかり空いている。


穴の形が、ノヴァの輪郭をしている。


慧吾は、自分の手を見下ろした。この手で、守れると思っていた。この手で、連れ戻せると思っていた。


(……何もしてやれなかった)


その言葉が、喉の奥で渦を巻く。出したら終わる。だから、飲み込む。


代わりに、慧吾は短く息を吐いた。


「……迎えに行く」


誰に言うでもなく。誓いでもなく。ただの事実として。


風が吹く。塔の影が揺れる。遠くで、何かが軋む音がした。


慧吾は一歩、前へ出た。


穴を抱えたまま。


そして、誰にも見せないところで、胸の奥の透明な心臓にだけ、静かに言った。


(待っていろ)


(必ず、取り戻す)


※作者より※


ノヴァが塔に飲まれたあとの、あの数日間。本編では描ききれなかった、彼らの心の揺れを追ってみました。


誰も声高に嘆かない。誰も誰かを責めない。


その代わりに、それぞれが胸の内で自分を責め、それぞれのやり方で、喪失と向き合っていた時間です。


彼らは強いのではなく、強くあろうとしているだけなのだと思います。


そしてきっと──その中心で、いちばん静かに傷ついていたのは、慧吾でした。


それでも彼は前を向く。だから、彼らも前を向く。


あの数日間があったからこそ、次の一歩があるのだと信じています。

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