第10章 風の気配
それは、ノヴァが消えた夜から七日目のことだった。
ソムニウムの朝は、相変わらず穏やかだった。市場にはパンの匂いが漂い、塔の影には子どもたちが座って遊んでいた。
けれど──“ひとつだけ”違いがあった。
風が、ひとつの方向にだけ流れ続けていた。
辰彦が眉を寄せた。
「……南風しか吹かん。 こんな日は滅多にないぞ」
諒介が塔のほうを見上げる。
「塔が……鳴っている」
塔の上部が、ゴォォ……と低く喉を鳴らすように揺れた。
哲平が背筋を震わせた。
「おい、これ…… ノヴァが消える前も鳴ってたよな……?」
ジャックは即座に慧吾を探した。
だが──いなかった。
リリカが気づき、息を呑む。
「……また、街の外?」
慧吾はひとり、丘の上に立っていた。
外套を風に揺らし、ただ一点、遠い空の向こうを見つめていた。
胸の光は少し痛んだ。でも、その奥の“風穴”のざわつきの方が痛かった。
(……呼んでいる。 昨日までと違う……もっと近い……)
足元に、かすかな花びらが落ちた。
白い光の粉――ノヴァが落とした欠片と同じ色。
慧吾はそれを拾い、掌でそっと包んだ。
「……帰ってこい」
風が答えたように吹き抜けた。
ジャックが遅れて丘に駆け上がる。
「ったく、…俺に心配させんな」
慧吾は少しだけ視線をジャックに動かす。
「……聞こえるか。 風の音が……ひとつ、足りない」
ジャックは息を整えながら、眉をひそめた。
「……どれだ」
「笑い声だ」
ジャックが一瞬、目を閉じた。
(……ああ……)
ノヴァの、あの透き通る声。パンを頬張ったとき、諒介のおもちゃを貰ったとき、ジャックに抱えられて笑ったときの声。
その音が──風の中から消えていた。
慧吾はゆっくりと言う。
「“風の道”が、帰ってくる音を探している。 ……ノヴァの声を、待っている」
ジャックは煙草をくわえ直し、短く言った。
「だったら…… 俺たちも待つしかねぇな」
だが次の瞬間。
丘の向こうからひとすじの風が吹き、花の平野がざわりと揺れた。
風が逆流する。
慧吾の胸の光が、一度だけ、強く、強く脈打った。
慧吾は小さく呟いた。
「……帰る風だ」
同じ頃。
リリカは自室で静かに涙を拭っていた。
ノヴァの寝ていたベッド。お気に入りだった毛布。蜂蜜パンを半分だけ残した、あの朝。
あまりにも日常が残りすぎて、動けば胸が締めつけられた。
「……ノヴァ……」
けれど突然。
窓辺の風鈴が、ひとりでに鳴った。
リン……リン……
夜でもないのに。風も吹いていないのに。
(……え……?)
リリカはそっと手を伸ばした。すると──風鈴がふわりと揺れ、はっきりと聞こえた。
“……ただいま……”
リリカの目が大きく開き、声にならない嗚咽が漏れた。
「……ノヴァ……っ……!」
涙があふれ、頬を熱く流れた。
祈るように窓を開けた瞬間、風がリリカの頬を撫でた。
その風は──あの日、ノヴァが笑った時の温度だった。
夜が深くなる頃、塔は再び低く鳴り始めた。
ゴォォォ……
街の灯りが揺れる。
辰彦が杖を突きながら叫ぶ。
「来るぞ!! 今度は……“帰る風”じゃ!!」
哲平が広場から声を上げる。
「おい!風の道が一気に南へ吹いてる!! 慧吾とジャックのいる方向だ!!」
諒介が走りながら呟く。
「……戻る気配…… あの子は……帰ってくる」
リリカは涙に濡れた顔で、微笑んだ。
「……うん…… ノヴァ……帰ってきて……」
そして丘では――慧吾が確かに感じ取っていた。
胸の風穴の奥で、小さな光が、かすかに脈打っている。
(……帰ってくる……)
慧吾は、東の空を見つめる。
(ノヴァ…… 今度は……必ず……手を伸ばす)
──風が、少年を連れて帰ってくる。




