第9章 帰る風を待つ街
ノヴァが塔へ吸い込まれるように消えてから、ソムニウムの夜は嘘のように静かになった。
胸の奥を裂くような痛みは、慧吾の中でふっと半分だけ薄れ——代わりに、ひどく空しい“風穴”が開いた。
「……痛みじゃない。 何か……風が通り過ぎるんだ」
そう言った慧吾に、ジャックは煙草をもみ消しながら目を細めた。
「顔色は冴えねぇが…… 本当に、痛みは消えてんのか?」
「ここに、もうひとつの鼓動があったはずなんだ」
慧吾は、自分の胸を押さえた。もうそこには、ノヴァの光に呼応して震えた温度はない。代わりに風がひゅう、と抜けていくような寂しさだけが残った。
ジャックはしばらく黙っていたが、やがて迷った末に言った。
「……言おうか躊躇ったんだがな」
「言え」
「……あの夜。 塔に消えた瞬間、 飛んでいくのが見えた……ノヴァの光の欠片が」
慧吾の目がわずかに揺れた。
「どこへ」
「……南風の方角だ。 街の外れ──あいつがよく風に手を伸ばしてた場所のほうへ、だ」
慧吾は目を閉じた。
(……生きている。 生きて、風に運ばれていった……)
胸の奥に開いた風穴が、一瞬だけ温かく震えた。
不思議なことが起きていた。エコーズの群れは街に近づかなくなり、痛むように蠢いていた地下の核も、嘘のように沈黙した。
哲平がため息のように、呟く。
「……あのちびがいなくなってから、 静かすぎる……なんだか、毎日元気が出ねえ気がするよ」
諒介は空を見上げながら、短く答えた。
「……そうだな」
辰彦は杖を鳴らす。
「ノヴァの光はの…… ただの“核”ではないんじゃ。 慧吾の光と混ざった、もうひとつの命じゃ」
その声に、静かにリリカが目を伏せた。
慧吾が家に戻るたび、リリカはそっと彼に湯を差し出した。
「……胸、まだ痛い?」
慧吾は答えない。答えれば、泣いてしまうのはリリカの方だから。
それでも、ある夜。リリカはとうとう堪えきれなくなった。
「……ごめんね……慧吾。 私、ノヴァがいない部屋を見て、 何も言えなくて……」
肩を震わせ、頬を濡らす。その涙は“過去”の涙ではなく、“未来をすでに信じている涙”だった。
慧吾はわずかにまぶたを伏せた。
「……ノヴァは、消えていない」
ジャックが横から、空気を壊さないように、でもぶっきらぼうに言う。
「そうだ。 あのガキは、どっかで生きて風に乗ってる。 ……あいつは、そういう顔してた」
リリカは泣き笑いになった。
「……うん……わかってる…… でも……会いたいよ……」
慧吾は胸に手を置いた。そこには、風穴のような静寂がある。
でもその奥で──かすかに、かすかに。
小さな鼓動が残っている。
「……俺もだ」
翌朝から、慧吾は街の外へ出るようになった。
南風の吹く道。白い壁の外周。花の平野。塔の見える崖。
ノヴァが花を拾った場所。哲平に石を投げてもらった場所。ジャックの外套を掴んで泣いた場所。
どこかに、あの光が落ちている気がした。
ジャックはいつも後ろをついてくる。
「……ついてくるな」
「やなこった。 お前ひとりで歩かせたら、また死に急ぐ」
「……これは“死に急ぎ”じゃない。 ノヴァの──」
「わかってるよ。光の匂い追ってんだろ。 だから余計に目ぇ離せねぇんだよ。街の外に見つけたら、お前は1人でもそこに走るだろうが」
慧吾はため息をつき、歩幅を少し緩めた。
風が二人の間を通り抜けた。
ほんの一瞬。その風は、確かにノヴァの体温を連れていた。
ジャックが小さく呟く。
「……帰ってくるぜ。あのちびは」
慧吾の胸の奥が、静かに答えた。
(ああ……必ず、帰ってくる)
その思いだけが──まだ街のどこにもいないノヴァの、たったひとつの“帰り道”だった。




