第8章 ひかりの形
指先は、届かなかった。
ノヴァの小さな背中が、塔の闇の中へと吸い込まれていく。
ふらつきながらも駆け上がる足音だけが、石の階段に反響していた。
「ノヴァ……!!」
慧吾は、崩れ落ちた体を無理やり引きずり起こそうとした。
だが、胸の光がひときわ強く脈を打つたび、視界が白く弾ける。
「く……っ!」
手が、地面の砂を掴んだ。
その肩を、ジャックが乱暴に掴む。
「動くな!お前が死ぬぞ!」
「離せ……ノヴァが……!」
「行けねぇんだよ!」
ジャックが歯を食いしばる。
「見ろ!」
崩れた塔の入口。
そして、その奥──
階段の先にも、ひび割れた石がむき出しになり、
足場は子どもの体重しか支えられないほど脆くなっていた。
「大人が乗ったら、まとめて崩れ落ちる。
……あれは、ガキしか通れねぇ道だ」
塔そのものが、
ノヴァひとりだけを呼んでいる。
慧吾の指先から、力が抜けた。
(……また、ひとりで行かせるのか)
あの日、誰にも救われなかった自分と同じように。
今度は、自分が、救えない側にいる。
胸の奥が、焼けるように痛んだ。
塔の内部。
ノヴァは、息を切らしながら狭い階段を登っていた。
足元が揺れる。
壁の石が泣くように軋む。
でも──止まれない。
(いそがなきゃ……
ぼくが……まにあわなかったら……
また、けいごが……いたいの、がまんして……)
胸が、熱い。
“戻れ。壊せ。混ざれ。帰ってこい”
叫び声が、頭の中でぐるぐる回る。
それなのに──
(……ぼく、やだ。
みんなをこわしたくない。
ぼくの中にいる“これ”が、いやだ)
涙を拭う暇もなく、
ノヴァはさらに上へ向かった。
螺旋階段を抜けた先──
そこは、塔の心臓部だった。
天井は砕け、夜空が近かった。
塔の中心には、
白と黒の光が渦を巻いている。
地の底から伸びてきたような黒い脈動と、
ソムニウムの風が孕んだような白い光。
それらがぶつかり合い、
空気そのものを軋ませていた。
ノヴァの胸が、激しく唸る。
「……ここ……」
ノヴァは、その瞬間、理解した。
(ここが、“ぼくの中のこれ”の……
かえりたい場所なんだ)
足元が震える。
塔がノヴァを中心に、呼吸するように揺れている。
ノヴァは、震える手で自分の胸を押さえた。
「ぼくは……。
ここに……いたい。
でも……“これ”は……」
顔を上げる。
渦が、ノヴァを見つめ返すように脈動した。
「ぼくが、つれていくよ」
塔の下。
慧吾の胸が、焼け付くように痛んだ。
「ッ……!」
地面に手をつく掌が震える。
中から、何か大切なものが剥がされていくような感覚。
「……ノヴァ、なにを……」
ジャックが奥歯を噛み鳴らす。
「上だ……塔の中枢で、何かやってやがる……!」
その時。
街全体が、ぞくりと震えた。
塔の頂上。
ノヴァは、光の渦の目の前に立っていた。
黒い影が囁く。
“壊せば楽になる。
全部、終わらせろ。
もともとお前は、そう創られた”
ノヴァの喉が震えた。
(そう……なんだ)
自分が何者かなんて、
本当は最初からわかっていた。
βの欠片。
吸い込んだ、闇。
ちぎり取った命。
でも――
胸の中に浮かぶ顔があった。
けいご。
りりか。
ジャック。
たっつぁん。
てっぺー。
りょうすけ。
(ぼくは……「ノヴァ」だ)
ひとりぼっちじゃない。
名前を呼ばれた。
抱きしめられた。
「ただいま」と言える場所をもらった。
だから、大丈夫。
ノヴァは、一歩、渦の中へ踏み込んだ。
胸が焼けつく。
「いた……いっ……!」
両膝が折れそうになる。
それでも、両腕を広げた。
「ぼくが……
いま、かえしにいくよ」
声は震えていたけれど、
言葉だけはまっすぐだった。
「まちも……
みんなも……
けいごも……だいすきだから……」
涙が、頬から光の中へ落ちていく。
「ぼくがいなくなったら、
けいご……きっと、いたくなくなる。
だから……」
ノヴァは、笑った。
子どもの顔で。
でも、どこまでも覚悟を孕んだ笑みで。
「……さよなら、は、いわないよ。
“いってきます”だから」
光が弾けた。
塔の外。
夜空が裂けた。
白と黒の光が混ざり合い、
巨大な柱となって天へと駆け上がる。
慧吾とジャックは、その直下で吹き飛ばされた。
「くそっ!!」
ジャックが地面を転がりながら、慧吾を庇う。
耳をつんざく轟音。
塔が嬌声を上げる。
「ノヴァ!!」
慧吾の叫びは、風に飲まれていく。
塔の先端が、
ゆっくりと──そして、あまりにあっけなく折れた。
砕けた石と一緒に、
光の塊が夜空へ散る。
リリカが駆け込んできたのは、その直後だった。
「慧吾!! ジャック!! ノヴァは──」
目の前で崩れ落ちる塔の先を見て、
膝が抜けた。
「……いや……いや……いやだ……ノヴァ……!!」
崩れた石のどこを探しても、
小さな身体は見つからない。
夜空だけが、
まだ残響のように白く揺れていた。
その時。
ひとつだけ、
形を保ったままの光の欠片が現れた。
小さな、小さな光。
それは塔の上から滑り降りるように、夜空を斜めに走り──
街の外れの闇へ向かって飛び去っていった。
それに気づいたのは、ジャックだけだった。
「……あ……?」
息が止まる。
(今のは──)
ただの光ではない。
“帰り道”を覚えている光だ。
ジャックは、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……あいつは、大丈夫だ」
慧吾は地面に手をついたまま、
砕けた塔と空だけを見上げていた。
胸の奥で、
光がかすかに脈を打つ。
痛みと共に。
けれど、完全な喪失ではない何かを孕んで。
風が吹いた。
泣いているような、
でも、どこか抱きしめるような音で。
リリカは嗚咽の合間に、かすれた声で問う。
「……ノヴァ……!!」
リリカの呼び掛けに、慧吾は答えられなかった。
ただ、胸の奥に残った微かな光に手を当てる。
(……お前は……どこまで行っても、俺の“風”の中だ)
声にならない言葉が、
夜の闇に溶けていった。




