【外典スピンオフ】風守の子どもたち2
第5章 黄昏の教室、風の実験
塔のふもとの集会小屋では、ノヴァが子どもたちと向かい合っていた。
窓の外は、今日も風が強い。草原が大きく波打ち、夕陽に照らされて金色の海みたいに揺れている。
ノヴァは年季の入った机を「よいしょ」と押し出し、子どもたちを円く集めた。
「今日はね、特別授業だ。『風の言葉を聴く』練習をしてみようと思う」
子どもたちの瞳が、一斉にきらっと光った。
「ほんとー!? 風ってしゃべるの?」
「おじいちゃんには聞こえるんでしょ?」
「ね!どんな声?」
ノヴァは笑って、ゆっくり首を振った。
「…声、というより“気配”かな。風は形がないから、音で話すわけじゃない。心の中の、静かなところで触れるんだよ」
子どもたちは「ふーん?」と首をかしげたり、真剣にうなずいたり。
ノヴァは、窓を少しだけ開けた。強い風がひゅう、と一気に吹き込み、紙や草花を散らした。
「わぁ!!」
「髪がぐちゃぐちゃ!」
それでもノヴァは、ふっと目を細めて言った。
「この風の奥にね――“誰か”がいるんだよ」
子どもたちが息をのむ。
「今日の風は怒ってる?」
「違うよ、なんか楽しそうだったよ?」
ノヴァは肩をすくめる。
「じゃあ、聞いてみようか。今吹いた風は、どんな“色”に感じた?」
「えー色?」
「うん、感じでいいんだ」
しばらく考えると、ひとりの女の子が言った。
「…オレンジ」
続いて、男の子が続く。
「黄色!」
「ピンクっぽかった!」
ノヴァは破顔してうなずいた。
「うん、それで正解。風はね、その人の心を映す鏡みたいなもんだ。色だって、匂いだって、音だって――人によって違っていい」
子どもたちが盛りあがるなか、窓の外で、風がくるりと小さな渦を巻いた。
ノヴァは気づいて、そっと目を閉じた。
(……慧吾か)
ふわりと頬に触れた風が、ほんの一瞬だけ、若い頃と同じ“少年の心”を呼び覚ました。
――『よく教えてるな、ノヴァ』
ノヴァは吹き出しそうになるのをこらえて、微笑んだ。
(見てたんだろう?最初から)
――『ああ。みんな、いい顔をしてる』
「先生、いま風が笑ったよ!」
子どもたちが駆け寄ると、ノヴァは頷いた。
「うん、笑ったな。…今日の風は、嬉しいらしい」
夕陽の風が教室ぜんぶをまわり、子どもたちの笑い声をくすぐりながら、空へと駆け上っていった。
外套の端が、すこしだけ揺れた気がした。
第6章 風のぬくもり、丘のひだまりで
丘の上は、朝の冷たい風が踊っていた。けれどその真ん中、ぽつりと陽だまりになっている場所に、ノヴァは毛布を肩からかけ、膝を抱えて座っていた。
「まったく……寒いのに、よくこんなところで寝られるねぇ」
塔の管理人の女の子たちが笑いながら、温かいスープを渡してくれる。ノヴァは受け取って、ふーふーと息をかけた。
そのとき。
背中のほうで、風がふっと丸くなるように渦を巻いた。その温度が、さっきまでの風よりずっと、柔らかい。
――『寒いだろう。ほら、こっちだ』
「……慧吾?」
ノヴァは毛布の端をぎゅっと握りしめた。風が彼の膝のあたりを通り抜け、そっと身体を包んだ。
冷たい空気の中で、そのひとかたまりの風だけが、なぜか陽だまりの匂いをしていた。
「慧吾、今日はずいぶん暖かいじゃないか。 ほら、みんなのところにも行っておやりよ」
――『今日は、まずお前が先だ。 ……震えていたからな』
ノヴァはくつくつと笑い出す。
「見てたのか」
――『風は、どこにでもいる』
「……便利すぎるよ、お前は」
――『便利じゃない。お前が心配なんだ』
ノヴァは一瞬だけ目を閉じ、その声を胸の奥で受け取る。
「……慧吾は、変わらないなぁ。 ほんと、会った時からずっと」
――『そうか? 俺は……お前の方が変わったと思うが』
「どこが?」
風が一瞬だけ揺れて、ためらうように、けれど確かに答えた。
――『よく笑うようになった。 ……あの頃より、ずっとあたたかい』
ノヴァは自分の胸に手を当てた。そこにある鼓動は、昔と同じで、でもどこか優しくなっていた。
「じゃあさ、これはきっと…… 半分はお前の風のせいだよ。慧吾」
風がかすかに震える。
――『……なら、嬉しいな』
「ん?」
――『俺に、まだ……渡せる“あたたかさ”があるってことだろう』
ノヴァは静かに微笑んだ。どこか少年の顔に戻ったような、柔らかい笑み。
「あるさ。ずっと、ずっとある。 だって俺たち――」
言いかけて、ふっと笑う。
「……約束しただろう?」
風が応えるように、優しいひだまりの匂いを運んできた。冷たい朝なのに、その風だけは――まるで掌のぬくもりみたいだった。
第7章 ひかりの跡をたどって
塔のまわりを、朝の風がそっと巡っていた。夜露の残る草の香りがほんのり漂い、鳥たちが低くさえずる。
ノヴァはゆっくりと階段を上がってきた。膝がきしむ、それでも一段ずつ確かめるように登っていく。
塔の上に出ると、いつものように風がひと筋、ノヴァの胸元を通り抜けた。
「おはよう、慧吾」
――『おはよう、ノヴァ』
返事は、とても柔らかい。ほんの少しだけ、笑っているようでもあった。
ノヴァは塔のふちに腰を下ろし、足をぶらぶらと揺らした。まるで、少年の頃に戻ったみたいな仕草だ。
「今日はな、ちょっと不思議な夢を見たんだよ」
――『どんな夢だ?』
ノヴァは目を細め、遠くの草原へ視線を送る。
「昔の街だ。まだ戦いがあって、塔も崩れてて…… でも、風だけは今と同じだった。 あったかくて、優しくて…… あぁ、これはぜったい“お前”だ、って」
風がやわらかく揺れた。塔の上の草が一斉にざわめく。
――『夢でも、そばにいたら安心するか?』
「するよ。 ……いまでも、してる」
ノヴァは胸の前で両手を組んだ。指先が、ほんの少し震えている。
「慧吾。 俺さ、もうすぐ本当に終わりが近いって、わかってるんだ」
風がすっと静まった。塔の上だけ、世界が止まったみたいになる。
「でもな……怖くはないよ」
――『どうしてだ?』
ノヴァは、風の吹く方向へ顔を向けた。日の光が白髪を照らし、薄く金色に染めていく。
「お前が迎えに来てくれる気がするからだよ。 そしたら俺、また少年に戻って、 お前と一緒に、好きなだけ走れるんだろ?」
風が、ため息のようにふわりと笑った。
――『迎えに行くさ。 呼ばれなくても行く』
ノヴァは頬をほころばせ、肩を揺らして笑った。
「だよな。 ……なぁ、慧吾。 俺、ひとつだけ聞いていいか?」
――『ああ』
「お前はさ……後悔してないか? あの時、自分の命を、俺に半分渡したこと。
風になって、姿を失ったこと。
俺たちを置いていったこと……」
しばらく、風は何も言わなかった。
けれど次の瞬間、ノヴァの背中にだけ、そっと暖かい風が触れた。
――『後悔など、ひとつもない。 その選択の先に、今のお前がいる。 今の街がある。 今の風がある』
風はさらに強くなり、塔の上を包み込む。
――『そして……こうして毎朝、お前と話せる』
ノヴァの目に涙が光った。でも、それは悲しみじゃない。
「……そっか。 よかった……」
風がそっと、ノヴァの白髪を撫で上げた。
――『なぁ、ノヴァ。 俺からも、言っていいか?』
「なんだい?」
――『俺は、お前が生きたこの長い時間を、誇りに思っている』
ノヴァは目を閉じた。涙がひとすじ、皺だらけの頬をつたい落ちた。
それでも少年みたいに笑った。
「……ありがとう。ほんとに、ありがとう」
風がふっと上昇気流になり、空へと舞い上がった。
――『今日も、いい風だ』
ノヴァはその風に向かって軽く手を伸ばす。
「また話そうな、慧吾。 俺の声、ちゃんと聞いとけよ?」
――『聞いてるとも。 お前の声は、風よりも強い』
塔の上で、風と老人の影がゆっくりと寄り添っていた。
――風は今日も、透明な心臓の鼓動を運んでいる。
最終章 風の渡り、その向こう
塔の上に、夕暮れの風が漂っていた。
白く光る草原の向こうで太陽が沈みかけ、街の屋根がひとつずつ金色に縁どられてゆく。塔の下では、子どもたちの笑い声が風に混ざり、鍋の匂い、パンの香り、暮らしの音があたたかく広がっていた。
ノヴァは古びた手すりに手を置き、ゆっくりと空を見上げた。
もうずいぶん長く生きた身体は、風の吹く速さにさえ少し遅れるようになったけれど、心だけは、あの日の少年のままだった。
そっと呟く。
「慧吾……今日もここにいるか?」
風が柔らかく吹き寄せる。耳にかすかな声が触れた。
――『いる。お前が呼べば、いつだって』
ノヴァは目を細め、笑った。
「……よかった。 もう少しでさ、言えなくなるところだった」
風が少しだけ強くなる。それは、慌ててこちらへ駆け寄る足音のようで――ノヴァは喉の奥で小さく笑った。
「そんな顔しなくていいよ。 長く生きたんだ。 きっと、そろそろなんだろうって……わかってた」
――『……ノヴァ』
「でもね、怖くはないんだ。 お前がここにいる限り、 俺はひとりじゃないから」
風がそっと、ノヴァの白い髪を撫でた。あの頃と同じように。
「覚えてるか? 慧吾。 お前と交わしたあの約束」
ノヴァは胸元の古い外套のボタンを、皺のある手のひらでそっと押さえた。慧吾が旅立つ前に託した、あのボタン。
――『街を守れ。お前が見た未来を信じろ。 それが俺とお前の、男の誓いだ』
「守ったよ。 子どもたちにも、その子どもたちにも。 争いはもうない。 風が笑う街になった」
黄昏が塔を包み、空に星の粒がひとつ瞬いた。
風が、優しく揺れる。
――『ノヴァ。迎えに来た』
ノヴァは静かに目を閉じ、微笑みながら一歩、風の方へ身を委ねた。まるであの日の、慧吾のように。
「行こう。 これから先を、ふたりで見るんだ」
風が包み、支え、抱きしめるように渦を描く。
塔の上に、ひと筋の白い光が舞い上がり、草原の向こうへ、空の奥へと消えていった。
その夜、街の子どもたちは言った。
「ねぇ、聞こえる? 風が楽しそうに笑ってる!」
ほんとうに、笑っていた。二つの声が、ひとつになって。
風は止まらない。これからもずっと。
風守りの子どもたち(透明の心臓【外典】)Fin.




