英雄は天を仰がない
黎明はビル群の屋上を駆け抜けていた。
本部との連絡用端末からは会議室に残った『八大英雄』たちの無責任な声が聞こえてくる。
「あ、黎明〜。僕には何かお土産買ってきてよ〜。僕の楽しみを1つ代わってあげたんだからさ」
「楽しみ?」
「決まってんじゃん」
端末の向こうの英雄が笑った気配がした。
「あの『炎神』レアリスくんと殺り合う機会を逃したんだから」
「やれやれ、相変わらずの殺人嗜好者ですね」
別の英雄の呆れた声がする。
「だって炎の神なんて言われてる子だよ?一回でも殺り合ってみたいじゃん。いつも君たちがあの子と手合わせさせてくれないし」
「当たり前でしょう。貴方はいつも手加減ができないんですから。我が軍の若き才能を貴方の退屈しのぎで使い潰すわけにはいきませんよ」
呑気な奴らだ。黎明はそっと歯噛みする。レアリスの広範囲攻撃で出た損害の後始末をするのは誰だと思ってるんだ。
「あとお前ら1つ間違ってるぞ。レアリスの二つ名だが、『炎神』は間違って流布した名称だ。まあこっちのほうが強そうなんだが正確には違う」
「?……じゃあ何?」
「このまま逃げおおせたら御の字だったが……やっぱ追手たるお前を伸したほうが確実だよなァ」
彼───75319番目の『i』はレアリスから距離を置いて助走をつける。
狙うは────顎の先端。
総合格闘技において最もKO率が高いと言われる人体の急所。
「そんじゃァ……少し眠っとけ………ッ!」
拳を構える。そして、一気に叩きつけた。
はずだった───
「カッ………ハ────────ァッ」
宙に舞うのは流血。それは彼の赤い血。
黎明は端末に向けて話す。
「炎神って読み方は同じなんだが、字が少し違う。炎の神じゃなくて炎の刃
───『炎神』じゃなくて『炎刃』だ」
「バカなッ……あの酸欠状態で動いた……!?」
胸に受けたのは斬撃。レアリスの右手に握られた刀から受けた鋭い一撃。
「──大したものだ。この私が一瞬でも覚悟を決めた。しかし酸欠は所詮酸欠。完全燃焼で生じる二酸化炭素では私を失神まで至らせない」
呼吸で使われる酸素量は、実はそれほど多くないんだ。
そんなふうに解説して見せるレアリス。
その通り。呼吸を続けるだけならば。
しかしレアリスが行ったのは抜刀。彼が知覚できないほどの高速での斬撃。
「普通の人間なら刀を握る体力すら湧かねえ。つまりお前のそれは────」
「御名答。いわゆる無酸素運動と言うやつさ」
無酸素運動。それは呼吸をしない運動ではない。酸素の代わりに筋肉の収縮でエネルギーを生みだす運動法。けれど酸素欠乏の状態で行うそれは、酸欠のリスクを数倍にはね上がらせる。
「化け物かよ………ッ」
「───よく言われる」
レアリスは刀を───恐らく陽炎で隠していたのだろう──を構えた。
「貴様には驚かされてばかりだな。今度は私も、精一杯驚かせてみようか」
「もう十分すぎるほど驚愕してるっての……」
汗を滲ませながら呟く。
「灼き斬れ、『炎刃』」
先程の大雑把な炎の波とは次元が違う。
刀の振りによって放たれる蒼炎は、鋭さを帯びた明確な斬撃となって襲い来る。
「乱れ打ちかよオイ」
その炎の刃の数たるや、先程とは違う意味で視界を覆い尽くしている。
幾重、幾十重もの斬撃。
そのどれもが必殺の威力を帯びている。
「チィッ」
逃げる。
いくら攻撃に鋭さが増そうと、雑踏の中で使える能力ではない。
大通りがすぐそこだという事実は揺るがないのだ。
髪が焦げる感覚がして、前にかがんでようやく躱す。
間一髪。文字通りの。
「おっと……流石に避けきれる数じゃねェな」
また、路地の角を曲がる。彼がいたところを、無数の斬撃が高速で通り過ぎていった。
そして、彼は目を留める。普通なら目を留めることなどないそれに。あまりに見慣れているはずのそれに。
しかし彼にとって、ずっと戦場にいた彼にとって、知識としては知っていた『それ』も初めて目にするものだった。
だから────それが目に留まったのは偶然ではなく必然。当然の帰結でしかなかった。
けれど、それはどうしようもなく、彼の命運を決めることになる。
否、正確には───『それ』から思いついた、起死回生の一手が。
「待てよ?こいつァ…もしかして───」
レアリス・シャードバースは眉を顰めた。
彼がまた路地を曲がったからだ。
確かに、彼女の鋭い炎の斬撃への逃亡策としては、その路地を何度も曲がりくねるというのは悪くない。
レアリスの『炎刃』は放ったあとの操作はできない。したがって真っ直ぐにしか放てないのが難点であり欠点であり弱点となる。
それに対して直線的に逃げるのではなく、軌道を──射線を避けるように逃げるというのは悪くない策だ。
悪くないどころか───上策と言っていい。
けれど────それではイタチごっこだ。
それでは───単純なスタミナ勝負になってしまう。
既に何度もレアリスの『打撃』をくらい、なおかつ先ほど『斬撃』まで受け、疾走しか移動手段のない彼。
対してストレートを一度受け、その後酸素欠乏症に陥りかけたが、既に回復し、更には能力での機動力に優れたレアリス。
イタチごっこというかスタミナ対決に置いて、今の彼がレアリスに勝利する可能性は殆どゼロ。
意図がわからない。
そんな予測もできない相手でもないはずだ。自分がいつかは捕捉されるという予想が。
意図がわからない。真意が───読めない。
まあいい。レアリスは足に火力を集中させる。
「『炎迅』─────!」
ドッッ───
慣性のGが彼女を襲う。嫌いではない。むしろ気分が高揚する。加速の証だ。
ドッ ドッ ドドッッ
路地の壁面を蹴っての高速移動。例えるならば跳弾のように。ビルの壁面を乱方向に跳躍していく。
一瞬と形容するのが謙遜になるほど、瞬き一度にも満たないスピードで彼が曲がった路地の角に至る。
「っ………!!」
レアリス・シャードバースは目を見開く。眼前の光景に。
日常には不似合いの、けれども戦場にも不似合いの光景に。
マンホールが、開けられていた。
「流石だ……!」
思わず笑みを漏らす。つかの間の好敵手はやはり期待を裏切らなかったのだ。
マンホールを外して下水道から逃亡を図る。イタチごっこで逃げ切るつもりはやはりなかったのだ。
「フィナーレを飾ろうか。名もなき脱走兵……!!」
刀を振り上げる。逃げ場のない下水道だ。水はあるとはいえやはり生き残れるかはギャンブルだ。
「運試しだな、『炎塵』………!!」
しかし彼女は気が付かなかった。否、気がつけなかった。
彼女の頭上。ビルの壁面に掴まって、レアリスを見つめる、彼の姿に。
ズドッ
鈍い音がして、脊髄の、背骨の部分に衝撃が走る。
今置かれている状況が理解できない。
何か暗くて狭い筒の中を高速で移動しているような。
スローモーションと化した意識の中で必死に状況を分析する。
「ザマァねぇなァ……高級将校殿ォ!!」
聞き覚えのある声が鳴り響く。
そうか────と思う。
理解する。
納得する。
自分はあの、高らかに嘲笑っている男によって、マンホールに落とさたのだ──と。
しかし疑問が生じる。
あの男はマンホールから逃げようとしたのではなかったか。
逃げたはず男がなぜ、自分をマンホールに蹴落せたのか。
「俺の布石に引っかかってくれてありがとなァ!バカがッ!」
そうか───と再び理解する。納得する。
要するにあのマンホールは罠だったのだ。罠、もしくは引っ掛け。つまりマンホールで逃げたと思わせるためのミスリード。
「………舐めるな」
低い声が漏れる。
「こんなことでこの私を倒せると思っているのか」
狭いマンホールの穴の中で体勢を変える。
炎の逆噴射。
「無駄だッ!!お前はもう詰んでるんだよ!」
何を言っている?この程度で勝ったと思うなら私の火力をみくびりすぎだ。
「俺が下水道に炎を打ち込ませた理由はそこにあったからだけじゃねェ!下水道には水がある。そこに炎をぶち込むと何が起こるか想像がつくか?」
「っ……!!あの程度の水で私の炎がかき消せるとでも?それとも私が全力を出し尽くしたとでも?舐めるなッ!辺り一帯を焼き尽くす程度の力は十分に残ってるッ!!」
男がニヤリと笑った───ような気がした。
なんにせよ関係ない。炎を下に向けて放つ。
そして──一気に上昇する。
「甘いんだよォ!!そうさ、テメェの火力は確かに水を蒸発させつくしたかもしれない。だがなッ!そのとき確かに炎は熱を奪われた!!テメェの蒼炎──完全燃焼が熱を奪われて赤い炎にグレードダウンするとき、ある気体が生じる……」
赤い炎──不完全燃焼。
不完全燃焼で生じる気体…
「まさか………ッ!」
「そのまさかだッ!一酸化炭素!!蒼炎で生じる二酸化炭素程度なら軽い目眩で済むかもしれないが、こいつァ…テメェの肺から直に酸素を奪っていく!!火事の死因の殆どは焼死じゃねえ…一酸化炭素中毒での酸欠だァァ!!」
まずい………
───いいか、レアリス。
教官から口を酸っぱくして言われた炎の危険性。
──確かにお前は炎そのものではダメージを受けない。だが副次的なダメージは受けると覚えておけ。
纏う炎を蒼炎へと昇華させる訓練でのときだ。
──一酸化炭素中毒を防ぐためにも完全燃焼──蒼炎を一刻も早く完成させるんだ。
一酸化炭素は下に溜まっているだろう。一秒でも一瞬でも早く上へ昇らなければ……!!
「そして、テメェは下水を蒸発させただけじゃなく、ご丁寧にも下水道内の空気を熱してくれた…!一酸化炭素の密度は空気とほぼ変わらねえ…。つまり──」
フッ───
気が遠くなりかける。視界も暗く、狭くなってきた。
「この下水道内は…一酸化炭素の上昇気流が完成しちまってるんだよォォ!!」
下に向けていた炎が消える。自分の体が落下していくのがわかる。薄れていく意識の中。思い出すのはあの日の記憶──
「そこまでにしとけ」
一人の英雄の声が、聞こえてきた。




