最終話 幸せな結末。そして……
幸せな結末だと受け入れて、目を閉じて。刃の風切りの音、血液の熱、次にそのにおいを続けて感じて。一切の痛みが無いのを怪訝に思い、目を開ければ。
血まみれの老婆が、目の前に居た。
あまりの視覚的衝撃に、ハルは悲鳴を上げかけたが、危ういところで呑み込む。
「……あぁ…………間に、合った…………」
満足げな吐息を漏らし、自身の血にまみれた手で優しく頬に触れて来るその老婆こそが、身を挺してハルを凶刃から護ってくれたのだと理解できたからだ。
転移の術で剣の軌道に割り込んだのだろう。アレは他人を跳ばすには絶対的な信頼を必要とするから、こうするしかなかったのだろうと思われるが……何故、という疑問は残る。何故、自分の命を引き換えにしてまで、この……
「――魔女?」
黒衣に矮躯に鉤鼻と、わざとらしいまでのらしさが、いつかの父の言葉をハルに思い出させる。良く見れば、老いのためか多少濁っていはいるものの、ハルによく似た髪と瞳の色彩をしていた。
魔女らしすぎるその老婆は、肯定するように微笑んで、しわだらけの手で、慈しむようにハルの頬を撫でた。その背後で、驚きによる硬直の解けた騎士が、再度剣を振り上げるのが見えた。
「…………我らが、王よ………………どうか、どうか、同胞、たちを…………」
精霊術……いや、魔法が発動する。絶影のそれとは違う、ひとが用いる転移術に、ハルは抗わず身を委ねた。
一瞬視界がぶれ、転移した先から、二撃目で首を落とされ、崩れ落ちる魔女の姿が少し遠くに見えた。転移によるめまいと気持ち悪さは、無理やりに呑み下した。目を閉じていた方が楽ではあるが、それではどうしても対応が遅れる。
命と引き換えに貰った命だ。粗末にするのは不義理が過ぎよう。
短距離の転移、それもハルだけというのは、既に致命傷を負っていた魔女にはそれが限界だったのか……或いは、これだけの距離で充分であったからか。
ハルの左右に、傅く二つの姿が在った。
左は女。無彩色……いや、白と言うべきか銀と言うべきか迷う髪色をした、ハルよりは年上だろうが、まだ若い、成人年齢前後の……女。容貌は美しいのだが、苛烈な雰囲気を宿していて、単純に美女とか美少女とか呼ぶのはためらわれる、そんな女性だ。
フリルとレースで飾られた黒衣はこんな片田舎の村にはひどく不似合で、舞踏会のドレス、もしくは葬列の喪服を思わせた。
右は……おそらく、男。おそらく、と言うのは姿かたちがあまりにも普通の人間とはかけ離れているからだ。右腕は左腕の三割増しくらいに肥大して、その先端には猛禽を思わせる鉤爪が生えており、頭には左側頭部から背後に向けて二本の角が伸び、肌はうっすらと青みがかった色をしている。
ハルも初めて見る『鬼人』と呼ばれる存在だ。
『お迎えに上がりました、王よ』
両翼の男女が声を揃えて、言った。
騎士たちがざわつくのを歯牙にもかけず、白と黒の女が続ける。
「私はかの遠見の魔女の弟子、皆からは『嬢』とのみ呼ばれております。隣の彼はシグルヴェイン。どうぞシグとお呼びください。
シグ、陛下の護衛は任せます」
私は煩わしい羽虫を潰してまいりますので、と。笑みすら含んだ声音で言って、無造作に。彼女は武装した騎士たちに歩み寄る。武器の類を帯びているようには見えない、たおやかな女性を前に、騎士たちは少し戸惑っている様子だ。
けれど彼女の色彩は、騎士たちにとっては敵のもの。動揺を呑み込み、隊長らしき男が口を開きかける、その機先を制するようなタイミングで、魔女の弟子を名乗る女は言った。
「先に謝っておきます」
言われた言葉がまるで理解できなかったのだろう、目を瞬く騎士たちに、
「次代の王のため、此処で命を散らすことこそが祖母の本懐だった。だから、私のこれからの行いはただの八つ当たりでしかありません」
薄く、酷薄に微笑んで。
「本当にごめんなさい。全員死ね」
死を、宣告する。
淑女の繊手が、それこそ虫でも払うかのように振られ、彼女の髪と同じ色の光が迸った。昼間でもまばゆいその色彩は、きっと夜ならばもっと映えたであろう。夜を裂き、夜に咲く雷光の華。雷火ではなく雷華と呼ぶのが良く似合う、美しく苛烈な死神の鎌だ。
光に撃たれた騎士は、ただの一撃で命を刈り取られていた。それが気絶、ではなく絶命だと、ハルの眼にははっきりと視えている。
黒を纏った白い彼女を彩るように、黒の風花が舞う。
「雷光鬼!? こんなところ」
騎士の一人が上げた叫びには、まだ続きがあったのかもしれないが、それを言う前に、永遠の沈黙を強制されていた。
「もし、逃げ切れる者が居たなら、同胞に伝えなさい。私はその呼称を嫌悪している。私の前で用いる時は死を覚悟しろ、と」
言いつつ右手を振り下ろせば、空から降り注いだ二筋の雷光が、更に二人の騎士を屍に変える。既に、生き残っている者の方が少なくなっていた。
「散会!」三人の生き残りの内一人が叫んだ。
「あらあら」それぞれ別方向に逃げ出す三人の騎士を、雷光の鬼と呼ばれた娘は嘲笑う「まぁ、一人は伝言役としましょうか」
――あぁ、この子、父さんの同類だ。
左右の手をそれぞれ別の方向に向ける。内一方はこの一手を打った者だ。世界を光が満たし、次の瞬間には、死体がもう二つ増えていた。生き残ったのは、ハルにやたらと絡んでいた少年のようだ。それが彼にとって幸か不幸かはわからないが。
「さて。では残りを片付けましょう」
鬼が信じられないことを言った。その視線が、神父へと向けられて、
「待てっ!」
ハルはらしくもなく、少し強い声で命じていた。
「――何故、止められるのでしょう?」
不満で仕方がない、と。その瞳が言っていた。
「逆に問おう。何故、殺す必要が有る?」
王だの陛下だの言われるので、ハルは一応それらしい言葉遣いをしておいた。所謂ハッタリというヤツだ。それで多少なりと話を聞いてくれるのならば、それだけでもやっておく価値はある。
「濁色を生かしておく理由の方がございません」
それが当然、と答えられ、ハルは笑ってしまいそうになった。
人間は彼らを無彩色の怪物と蔑み、彼らは人間を濁色と貶める。
どちらもやっていることは同じだ。
「どちらの理由も無いのなら、殺すな」
普段はなるべく使わないようにしている命令口調を敢えて用いた。
「何故でございましょう?」
口調こそ丁寧だが、そこに敬意は一切感じられない。
――お飾りの王、か。何をやらせるつもりなのやら。
まぁ、それはどうでも良い、とハルはすぐに思考を切り替えた。差し当たっては、この敵の敵に、此処の住人を殺させないこと、か。
「其処に誇りが存在しないからだ」
「……誇り、で、ございますか?」初めて彼女の感情が動く。
「特に理由も無く殺すのならば、お前が濁色と蔑んだ者と同じだ。力があるならばこそ、行使には理由を求めるべきだ。でなければ……堕ちるぞ、どこまでも」
「あぁ……貴方は、おばあ様と同じことをおっしゃる」
どうやら心の琴線に触れたらしいので、ハルはもうひと押ししておいた。
「魂の色彩が良く似ていたから、かもしれないな」
さて、とハルは気持ちを切り替える。打っておいた手が活きたようではあるが、あまりのんびりしていてはアルが此処へやって来かねない。彼を巻き込まず、且つこの雷光の娘を止めるのは困難を通り超して至難である。
いよいよ、此処に居られる猶予は尽きた、ということだ。
「行こう。此処は我らの居場所ではない」
傍らに控える、自分を王と呼ぶ二人にハルは告げる。
呆然と立ち尽くしている、蒼緋衣に視線を向けるのには、覚悟が必要だった。意識して、普段通りの笑顔を繕う。
ありがとう、と告げることはできない。感謝を伝えてしまえば、突き放し、無関係だと印象付けたことが無駄になる。同じ理由で、ごめんなさいもダメだ。
彼女と自分は、あくまで人間と人外でなければならない。
でなければ、彼女まで此処に居られなくなる。
ならば、彼女に何を言うべきか。
どんな言葉ならば、伝えることを許されるのか。
何も言わずに去る、という選択肢はハルの中には存在しない。
そんな不義理はできない。彼女がくれたもの、それに正しく報いることはできなくとも、それでも、何か返せるものがないのか。言葉ならば、ただの一言。すれ違いざまに囁くくらいがせいぜいだろう。
だから、温かく胸を満たす想い、その総てを込めて、捧げる。
「――さよなら、ルビア」
別離の言葉を、彼女に。
振り返ることはしない。できない。想いを遺していることを、誰にも悟らせてはいけない。だからまっすぐ前を見て、気まぐれに落とした言葉に見せかけて、ハルは此処からいなくなる。
感謝と、謝罪と、ひょっとしたら、ささやかな思慕と。それらすべてが伝わるなんて奇蹟はありえない。けれど、そのほんのひと欠片だけでも、愛をくれた彼女に伝わりますように。
ハルは生まれて初めて真摯に祈った。
教会が説く、色彩を持つ者にだけ優しい神にではない。
たった一人の友達と、友達になろうとしてくれた女の子と、それ以外にも、友達になれたかもしれない幾人かに出逢わせてくれた縁、人によっては運命と云うのかもしれない、その奇蹟とすら呼べる偶然に。
どうか、どうかこの想いが、少しでも彼女に届きますように。
此処でのウィルムハルトの物語は、これで完結する。
残された者は、何を想うのか。
エピローグ「訣別のとき」
そのひとは、物語の終わりを拒絶する。




