第73話:私、あなたに甘いのよ
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翌日の午後、エグゼが言った。
「行こう」
「今から?」
「今から」
準備も何もしていなかった。
「待って。資料とか」
「要らない」
「要らないの?」
「数字で勝てるわけないでしょう」
……たしかに。
「ジュディは?」
「呼んでない」
「なんで」
「あの子、昨日もう言ったから」
言われてみれば、そうだった。ジュディは既に、やった方がいいと言っている。
「二度言わせるのは、失礼でしょう」
その言い方が、少しだけエグゼらしかった。
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二階に上がると、レジスは書類を見ていた。
こちらを一瞥して、すぐ視線を戻した。
「二人で来たのね」
「うん」
「昨日の話?」
「そう」
「答えは変わらないわ」
早かった。
座る前に切られた。
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「まず、聞いてほしいんだけど」
「聞くわよ。座って」
座った。
エグゼも、隣に座った。
「昨日、レジスが言ったことは全部正しいと思う」
「そうね」
「収益の柱が一本しかない。それが止まったら三か月で終わる。だから利益の出る事業を作るべきだ」
「その通りよ」
「でも、やりたい」
レジスの手が、止まった。
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「……理由になってないわね」
「なってない」
「分かっていて言ってるの?」
「分かってる」
僕は、うなずいた。
「経営の判断としては、間違ってると思う。今やるべきことじゃない。それも分かってる」
「じゃあ」
「でも、やりたいんだよ」
沈黙があった。
レジスは、書類を置いた。
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「あのね」
「うん」
「私が反対しているのは、あなたを止めたいからじゃないの」
「分かってる」
「分かってないでしょう」
声が、少し低くなった。
「この会社が潰れたら、どうなると思う?」
「……」
「うちの子たちの体は、会社の資産よ。潰れたら、処分の対象になるわ」
背中が、冷たくなった。
考えたことがなかった。
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「知らなかったのね」
「……うん」
「ノアールが、契約を整理する時に確認したことよ。あの子は、たぶん分かってる」
「なんで教えてくれなかったんだ」
「言う必要がなかったからよ」
レジスは、そう言った。
「今まで、その心配をする段階じゃなかったの。でも、あなたが持ち出しを増やそうとするなら、話は別だわ」
正しかった。
この人は、いつも正しい。
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その時、扉が開いた。
ドンナだった。
「失礼いたしますわ」
「なに」
「財務の件で、少しお時間を」
レジスが、少し眉を上げた。
「今、取り込み中なんだけど」
「存じております」
あっさりしていた。
「その件で参りましたので」
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ドンナは、端末を開いた。
「昨日のお話を伺いまして、試算をいたしました」
「頼んでないわよ」
「経理として、必要と判断いたしましたので」
しれっとしていた。
「まず、初期費用ですわ。測定機器の調達と、通信環境の構築。それから、既存の子たちの稼働時間の割り当て」
数字が並んだ。
「思ったより低いわね」
「体を用意する必要がございませんもの。医療特化型の方の判断だけを、機器経由で提供する形ですわ」
「……なるほど」
「加えて、広告代理店の運用を使えば、集客の費用もほぼかかりません。自社で回せますので」
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レジスが、端末を覗き込んだ。
「月次の負担は」
「これくらいですわ」
「……ロイヤリティの、何パーセント?」
「三パーセント弱ですの」
思ったより、小さかった。
「ただし」
ドンナは、そこで一度、言葉を切った。
「契約者が増えれば、比例して増えますわ。千件を超えたあたりから、無視できない額になります」
「そこは?」
「上限を設ければ済む話ですの」
あっさりしていた。
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レジスは、しばらく数字を見ていた。
それから、ドンナを見た。
「あなた、どっちの味方?」
「経理は、中立ですわ」
「中立の人間が、頼まれてもいない試算を持ってくる?」
「業務の一環ですの」
「ドンナ」
「はい」
「目を見て言いなさい」
ドンナは、少しだけ視線を外した。
「……私は、数字を出しただけですわ」
「そう」
「本当ですの」
「そう」
二回、同じ返事だった。
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僕は、その間、黙っていた。
口を挟む場面ではなかったし、挟んだところで何も言えなかった。
エグゼも、黙っていた。
ただ、レジスが数字を見ている間、ずっとそちらを見ていた。
やがて、レジスが口を開いた。
「エグゼ」
「なに」
「あなたは、なんで賛成なの」
「数字は分からない」
即答だった。
「じゃあ」
「でも、この人のことは分かる」
レジスが、こちらを見た。
それから、また視線を戻した。
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「……あのね」
「うん」
「私だって、分かってるのよ」
声が、さっきまでと違った。
「この人が、こういうことを言い出す時は、だいたい、何かを見た後なの。理念で言ってるんじゃないのよ。それは、私も知ってるわ」
「うん」
「今回もそうなんでしょう」
「そうだと思う」
エグゼが、そう答えた。
レジスは、深く息を吐いた。
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「……ずるいわね」
「なにが」
「二人がかりで来るのが」
「三人よ」
ドンナが、横から言った。
「あなたは中立でしょう」
「中立ですわ」
「じゃあ黙ってなさい」
「かしこまりました」
言いながら、まったく引く気配がなかった。
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レジスは、しばらく黙っていた。
僕は、待った。
やがて、彼女は、こう言った。
「……私、あなたに甘いのよ」
え、と思った。
「昨日、あれだけ言ったのに、あなたが本気だと分かったら、結局こうなるの。毎回そう」
「……」
「知ってる? 私、あなたが本気で言い出したことを、最後まで止められたことが一度もないわ」
言われてみれば、そうだった。
会社を作る時も、広告をやる時も、最後は折れている。
「それ、経営としては最悪よ」
「うん」
「反対する役の人間が、毎回折れるんだから」
自嘲するような言い方だった。
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「でも、条件をつけるわ」
来た、と思った。
「一つ。半年、様子を見る。それで見込みが立たなければ、畳むこと」
「うん」
「二つ。契約数の上限を決める。ドンナの言う通り、増えれば負担も増えるの。歯止めがないと、いつか首が回らなくなるわ」
「分かった」
「三つ」
レジスは、そこで、少しだけ間を置いた。
「私に、隠さないこと」
「え」
「今日みたいに、あなたが何かを見て、何かをやりたいと思ったら、その場で言いなさい。後で持ち出されると、判断が遅れるの」
「……分かった」
「本当に分かってる?」
「分かってる」
「なら、いいわ」
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僕は、少し驚いていた。
三つ目だけ、条件の性質が違ったからだ。
一つ目と二つ目は、事業の話だ。期限と上限。数字で管理できる。
でも三つ目は、そうじゃない。
あれは、事業の条件じゃない。
「レジス」
「なに」
「三つ目、なんで?」
「言った通りよ。判断が遅れるから」
「それだけ?」
レジスは、答えなかった。
書類を持ち上げて、視線を落とした。
「……それだけよ」
嘘だった。
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部屋を出てから、エグゼが言った。
「通ったね」
「うん」
「よかった」
「エグゼのおかげだよ」
「私、何もしてない」
「してるだろ」
「数字は分からないって言っただけ」
あの子は、そう言って、少し先を歩いた。
「でも」
「なに」
「レジスは、たぶん、最初から折れる気だったと思う」
「え」
「昨日、この話はまだ終わってない、って言ったんでしょう」
言われて、思い出した。
たしかに、そう言われた。だめだ、とは言われなかった。
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「終わってない、って言うのは」
エグゼは、こちらを見ずに続けた。
「もう一回来い、って意味だよ」
僕は、しばらく立ち止まっていた。
あの人は、最初から、そのつもりだったのか。
反対して、正論を並べて、それでも僕がもう一度来るかどうかを見ていた。来なければ、そこで終わりだった。来たから、条件をつけて通した。
……試されていた。
「エグゼ」
「なに」
「今の、レジスに言わない方がいい?」
「言わない方がいいと思う」
即答だった。
「怒られるから?」
「照れるから」
その言い方が、妙に確信に満ちていた。
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