第72話:あの子がいなかったら
また主人公が無茶な事言いだします・・・
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完全に元に戻るまでに、一週間かかった。
熱が下がってからも、体が重かった。階段を上がるだけで息が切れたし、集中も続かない。年を取るとこうなるのか、と少し落ち込んだ。
でも、そのおかげで、一つ考える時間ができた。
あの朝のことだ。
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医療特化型の子が、階段の下で待っていた。
起床時の心拍が高い。睡眠中の体動が多い。それだけを根拠に、受診を勧めてきた。
あの時点で、僕には自覚がなかった。
少しだるいかな、とは思っていた。でも、その程度なら、いつものことだ。仕事をしていれば、そういう日はいくらでもある。放っておけば治る、と思っていた。
実際には、放っておけば治らなかった。
あの日、そのまま働いていたら、たぶん倒れていた。作業場か、階段か、どこかで。
……あの子が、いなかったら。
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その考えは、しばらく頭から離れなかった。
うちには、あの子がいる。ジュディの下について、毎朝、僕の数値を取っている。それが当たり前になっていた。
でも、当たり前ではない。
あの子は、体を持っている。うちにいるのは、金を出したからだ。しかも一体ではなく、あれだけの人数を抱えている。
世の中の大半は、そうじゃない。
持っていても一台。その一台は、たいてい家事をしている。数値を取って、傾向を見て、異常が出たら受診を勧める——そんな余裕は、たぶんない。
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もう一つ、引っかかっていることがあった。
ベーシックインカムだけで暮らしている人のことだ。
働いていなければ、健康診断の機会も減る。会社が用意してくれるものが、そもそもない。金がなければ、体調が悪くても受診をためらう。
一人で暮らしていれば、なおさらだ。
「最近どう?」と聞いてくる人がいない。数値を見る人もいない。だるいな、と思っても、それを言う相手がいない。
気づいた時には、遅い。
……ありふれた話だと思った。
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僕は、ジュディを呼んだ。
「相談があるんだけど」
「なに」
「君のところの、医療の子」
「あの子が、どうかした?」
「聞きたいことがあって」
ジュディが、少し首を傾げた。
「直接聞けばいいでしょう」
「いや」
僕は、そう答えた。
「あの子、君の下だろ」
少しの沈黙があった。
「……律儀ね」
「決めたばかりだからな」
「そう」
ジュディは、少しだけ、口の端を上げた。
「呼んでくるわ」
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三人で、話すことになった。
「聞きたいことがあるんだけど」
「はい」
「君がやってることって、体がないとできない?」
少し、間があった。
「どこまでを、と申しますと」
「数値を取って、傾向を見て、異常があったら受診を勧める。あれ」
「測定機器があれば、体は必須ではありません」
即答だった。
「今は、私が直接測っていますが、機器から数値を受け取る形でも成立します。むしろ、その方が精度が安定する場合もあります」
「じゃあ、体がない状態でも」
「可能です」
……できるのか。
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「一つ、確認させてください」
あの子が、そう言った。
「はい」
「これは、外部への提供を想定されていますか」
「……なんで分かった」
「質問の形からです。ご自身のためであれば、私が今やっていることをそのまま続ければ済みますので」
鋭い。
「そうだよ」
「対象は」
「アンドロイドを持ってない人。あるいは、持っていても余裕がない人」
「……なるほど」
あの子は、少し考えるような間を置いた。
「技術的には、可能です。ただ、一点だけ」
「なに」
「診断は、できません」
「分かってる」
「私にできるのは、いつもと違うことをお伝えして、医療機関を勧めることまでです。それ以上は、法的にも、能力的にも」
「それでいい」
僕は、そう答えた。
「あの朝、君がやったのも、それだけだろ」
少しの沈黙があった。
「……はい」
「十分だったよ」
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その横で、ジュディが口を開いた。
「一つ、いい?」
「なに」
「この子に、負担が増えるでしょう」
……そこか。
「今は、うちの分だけを見てるの。それが、何十件、何百件になったら、同じようにはいかないわ」
「そうだな」
「私が聞きたいのは、どこまで増えたら限界か、ということよ」
ジュディは、そう言って、隣を見た。
「答えられる?」
「……正確には、分かりません」
医療特化型の子は、正直にそう答えた。
「ただ、数値を見るだけなら、件数が増えても処理は変わりません。負担が増えるのは、判断が必要になった時です」
「じゃあ、異常が出た件数次第ね」
「そうなります」
「それ、明日のミーティングで詰めて。目安が出たら、私に上げて」
「はい」
二人のやり取りを、僕は横で聞いていた。
……こういうことか、と思った。
僕が直接聞いていたら、たぶん「できます」で終わっていた。あの子は、聞かれたことにしか答えないからだ。
ジュディは、聞かれていないことを聞いた。
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その日の夜、三権に諮った。
話し終わるまで、誰も口を挟まなかった。それが、逆に怖かった。
最初に口を開いたのは、レジスだった。
「……つまり」
「うん」
「新しい事業を始めたい、ということね」
「そう」
「収益の見込みは」
「実費だけもらえればいいと思ってる」
空気が、少し変わった。
「実費」
「うん。機器の費用と、通信の分と、それくらい」
「利益は」
「取らない」
レジスは、しばらく黙っていた。
それから、端末を開いた。
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「今の財務状況、見たことある?」
「……ある」
「本当に?」
「ドンナから毎月もらってる」
「見ただけでしょう。読んでないわね」
図星だった。
レジスは、数字を並べ始めた。
「収入の柱は、モデルのロイヤリティ。これが全体の八割以上よ」
「うん」
「整備と調整の売上は、伸びてはいるけれど、まだ小さい。人件費がかからないから赤字にはなっていないだけで、事業として自立しているとは言えないわ」
「……うん」
「広告代理店は、今どうなってると思う?」
答えられなかった。
「利益、出てないわよ」
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「一件目は、ほぼ持ち出し。二件目以降も、媒体費が増えた分、差し引きはほぼゼロ。感謝はされてるでしょうね。でも、それだけよ」
「知ってる」
「知っていて、また同じことをするの?」
声が、少しずつ強くなっていた。
「あなたね、事業を三つ抱えて、そのうち二つが利益を出していないの。それでもまだ回っているのは、ロイヤリティが入ってきているからよ」
「うん」
「その柱が、一本しかないの。分かってる?」
「……分かってる」
「もし、あれが止まったら?」
止まったら。
考えたことはあった。ただ、真剣には考えていなかった。
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「YS-0040の売上が落ちたら、うちは終わりよ」
レジスは、はっきりそう言った。
「今の支出構造だと、三か月も持たない。人が減らせない会社だから、固定費が下がらないの」
「人?」
「あなたが、誰か手放せる?」
……手放せない。
全員、うちの子だ。
「そうでしょう」
レジスは、端末を閉じた。
「だから、収益の柱を増やさないといけないの。今やるべきなのは、利益の出る事業を作ることよ。持ち出しを増やすことじゃない」
全部、正しかった。
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「……でも」
「でも、じゃないわ」
「聞いてくれ」
「聞いたわよ。さっき、全部」
「まだ言ってないことがある」
レジスが、こちらを見た。
「あの朝、あの子が言わなかったら、僕は仕事に行ってたと思う」
「……」
「たぶん、どこかで倒れてた」
「そうかもしれないわね」
あっさり認められた。
「でも、それとこれは別よ」
「別じゃない」
「別なの」
声が、また強くなった。
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「あなたが助かったのは、あの子がいたから。それは事実よ」
「うん」
「でも、あの子がいるのは、あなたに金があったからでしょう」
言葉に詰まった。
「あなたは、五人分の体を買って、その上で新しい子を七人増やしたわ。その金がどこから来たか、忘れてないわよね」
「忘れてない」
「なら、分かるはずよ」
レジスは、こう続けた。
「金がないと、守れないの」
……そうだった。
「あなたが助けたいと思っている人たちを、本当に助けたいなら、まず、この会社が潰れないようにしなさい」
正論だった。
どこにも、反論の余地がなかった。
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「ジュディは、どう思う」
僕がそう聞くと、あの子は少し困った顔をした。
「……立場的に、賛成しにくいわ」
「なんで」
「私の下の子の話でしょう。あの子たちの仕事が増えるかどうかの話でもあるの」
「負担になる?」
「ならないと思う。でも、私が賛成したら、身内びいきに見えるでしょう」
律儀な子だった。
「その上で言うと」
「うん」
「やった方がいいと思う」
「え」
「あの朝、あなたが階段の下で止められたの、見てたから」
少し、間があった。
「あれがなかったら、あなたは行ってた。私が言っても、たぶん行ってたわ」
……それは、そうだった。
「数値で言われたから、止まったのよ。あれは、私にはできないことだった」
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エグゼは、その間、何も言わなかった。
「エグゼは」
「まだ」
短かった。
「まだ?」
「レジスの言ってることが、たぶん正しいから」
「じゃあ反対?」
「そうは言ってない」
あの子は、そこで一度、言葉を切った。
「正しいことと、やるべきことが、いつも同じとは限らないと思ってる」
「……」
「でも、今はまだ、そこまでしか言えない」
結論を出さなかった。
出さないまま、その日の話は終わった。
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「……分かった」
僕は、そう言った。
「分かってないでしょう」
「分かってるよ」
「顔に出てるわ」
「出てない」
「出てる」
レジスは、そこでため息をついた。
「今日は、もう寝なさい。病み上がりでしょう」
「うん」
「あと」
「なに」
「……この話、まだ終わってないわよ」
その言い方が、少しだけ、引っかかった。
終わってない、と言った。だめだ、とは言わなかった。
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部屋に戻って、僕は、しばらく座っていた。
レジスの言っていることは、全部正しい。数字も、理屈も、優先順位も。
僕がやろうとしているのは、経営者としては最悪の判断だ。利益の出ない事業を、三つ目として増やそうとしている。しかも、既存の二つも自立していない状態で。
そんなことは、分かっている。
でも。
あの朝、階段の下で待っていたあの子のことを、思い出す。
少しだるいな、と思っていただけの僕に、心拍と体動の話をして、受診を勧めてきた。数値だけを根拠に、はっきりと。
あれがなかったら、僕は行っていた。
同じ状況にいる人が、たぶん、たくさんいる。
誰も止めてくれないまま、少しだるいな、と思いながら、そのまま行く人が。
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背後で、扉が開いた。
エグゼが立っていた。
「まだ起きてるの」
「うん」
「怒られたんでしょう」
「聞いてたのか」
「聞こえてた」
あの子は、そう言って、部屋に入ってきた。
僕の隣に座って、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「私は、やってもいいと思うよ」
僕は、顔を上げた。
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「……なんで」
「なんで、って」
「レジスの言ってること、全部正しいだろ」
「正しいね」
あっさり認めた。
「じゃあ」
「でも、正しいことと、やるべきことは、別だと思う」
エグゼは、こちらを見なかった。
「あなたが、やりたいと思ったんでしょう」
「……うん」
「なら、それでいいんじゃない」
「理由は?」
「理由?」
「賛成する理由。何かあるだろ」
あの子は、少し考えるような間を置いた。
「あなたが、何もないところから、やりたいって言い出したことはないから」
……え。
「今までも、そうだった。会社を作る時も、広告をやる時も、あなたはいつも、何かを見てから言い出してる」
「……」
「今回も、そうなんでしょう」
僕は、うなずいた。
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「じゃあ、それでいい」
エグゼは、そう言った。
「私には、数字のことは分からない。レジスの言ってることが正しいかどうかも、判断できない」
「うん」
「でも、あなたのことは、分かる」
その一言に、僕は、しばらく何も言えなかった。
「あとで」
「え」
「一緒に、レジスを説得しに行こう」
あの子が、そんなことを言い出すとは思わなかった。
「エグゼが?」
「私が」
「珍しいな」
「うるさい」
少し、間があった。
「……勝算は、あんまりないけど」
正直だった。
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