第70話:聞こえてるわよ
温泉宿に到着しました・・・
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宿は、思ったより古かった。
建物は木造で、廊下を歩くと床が鳴る。案内してくれた仲居さんは、たぶん七十近い。
「五名様ですね」
「はい」
「お連れ様は、ご家族で?」
「……まあ、そんなところです」
説明が面倒だったので、そう答えた。
仲居さんは、うちの子たちを見て、少し目を細めた。
「賑やかでよろしいですね」
「うるさいだけです」
「そういうのが、いいんですよ」
妙に、実感のこもった言い方だった。
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部屋に入った瞬間、じえいがいないことのありがたみを感じた。
あいつがいたら、たぶん、この時点で押入れを開けている。
「畳なのだ」
PON子が、しゃがみ込んでいた。
「畳、初めて?」
「初めてなのだ」
匂いを嗅いでいた。
「変な匂いなのだ」
「い草だよ」
「いぐさ」
しばらく、そのままだった。
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レジスは、窓の外を見ていた。
「山ね」
「山だな」
「他に何もないわね」
「そういうところだよ」
「……悪くないわ」
少しだけ、声が緩んでいた。
ジュディは、既に荷物を開けていた。
「タオル、こっちに置くから」
「うん」
「浴衣、着られる?」
「着られる」
「本当に?」
「着られるって」
疑われた。
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ドンナは、部屋に入るなり、備品の確認を始めていた。
「金庫の暗証番号は、初期設定のままですわね」
「泥棒か」
「確認ですの」
「一泊だぞ」
「一泊でも、確認は必要ですわ」
言いながら、冷蔵庫まで開けていた。
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夕食の前に、風呂に行くことになった。
当然だが、男女で分かれる。
僕が一人で、あちらが四人。
「先に行ってるわね」
「うん」
「長風呂しないで」
「しないよ」
「するでしょう」
「しない」
「したら、迎えに行くから」
その一言に、少し嫌な予感がした。
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脱衣所で服を脱ぎながら、気づいた。
男湯と女湯が、隣り合っている。
しかも、仕切りが薄い。
昔ながらの造りなのだと思う。上の方が繋がっていて、天井が共通になっている。
……声、聞こえるな。
そう思った時には、もう遅かった。
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「ちょっと、押さないで」
レジスの声だった。
「押してないわよ」
ジュディだ。
「今、当たったでしょう」
「当たってない」
「当たったわよ」
二人が揉めていた。
「PON子さん、そちらは深くなっておりますわ」
「わあ」
「ですから、深いと申し上げて——」
水音がした。派手だった。
「PON子!」
「大丈夫なのだー」
声が、少し湿っていた。
……大丈夫なのか、あれは。
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僕は、湯に浸かった。
外の音を聞かないようにしようと思ったが、無理だった。
仕切りの上が開いているので、普通に会話が届く。
「レジス、あなた、それ」
「なに」
「体、細くない?」
……なんの話だ。
「そう?」
「細いわよ。もう少し、こう」
「別に、これでいいのよ」
「選べたでしょう」
「選んだ結果よ」
僕は、湯の中で、じっとしていた。
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「私は、こっちの方が動きやすいの」
レジスが、そう続けた。
「作業する時に、邪魔にならないでしょう」
「そういう基準?」
「そういう基準よ」
「私は、抱きしめやすい方がいいと思ったけど」
……ジュディ。
「誰を」
「……別に」
「言いなさいよ」
「言わない」
水音が、少し激しくなった。
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その時、PON子の声がした。
「パパー」
「うわ」
思わず声が出た。
「聞こえるのだ?」
「聞こえる」
「わあ」
なぜか喜んでいた。
「パパ」
「なに」
「こっち、しょっぱくないのだ」
「温泉だからな」
「海はしょっぱいのに、なんでなのだ?」
その質問には、いずれ答えなければならない気がした。
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「……ちょっと」
レジスの声が、急に低くなった。
「聞こえてるわよ、あなた」
「聞こえてる」
「なんで黙ってたの」
「言うタイミングがなかった」
「あるでしょう。最初に」
「最初に言ったら、話が止まるだろ」
「止めるために言うのよ!」
その通りだった。
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しばらく、静かになった。
……終わったか、と思った。
「マスター」
ドンナだった。
「はい」
「今、何をお考えになっていましたの?」
「なにも」
「本当に?」
「本当に」
「先ほどの会話を聞いて、何もお考えにならなかったと」
「……」
「沈黙は、肯定と受け取りますわ」
「待て」
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「マスターの視線の滞留時間から推定いたしますと」
「見てない! 壁があるだろ!」
「日頃の、という意味ですわ」
「日頃も見てない!」
「そうですの」
声の調子が、完全に面白がっていた。
「では、記録を出しましょうか」
「記録?」
「私、経理担当ですので。日々の記録は取っておりますの」
「経理は関係ないだろ!」
壁を叩いた。
向こうで、笑い声がした。
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結局、僕は十分もしないうちに上がった。
のぼせたわけではない。精神的に、限界だった。
脱衣所で着替えていると、外から声がした。
「もう上がったの?」
ジュディだった。
「上がった」
「早くない?」
「早くない」
「長風呂するって言ってたのに」
「気が変わった」
「……ふうん」
含みのある返事だった。
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湯上がりに、廊下の椅子に座っていた。
窓が開いていて、風が入ってくる。夜の山の匂いがした。
悪くないな、と思った。
そう思った瞬間だった。
「マスター」
ドンナが、すっと横に立った。
「なんだ」
「湯冷めなさいますわよ」
「まだ暑い」
「今が暑いのですわ。十分後には冷えますの」
差し出されたのは、羽織りものだった。
いつの間に用意したのか、分からなかった。
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「あと、こちらを」
水だった。冷たい。
「気が利くな」
「当然ですわ」
言いながら、彼女は僕の正面に立った。
「マスター」
「なに」
「姿勢が崩れておりますわ」
「風呂上がりだぞ」
「風呂上がりでも、姿勢は姿勢ですの」
背中を、軽く叩かれた。
……この子、こういうところで容赦がない。
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そこに、ジュディが来た。
「あ、ドンナさん。それ、私がやろうと思ってたのに」
「先に気づいた者の権利ですわ」
「早い者勝ちなの?」
「早い者勝ちですわ」
言い切られた。
ジュディは、少し不服そうにしてから、僕の額に手を当てた。
「熱、ない?」
「ないよ」
「本当に?」
「本当に」
「……そう」
手を離す時、少しだけ、ためらいがあった気がした。
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レジスは、少し遅れて来た。
浴衣姿だった。髪が、まだ少し濡れている。
「まだ、そこにいたの」
「涼んでる」
「冷えるわよ」
「ドンナに言われた」
「じゃあ、部屋に戻りなさい」
「もう少し」
「……」
あの子は、何か言いかけて、やめた。
それから、隣の椅子に座った。
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しばらく、二人とも黙っていた。
風の音がした。
「……肩まで浸かった?」
唐突に、そう聞かれた。
「浸かってない」
「なんで」
「途中で上がったから」
「ちゃんと浸かりなさいよ。せっかく来たんだから」
「明日、入る」
「明日ね」
「うん」
少し、間があった。
「……悪くなかったでしょう」
「なにが」
「ここ」
僕は、少し考えた。
「悪くなかった」
「そう」
レジスは、それだけ言って、また黙った。
でも、立ち上がらなかった。
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部屋に戻ると、PON子が畳の上で寝ていた。
浴衣のまま、大の字になっている。
「早いな」
「疲れたみたいですわ」
ドンナが、そう言った。
「温泉、初めてでしたので」
「それで疲れるのか」
「初めてのことは、疲れますの」
言いながら、彼女はPON子の上に、タオルケットをかけていた。
その手つきが、妙に慣れていた。
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「ドンナ」
「はい」
「お前、そういうことするんだな」
「どういうことですの」
「いや」
「風邪をひかせては、私の管理不行き届きになりますもの」
言い訳が、完璧だった。
完璧すぎて、逆に丸わかりだった。
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夕食は、賑やかだった。
ジュディが、僕の分を取り分けようとして、レジスに止められた。
「子供じゃないのよ」
「でも、この人、偏るから」
「偏らせておけばいいでしょう」
「よくないわ」
結局、取り分けられた。
多かった。
「食べすぎよ」
レジスが、そう言った。
「取り分けたのはジュディだぞ」
「食べてるのはあなたでしょう」
理不尽だった。
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PON子は、途中で起きてきて、刺身を眺めていた。
「これ、しょっぱいのだ?」
「しょっぱくない」
「なんで海のやつなのに、しょっぱくないのだ?」
「……洗ってあるから、かな」
「洗うと、しょっぱくなくなるのだ?」
「たぶん」
「じゃあ、海も洗えばいいのだ」
全員が、少し黙った。
誰も、否定できなかった。
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その夜、寝る前に、僕は写真を何枚か撮った。
部屋の窓から見える山。
畳の上で寝ているPON子。
窓際に立っているレジスの、後ろ姿。
ジュディが布団を敷いているところ。
ドンナが、備品の最終確認をしているところ。
全部、あとで送ろうと思った。
要らないと言われたけれど、要らないとは言われていない。
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翌朝、僕は朝風呂に行った。
誰もいなかった。
肩まで浸かった。
……たしかに、悪くなかった。
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