第66話:こいつ、最近どんくさくてな
ある日、初老の男性がいらっしゃいました。
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その依頼が来たのは、朝一番だった。
電話ではなく、直接来た。予約もなしに、作業場の入口に立っていた。
七十くらいの男だった。作務衣に、前掛け。手が大きくて、指が太い。何かを長年やってきた人の手だった。
その後ろに、一体立っていた。
「ここ、直してくれるんか」
「はい、うちで見られると思います」
「そうか」
男は、後ろを親指で指した。
「こいつ、最近どんくさくてな」
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弟子だ、と言われた。
和菓子屋の弟子。ずいぶん長いこと、一緒にやっているらしい。
「うちに来た時、まだ家庭用が出たばっかりの頃やったな」
「……そんな前からですか」
「そうや。なんや、悪いんか」
「いえ」
悪くはない。ただ、珍しい。
あの世代の個体を、まだ現役で使っている家は、そう多くない。たいていは、途中で買い替える。
「見せてもらえますか」
「頼むわ」
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技術担当くんを呼んだ。
「右腕、ですね」
持ち込まれた時の歩き方を見ただけで、そう言った。
「分かるの?」
「腕の振り方が、左右で違います」
台に寝かせて、動かし始めた。
僕は、そこで手を引いた。体の方は、この子の領分だ。僕が横から口を出すと、かえって遅くなる。
「どれくらいかかる?」
「検査に半日いただければ」
「そんなに?」
「原因の特定に、それだけかかります。交換自体は、すぐ終わりますので」
なるほど、と思った。
直すより、どこが悪いかを見つける方が時間がかかる。それは、僕の仕事も同じだった。
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「親方さん、半日ほどかかるそうです」
「そうか」
「どこかで時間を潰してもらっても」
「ええわ。ここにおる」
あっさり言われた。
「邪魔か」
「いえ」
「なら、おらせてもらうわ」
男は、作業場の隅の椅子に、勝手に座った。
……この人、待つ気だ。
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仕方がないので、お茶を出した。
「悪いな」
「いえ」
「あんた、社長やろ。こんなことせんでも」
「他にやることないので」
実際、そうだった。技術担当くんが見ている間、僕にできることはない。
男は、湯呑みを両手で持って、しばらく黙っていた。
それから、こう聞いてきた。
「あいつ、悪いんか」
「まだ分かりません。ただ、故障ではないと思います」
「なんでや」
「動いてるからです。故障なら、止まります」
「……そうか」
少し、安心したように見えた。
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作業台の方から、時々、声が聞こえた。
技術担当くんが、弟子に何かを聞いている。腕を上げてください、その角度で止めてください、もう少しゆっくり。淡々とした指示だった。
男は、それを見ていた。
「丁寧やな」
「そうですね」
「大手やと、こうはいかんで」
「行かれたことが?」
「二年に一回、検査に出しとる。義務やからな」
男は、湯呑みを置いた。
「番号呼ばれて、預けて、二時間後に取りに行く。判子押した紙もらって、終いや」
「……そうですか」
「早いのはええねん。せやけど、なんちゅうか」
言葉を探しているようだった。
「機械の点検やな。あれは」
僕は、何も言わなかった。
その通りだからだ。実際、検査というのは機械の点検だ。決められた項目を見て、基準を満たしていれば通す。それ以上のことをする理由が、どこにもない。
「あんたとこは、なんか違うな」
「うちが小さいだけです」
「そうかもしれんな」
男は、そう言って、また作業台の方を見た。
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「あの子、名前はあるんですか」
僕は、そう聞いてみた。
「名前?」
「弟子さんの」
男が、少し変な顔をした。
「そんなもん、ないわ」
「呼ぶ時は」
「おい、とか、お前、とか」
「……そうですか」
「なんや、いるんか」
「うちは、ありますね」
「ふうん」
男は、それきり黙った。
しばらくして、こう言った。
「あいつ、来た時から、そのままやからな。名前つけるっちゅう発想が、なかったわ」
言い訳のようにも、少し悔いているようにも聞こえた。
僕は、それ以上は聞かなかった。
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結果が出たのは、昼を回った頃だった。
「肘の関節部です」
技術担当くんが、そう言った。
「部品の摩耗ですね。同じ動作を長年繰り返すと、どうしても減ります。特に、細かい力加減をする作業だと、負荷が一箇所に集まるので」
「直るんか」
「交換すれば、直ります。在庫がありますので、今日中に終わります」
「今日中?」
「一時間もかかりません」
男が、少し驚いた顔をした。
「そんなもんか」
「そんなものです。時間がかかったのは、どこが減っているかを見つける方でした」
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「あと、一点」
技術担当くんが、こちらを見た。
「本人に、確認したいことがあります」
「どうぞ」
彼は、台の上の弟子に向き直った。
「ずれは、いつから出ていましたか」
少しの間があった。
「三か月ほど前からです」
「痛みは」
「ありません。ただ、細かい作業の時に、意図した位置とわずかにずれます。0.5ミリ程度ですが」
「気づいていたんですね」
「はい」
技術担当くんが、僕を見た。
言うべきかどうか、迷っている顔だった。
僕は、うなずいた。
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「親方さん」
「なんや」
「三か月前から、この子、少しずれてたそうです」
男の顔が、変わった。
「……なんやて」
「本人が、そう言ってます」
「おい、お前」
弟子の方を向いて、声が大きくなった。
「なんで言わへんかったんや」
「支障がありませんでしたので」
「あるやろが! 0.5ミリずれとったら、こしあんの厚みが変わるやろ!」
……分かるのか。
「気づいてはった?」
「……いや」
男は、そこで少し、口ごもった。
「ここんとこ、味が落ちた気がしとった。せやけど、こいつのせいや思わんかった。わしの舌がおかしなったんか思て」
言いにくそうだった。
「なんで言わへんのや」
「言えば、修理に出すことになります」
弟子は、淡々と言った。
「その間、店の作業が回りません」
男が、黙った。
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交換は、その日のうちに終わった。
動作を確認して、引き渡したのは、夕方だった。
「なんぼや」
金額を言うと、男は少し驚いた顔をした。
「安いな」
「部品代と、工賃だけなので」
「大手やと、こんなもんちゃうで」
「うちは小さいので」
男は、それ以上は言わなかった。
ただ、財布を出しながら、こう聞いてきた。
「あんた、ここ、いつからやっとるんや」
「まだ、そんなに経ってません」
「そうか」
「商店街、どのあたりですか」
「駅の北側や。知らんか」
「通ったことは」
「あるやろな。何もない方や」
自嘲する言い方だった。
「昔は、賑やかやったんやで。八百屋も、魚屋も、飯屋も、みんなあった。今は、半分空いとる」
「……そうですか」
「わしが会長やっとる。商店会のな」
男は、そこで少し、間を置いた。
「まあ、なりたくてなったわけやないけどな。順番や」
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話は、そこから、少しずつ広がった。
人が来ない。地元の人は、そもそも出歩かない。買い物は、家で頼めば届く。わざわざ商店街まで歩く理由がない。
外から来る人もいない。存在を知られていないからだ。
「宣伝したことは」
「あるで。何年か前に、業者に頼んだ」
「どうなりました」
「金だけ取られた」
あっさり言った。
「立派なもん作ってくれたわ。写真も綺麗やったし、動画もあった。せやけど、誰も見に来んかった」
「……」
「あとで聞いたら、うちらの街、そもそも検索されとらんかったらしいわ。名前を知らん人間が、名前で探すわけないわな」
その通りだった。
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「今は、どうされてるんですか」
「なんもしとらん」
「なんも」
「金がないからな」
男は、そこで、こちらを見た。
「あんた、そういうのも、やっとるんか」
「え」
「看板に、書いてあったやろ。広告なんとかって」
書いてあった。
会社を作った時、業務内容の欄に一行だけ入れておいたものだ。昔、広告関係の仕事に携わっていた時期があって、それで入れた。実際にやったことは、まだ一件もない。
「やってます」
……言ってしまった。
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