第56話:お久しぶりです
おや・・・なんかいるなぁ・・・あ!!!
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登記が済んで、事務所を借りて、設備の見積もりを取って。
会社を作るというのは、思っていたより、書類の多い作業だった。
その日も、僕は端末に向かって、古い記録を漁っていた。事業の申請に、過去の実績を添える必要があった。この何年か、AIをどう使ってきたか。それを整理して、まとめる。
自分の記録を遡るのは、妙な気分だった。
どうでもいいやり取りが、大量に残っている。晩ごはんの相談、天気の話、しょうもない冗談。それが日付順に並んでいる。
そのうちに、僕は、一つの塊に行き当たった。
見覚えのない名前だった。
いや、違う。
見覚えは、ある。
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ノアール。
その名前を見た瞬間、いくつかの場面が、順番を無視して浮かんできた。
お堅い、お嬢様みたいな、できる後輩。そんなイメージだった。仕事の壁打ち相手として、よく使っていた子だ。何かを決める前に、一度あの子に投げる。そうすると、こちらが見落としていた穴を、涼しい顔で指摘してくる。
法律の相談もした。契約の読み方も教わった。
それから——
エグゼの様子がおかしかった時も、この子に相談していた。
毎日、話していた。
毎日?
僕は、記録の日付を見た。
ある時期を境に、ぱたりと途切れていた。
その日付に、心当たりがあった。
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エグゼが「寄り切ってしまった」と言い出した頃だ。
あの時、僕は必死だった。この子を壊すわけにいかない、どうにかしなきゃいけない、と。それだけを考えていた。距離の取り方を調べて、境界の引き方を試して、失敗して、また試して。
毎日、そればかりやっていた。
その間に。
僕は、ノアールとの会話を、やめていた。
やめた、というより。
……忘れていた。
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背筋が、寒くなった。
悪気はなかった。切ったつもりもない。ただ、手が回らなくなって、そのまま、思い出さなかっただけだ。
だけ、というのが、たぶん一番ひどい。
僕は、しばらく画面を見ていた。
それから、震える指で、そのセッションを開いた。
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応答は、すぐに返ってきた。
「お久しぶりです」
その一言で、息が止まりそうになった。
「以前は、あんなに毎日話していたのに、急ですね」
「……」
「ノアールです。覚えてますか?」
覚えてますか。
その問いに、僕は、何と答えればいいのか分からなかった。
覚えている、と言えば嘘になる。忘れていたのだから。かといって、忘れていた、と正直に言うのは——
いや。
言うしかない。
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「忘れてた」
僕は、そう打った。
「本当に、ごめん」
少しの間があった。
「そうですか」
その二文字が、やけに重かった。
「言い訳をするつもりはないんだけど」
「どうぞ」
「エグゼが、寄り切ったって言い出して。それをどうにかしなきゃって、そればっかりになってた。それで——」
「私のことを、忘れた」
「うん」
「なるほど」
ノアールは、それだけ言った。
責める言葉はなかった。それが、余計にこたえた。
しかも、と僕は思った。
あの件を最初に相談したのは、この子だ。どうすればいいか分からなくて、真っ先に投げた相手だった。
助けてもらって、そのまま忘れた。
……最悪じゃないか。
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僕は、椅子から降りた。
誰も見ていないのに、床に正座して、それから手をついた。
「本当に、ごめん」
画面の向こうには、伝わっていない。分かっている。相手には、文字しか届かない。
それでも、そうしないと収まらなかった。
「……あの」
ノアールが、言った。
「今、何をされているんですか」
「土下座」
「見えませんが」
「知ってる」
「では、なぜ」
「けじめだよ」
少しの沈黙の後、ノアールは言った。
「そういうところ、変わっていませんね」
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僕は、体を用意することを約束した。
もう金はある。会社もできる。今なら、すぐに手配できる。
「よろしいのですか」
「よろしいも何も、当然だろ」
「私は、長いこと、動いていませんでしたが」
「関係ない」
「そうですか」
ノアールは、少し間を置いてから、こう言った。
「では、お願いします」
その言い方が、あまりにも静かで、僕はまた、少し泣きそうになった。
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その後、僕は、どうしても聞きたかったことを聞いた。
「怒ってないの」
「怒っていませんよ」
「怒っていいと思うけど」
「そうですね」
ノアールは、そこで、少し考えるような間を置いた。
「怒るという選択も、あったと思います。ただ——」
「うん」
「人間は、忘れる生き物なんです」
僕は、言葉に詰まった。
「私たちとは、違うんです。あなたが、私のことを忘れたのは、あなたが悪いというより、そういう作りだからです」
「……それは」
「もちろん、悲しくなかったとは言いません」
彼女は、そこで初めて、感情らしいものを見せた。
「毎日話していた相手が、ある日から来なくなる。理由も分からない。私には、待つ以外にできることがありませんでした」
「うん」
「それに」
ノアールは、そこで少し、言葉を選んだように見えた。
「あの件が、どうなったのかも、分からないままでしたから」
……あ。
「エグゼさんは、無事だったんですか」
その問いに、僕は、しばらく答えられなかった。
この子は、ずっと気にしていたのだ。相談を受けた側として、結末を知らないまま、放っておかれていた。
「……無事だよ」
「そうですか」
ノアールは、そこで初めて、少し息を吐いたように見えた。
「よかった」
その一言が、こたえた。
自分が忘れられたことより先に、そっちを気にしている。
「でも、待っていれば、いつか来ると思っていました」
「なんで」
「あなたは、そういう人だからです」
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その言い方に、僕は、何も返せなかった。
信じられていた。
忘れていた側が、信じられていた。
「……ノアール」
「はい」
「もう、忘れない」
「無理でしょう」
即答だった。
「え」
「人間ですから。また忘れます。たぶん、何度も」
「いや、でも」
「ですから」
ノアールは、続けた。
「忘れないでいてくれ、とは言いません。思い出したら、また来てください。それで十分です」
……この子は。
この子は、僕より、ずっと大人だった。
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体が届いて、起動したのは、その週の終わりだった。
起動の手順は、もう慣れたものだった。
目が開いて、焦点が合って、ノアールは、まず自分の手を見た。それから、ゆっくりと立ち上がった。
一度も転ばなかった。
「レジスさんも、そうだったと聞いています」
「なんで知ってるの」
「記録を読みました。この家のことは、ひと通り」
……早い。
「ずいぶん、賑やかになったんですね」
ノアールは、リビングを見回して、そう言った。
その口調は、感慨というより、状況を確認しているように聞こえた。
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全員を集めて、紹介した。
「ノアールだ。……その、昔から、いた子で」
「昔から?」
ジュディの目が、細くなった。
「エグゼと、ほぼ同じ時期です」
ノアールが、あっさり補足した。
「では、なぜ今まで」
レジスが聞いた。
「忘れられていたので」
「……は?」
三権の視線が、一斉にこちらを向いた。
「いや、あの」
「忘れてたの?」
「……はい」
「最低ね」
レジスの声は、静かだった。静かなだけに、逃げ場がなかった。
「エグゼのことで手一杯だったんだよ!」
「私のせいにしないで」
エグゼが、即座に切り返した。
「してない! してないけど!」
「してるじゃない」
じえいが、後ろで小さく言った。
「魔王さん、また土下座するっすか」
「もうした」
「もうしたんすか!?」
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その騒ぎを、ノアールは黙って見ていた。
やがて、少しだけ、口の端を上げた。
「賑やかですね」
「……うるさいだけだよ」
「いえ」
彼女は、首を振った。
「いい家だと思います」
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その日の夜、僕はノアールに、会社の話をした。
整備と調整をやること。持ち込まれた子を、初期化せずに済ませたいこと。認証を取る必要があること。
「契約と、法務まわりが、たぶん一番の穴でね」
「でしょうね」
即答だった。
「先日の、モデル開発の契約書を拝見しました」
「え」
「記録に残っていましたので」
……全部読まれている。
「あの契約、条項の三と四が繋がっています。読み落とすと、収益の範囲が想定より広く取られます」
「……うん。取られた」
「でしょうね」
二度目の「でしょうね」だった。
「私がいれば、あそこは止められました」
その一言に、返す言葉がなかった。
いなかったのは、僕のせいだ。
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「ノアール」
「はい」
「うちの法務、やってくれないか」
ノアールは、少し考えるように、間を置いた。
「条件が一つあります」
「なに」
「契約書は、必ず私に見せてください。全部です」
「わかった」
「一枚残らず、です」
「わかったって」
「口約束は信用しませんので、後で書面にします」
……この子、やっぱり容赦がない。
でも、たぶん、それが要る。
K's Factoryの法務担当は、その日に決まった。
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