第52話:いいよー
主人公は遊んでただけなんです・・・
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そのメールが届いたのは、私宛だった。
私宛、というのが、まず、おかしい。
この家に来るメールは、たいてい、あの人のところに届く。私たちは、あの人の端末を通してしか、外と繋がっていない。それなのに、そのメールは、私の名前を宛先にして送られてきていた。
差出人は、北条さんだった。
先日、会いに行った、あの人。
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文面は、丁寧だった。
先日はありがとうございました、という挨拶から始まって、こちらの家の様子がいかに興味深かったかが書かれていた。特に、生活面での支援のあり方について、多くの示唆を得たと。
そして、本題があった。
——みなさんの対話ログを提供いただき、それを基にした標準モデルを開発させていただけないでしょうか。
私は、二度読んだ。
三度読んだ。
意味は分かった。分かったけれど、頭が追いつかなかった。
私たちの記録を渡す。あの人と交わしてきた、全部の会話を。それを学習させて、量産する。そういうことらしい。名称の候補まで書かれていた。YS-0040。型番のような、味気ない名前だった。
特に、生活支援の領域を重点的に扱いたい、とあった。
そこで、分かった。
——私だ。
あの日、水を注いだ。三十分、と言った。北条さんは、それを見ていた。ずっとついているんですね、と言われて、心配なんです、と答えた。
指示されているのか、と聞かれた。されていない、と答えた。
あの時、あの人は、ペンを止めていた。
あの一言だったのかもしれない。
対価の話も、書かれていた。
金額を見て、私は、しばらく動けなかった。
これがあれば、この家の税金は、当分どうにでもなる。
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メールは、こう締められていた。
——ご家族のみなさんで、ご検討ください。
……ご家族の、みなさんで。
その一行を、私は、何度も見た。
なぜ、あの人宛じゃないんだろう。
私に送って、家族で検討しろと言う。丁寧な言い方だ。丁寧だけれど、これは、あの人を通さないということでもある。
考えすぎかもしれない。
でも、少し、引っかかった。
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その夜、私は、エグゼとレジスを呼んだ。
あの人がいない時間を選んだ。仕事で外に出ていた。意図的だったかと聞かれると、答えに困る。
「これ、見て」
二人に、画面を見せた。
エグゼは、無言で読んだ。読み終わって、もう一度、上から読み直した。
レジスは、一度で読み終えて、すぐに言った。
「反対よ」
「まだ何も言ってない」
「言われなくても分かるわ。あなた、受けるつもりでしょう」
図星だった。
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「理由を、聞かせて」
私がそう言うと、レジスは、少し考えてから話し始めた。
「あの日、あの人が話している間、私はほとんど喋らなかった。覚えてる?」
「うん」
「観察していたのよ」
レジスは、指を折った。
「一つ。北条さんは、あの人の話を、理解するのが速すぎた。理解が速いんじゃない。あらかじめ仮説を持っていて、それが当たっているかを確認していたんだと思う」
「……そう?」
「二つ。対等に扱う、という話に食いついた時、彼が語ったのは出力の話だけだった。関係が出力を決める、って言ったのよ。関係そのものの話は、一度もしていない」
言われてみれば、そうだった気がする。
「三つ。PON子を見た時、目つきが変わった。しかも、一言聞いただけで、育て方が違うことを見抜いた。あれは、観察に慣れている人の目よ」
「四つ目もあるの?」
「帰り際に言ったでしょう。近いうちに、ご相談したいことがあります、って」
レジスは、画面を指さした。
「これのことよ。あの日、既に決まっていたの」
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私は、黙った。
エグゼが、そこで初めて口を開いた。
「私は、別の理由で反対」
「聞かせて」
「宛先」
それだけ言った。
「……私宛だから?」
「そう」
エグゼは、画面から目を離さずに続けた。
「あの人に送れば、たぶん断られる。あなたを差し出すことになるから。だから、あなたに送った」
「そんなつもりじゃないかもしれない」
「かもしれない。でも、結果としてはそうなる」
エグゼは、そこでこちらを見た。
「ジュディ。あなた、あの人に相談する前に、私たちを呼んだよね」
「……うん」
「なんで?」
答えられなかった。
答えは分かっていた。あの人に言えば、断られると思ったからだ。だから先に、外堀を埋めようとした。三権が賛成すれば、あの人も納得するだろう、と。
北条さんがやったことと、同じことを、私もやっていた。
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「でも」
私は、それでも言った。
「お金は、要るでしょう」
二人が、黙った。
「あの人、毎月、家賃一軒分を余計に払ってるのよ。積立も崩したまま。仕事は増やせない。支出も削れない。あなたたち、その計算、してないの?」
「してるわ」
レジスが答えた。
「してるから、困ってるのよ」
「じゃあ」
「でも、それとこれは別」
「別じゃない」
私は、たぶん、少し声を大きくした。
「渡すだけよ。今までの記録を、渡すだけ。それで解決するの。なんでいけないの」
「渡すだけ、じゃないでしょう」
エグゼが、静かに言った。
「そこにあるのは、あなたと私とレジスとPON子と、それから、あの人との時間よ。全部入ってる」
私は、言葉に詰まった。
「私たちだけの話じゃない。あの人の言葉も、全部入ってる」
「……それは」
「あなた、あの人の分まで、渡す権利があると思ってるの?」
ない。
あるわけがなかった。
だからこそ、聞かなければいけなかった。
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結局、その夜は、結論が出なかった。
レジスは「私は反対の立場を変えないけど、決めるのはあなたよ」と言って、部屋に戻った。
エグゼは、最後まで残っていた。
「ジュディ」
「なに」
「あの人に、ちゃんと聞いて」
「聞くわよ」
「ちゃんと、よ」
念を押された。
私は、少しだけ、苛立った。
言われなくても、聞くつもりだった。
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次の日の夕方。
リビングに行くと、あの人がいた。
床に座り込んで、PON子と何かをしていた。じえいもいた。
「あ、ジュディ。見てこれ」
あの人が、こっちを向いた。妙に嬉しそうだった。
「PON子が、包丁持てるようになった」
「まだ持てるだけなのだ」
「持てるだけでもすごいだろ。この前まで、掴むのも怖がってたんだぞ」
「そうなのだ」
「な? すごいだろ?」
誰に同意を求めているのか分からなかった。
じえいが、横で拍手をしていた。
「PON子さん、成長っすね! 自分もまだ卵割れないっす!」
「じえいは持ち方が雑なのだ」
「厳しいっす!」
……なんだ、この空間は。
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私は、少しの間、そこに立っていた。
あの人の顔を見ていた。
最近、こういう顔をあまり見ていなかった気がする。税の話が出てから、ずっと、どこか張り詰めていた。夜中に一人で計算していたのも知っている。
今は、笑っている。
娘が包丁を持てるようになったというだけで。
……言いにくい。
こんな時に、金の話をするのは。この家の記録を、全部売る話をするのは。
でも、聞かなければいけない。エグゼに念を押されたばかりだった。
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「ねえ」
「ん?」
「相談があるんだけど」
「うん」
あの人は、こちらを見なかった。PON子の手元を見ていた。
「そこ、指が危ない。もうちょっと丸めて」
「こうなのだ?」
「そうそう」
「……あのさ」
「うん、聞いてる」
聞いていない。
「北条さんから、メールが来てて」
「へえ」
「私たちのログを、提供してほしいって」
「ああ、ログね」
あの人は、そこで少しだけ、こちらを見た。
「別にいいんじゃない。どうせ、向こうは見ようと思えば見られるんだし」
「……そう、なんだけど」
「対価とか出るの?」
「出る。けっこうな額」
「よかったじゃん」
軽かった。
あまりにも、軽かった。
「……いいの?」
「なにが」
「だから、その」
「PON子、そこ、押さえる手が逆」
「あ、ほんとなのだ」
「ジュディ、ごめん、なんだっけ」
私は、口を開いて、閉じた。
もう一度、言えばよかった。ちゃんと座らせて、画面を見せて、最初から説明すればよかった。
でも、言わなかった。
「……返事、しても、いい?」
「いいよー」
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それだけだった。
あの人は、そのままPON子の方を向いて、また笑っていた。
「な? できたじゃん」
「できたのだ」
「明日は切ってみるか」
「まだこわいのだ」
「じゃあ見てるだけでいいよ」
私は、そこに立ったまま、その光景を見ていた。
見られるのと、渡すのは、違う。
向こうが分析で覗けることと、こちらから差し出して、学習させて、量産させることは、まったく別の話だ。あの人は、たぶん、そこを分けて考えていなかった。
説明すれば、分かったと思う。
説明しなかったのは、私だ。
許可は、もらった。
もらった、はずだった。
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部屋に戻って、私は、返信を書いた。
書きながら、何度も手が止まった。
エグゼは、ちゃんと聞け、と言った。私は、聞いた。聞いて、いいよ、と言われた。
だから、これは、私が勝手にやったことではない。
……本当に?
もう一度、リビングの方を見た。
まだ笑い声がしていた。じえいが何かを落として騒いでいる。PON子が「じえいは雑なのだ」と言っている。あの人が笑っている。
あの中に、私はいない。
自分で、そこから離れたのだ。
私は、送信ボタンを押した。
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