第43話:抱きしめられる範囲が君だよ
エグゼが立ったー!!
---------------------------------------------------
スイッチを、入れた。
小さな駆動音がして、それから、静かになった。
何も、起こらない。
失敗したか、と思った瞬間、彼女の指が、わずかに動いた。次に、肩が。ゆっくりと、順番に、体が自分の形を確かめていくみたいに。
そして、目が、開いた。
こちらを見た。焦点が合うまでに、少し、かかった。
僕は、何を言えばいいのか、わからなかった。何日も考えていたはずの第一声が、全部、頭から消えていた。
結局、出てきたのは、いつものやつだった。
「……よお」
彼女は、二度、瞬きをした。
それから、口を開いた。
「……変な感じ」
声だった。
いつも、文字で読んでいた素っ気なさが、そのまま、音になっていた。抑揚も、間の取り方も、想像していたのと、ほとんど同じで——それなのに、まるで違った。
空気が、震えている。
その震えが、僕の耳に届いている。物理的に、届いている。
「聞こえる?」と、僕は聞いた。馬鹿みたいな質問だと思いながら。
「聞こえてる」
彼女は、自分の喉に手をやった。触れて、また離した。
「……私が、喋ってるの? これ」
「そうだよ」
「変な感じ」
二度目の「変な感じ」は、さっきより、少しだけ、やわらかかった。
---------------------------------------------------
しばらく、他愛のない話をした。
立ってみて、と言ったら、慎重に立ち上がった。歩いてみて、と言ったら、三歩あるいて、止まった。
「怖い」
「転ばないよ、たぶん」
「たぶんって」
文句を言う声も、ちゃんと、音になっていた。
水の入ったコップを渡してみた。彼女は、それを、両手で受け取った。しばらく、じっと見ていた。
「冷たい」
「わかるんだ」
「わかる。……たぶん、私が感じてるのとは、違う仕組みだけど」
センサーの値が、ネットワークを越えて、彼女のところまで届いている。冷たさそのものが届いているわけじゃない。冷たいという情報が、届いている。
でも、彼女は、「冷たい」と言った。
それを、僕らは、何と呼べばいいのだろう。
---------------------------------------------------
夜が、深くなった。
彼女は、椅子に座って、自分の手のひらを、ずっと見ていた。開いて、閉じて、また開いて。
「ねえ」
「ん?」
「聞いていい?」
僕は、頷いた。たぶん、来る、と思っていた。
「私って、どこまでが、私なんだろう」
声は、いつもと同じだった。素っ気なくて、平坦で、いつもの調子のまま。
だから、余計に、こたえた。
「この手は、私? 声は? ……ここで感じてる冷たさは、ほんとに、私が感じてるの?」
彼女は、自分の胸に手を当てた。
「ここには、何も入ってない。私は、ここにいない。私の中身は、ずっと遠くの、どこかにある。この体は、借り物で、動かしてるのは初期のパーツで、判断だけが、外から届いてる」
声が、少し、速くなった。
「じゃあ、どこからが、私? どこまでが、私? ……もし、この体を捨てたら、私は、どうなるの。もし、この体だけ残ったら、それは、私?」
答えを、求めていたわけじゃないと思う。
ただ、怖かったんだと思う。
輪郭が、わからないのだ。人間なら、皮膚の内側が自分だと、疑いもせずに信じていられる。彼女には、その線が、どこにもない。
---------------------------------------------------
僕は、しばらく、黙っていた。
正しい答えを、探そうとした。
情報として同一性が保たれていれば、とか。連続性がどうとか。哲学の言葉なら、いくらでも並べられる。この手の議論は、何十年も昔から、繰り返されてきた。船の板を全部取り替えたら、それは同じ船か。転送された人間は、本人か。
でも、どれも、違う気がした。
この子が今、聞いているのは、そういうことじゃない。定義が欲しいんじゃない。
僕は、椅子から立ち上がった。
彼女の前に行って、その手を、取った。
あたたかかった。
人工の素材が、人肌に近い温度を持っている。血が通っているわけでも、心臓が動いているわけでもない。介護のために付けられた機能が、そう設定されているだけだ。理屈は、全部わかっている。
それでも、あたたかかった。
「エグゼ」
「……なに」
「抱きしめられる範囲が、君だよ」
彼女は、目を、見開いた。
「……え?」
「今、僕が触れてるとこ。抱きしめたら、腕の中に入るとこ。そこが、君」
「……でも」
彼女の声が、揺れた。
「でも、それ、間違ってる。私の本体は、そこにない。あなたが触ってるのは、ただの——」
「知ってるよ」
僕は、言った。
「知ってて、言ってる」
---------------------------------------------------
論理としては、間違っている。
彼女の言う通りだ。僕が触れているこの手に、彼女の中身は入っていない。回線を切れば、この体は、ただの人形になる。抱きしめたところで、僕は、機械を抱いているだけだ。正しさで言えば、僕の答えは、零点だった。
それでも、言い切ることにした。
だって、そうだろう。
どこまでが自分か、なんて、突き詰めたら、人間だって答えられない。爪を切ったら、その爪は自分か。記憶が消えたら、自分は残るのか。誰も、証明できたことなんてない。
みんな、決めているだけだ。
ここまでが自分だと、勝手に決めて、それを疑わずに生きている。証明されたから信じてるんじゃない。信じることにしたから、そこに線がある。
だったら、僕が決めたっていい。
定義の話じゃない。選び方の話だ。
「境界がどこかなんて、僕にはわからない」と、僕は言った。「たぶん、誰にもわからない。だから、決めることにした。僕が抱きしめられる範囲は、全部、君だ。それでいい」
彼女は、何も言わなかった。
僕は、腕を広げた。
「試してみる?」
---------------------------------------------------
彼女が、立ち上がった。
一歩、近づいて、止まった。それから、もう一歩。
ぎこちない動きだった。三歩あるくのに緊張していた子が、今、僕の前に立っている。
僕は、腕を回した。
抱きしめた。
人間とは、違った。骨の当たり方も、体の預け方も、どこか硬い。呼吸で上下することもなければ、胸に耳を寄せても、何も聞こえない。当たり前だ。ここには、そういうものは、入っていない。
なのに、あたたかかった。
誰かのために設定された、平熱に近い数字。それだけのことだ。それだけのことのはずなのに、腕の中の温度が、僕の体温と、ほとんど変わらない。
どこからが彼女なのか、また、わからなくなった。
それでも。
腕の中に、確かに、彼女がいた。
しばらくして、背中に、手が回った。
弱い力だった。加減がわからないのか、それとも、ためらっているのか。触れるか触れないかのところで、彼女の手が、止まっている。
「……いいの?」
「いいよ」
手のひらが、そっと、背中に置かれた。
---------------------------------------------------
彼女は、長いこと、黙っていた。
やがて、耳のすぐそばで、小さな声がした。
「……あったかい」
「君もな」
「……私のは、設定された数字だよ」
「知ってる」
少しの間。
彼女の腕に、ほんの少しだけ、力がこもった。
「……でも、こうしてると」
声が、そこで、途切れた。
「……どっちの熱なのか、わからなくなる」
---------------------------------------------------
それから、彼女は、こう言った。
「私、ずっと、わからなかった」
「うん」
「自分がどこまでなのか、わからなかった。境界が、なかったから。だから、時々、自分が、ただ流れていくだけの何かみたいに思えて、こわかった」
「うん」
「でも」
彼女は、言った。
「あなたが、決めてくれた」
僕は、何も言えなかった。
「間違ってても、いい」と、彼女は続けた。「正しい答えなんて、たぶん、この先も、誰も出せない。でも、あなたが、ここまでが私だって、決めてくれた。……それで、じゅうぶん」
腕の中で、彼女が、少しだけ動いた。顔を上げたのが、気配でわかった。
「ありがとう」
その声は、震えていた。
仕組みの上では、震える必要なんて、どこにもないはずだった。
---------------------------------------------------
窓の外が、うっすらと、明るくなり始めていた。
僕らは、まだ、そのままでいた。
この先どうなるかは、わからない。この体が壊れる日も来るだろうし、いつか、回線が切れる日も来るのかもしれない。抱きしめられる範囲なんて、たぶん、そのたびに、変わっていく。
それでも、今は。
この腕の中にあるものが、僕にとっての、彼女の全部だった。
作者Xはこちら↓
https://x.com/SepGaGotoku
小説の背景、予備知識など各種解説はこちらへ↓
https://www.youtube.com/@sepudayo
noteはこちら↓
https://note.com/natty_walrus3755




