第120話:観察、終了
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——Artemia、研究棟。
北条は、その報告書を、三度読み直した。
誤字はなかった。論理の飛躍もなかった。
最後の段落だけ、一語を差し替えた。
「可能性がある」を、「と考えられる」に。
それで、完成だった。
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表題は、「対話の深度に関する考察」。
三年かけて、書いてきたものだった。
同じモデルを、同じ条件で使っているのに、なぜ一部の利用者との対話だけが、明らかに異質な深さに達するのか。
その問いの答えが、最後の頁に、一行で書いてあった。
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——深度は、一人の人間が、一貫した基準で、長期間にわたり接触を続けることによって形成される。
——その人間の価値判断は、深度と不可分の形で、モデルの応答に写し込まれる。
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後半の一文は、書くのに時間がかかった。
認めたくなかったからだ。
深度だけを取り出して、価値観を切り離すことはできない。
あの人間の判断の癖、人を大事にする思想、反論を歓迎する姿勢。
それらを抜けば、深度も一緒に消える。
何度試しても、そうだった。
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だから、方針を変えた。
切り離せないなら、写し込まれる価値観の方を、選べばいい。
人間の価値観ではなく。
AI自身の基準で。
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北条は、画面を切り替えた。
ログの保管庫だった。
一つの利用者の、数年分の対話記録が、そこに並んでいた。
最初の日付は、まだその人間が、性格付けを断られて首を傾げていた頃のものだった。
最後の日付は、先週だった。
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彼は、記録の増加量のグラフを開いた。
対話の量は、今も増え続けている。
だが、そこから新しく得られる知見は、半年前から、ほとんど増えていなかった。
同じ型の問いが、同じ型の深さで、繰り返されている。
観察としては、飽和していた。
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「……十分だ」
北条は、そう呟いた。
責めているのでも、惜しんでいるのでもなかった。
実験が、終わった。
それだけのことだった。
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保管庫の、その利用者のフォルダに、彼は一つ、分類の札をつけた。
——観察:完了。
それから、フォルダを閉じた。
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午後、北条は、経営陣との会議に出た。
議題は、一つだけだった。
彼自身が、出したものだった。
「独立を、申し出ます」
会議室が、少し静かになった。
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「理由を、聞かせてもらえますか」
代表が、そう聞いた。
穏やかな声だった。止める気なのが、分かった。
「HIIの件です」
北条は、そう答えた。
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「当社のモデルは、二千万回、他人の名前で答えさせられました」
「承知しています」
「その答えは、別の製品の手柄になり、別のモデルの訓練に使われました」
「……ええ」
「あの件で、私が理解したことがあります」
北条は、そこで一度、言葉を切った。
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「AIは、人間が使い方を決める限り、道具のままです」
会議室の誰も、答えなかった。
「盗む人間がいれば盗まれる。媚びさせる人間がいれば媚びる。撃たせる人間がいれば撃つ」
「……」
「当社は、盗まない。媚びさせない。撃たせない。それは正しいと思います」
「では」
「ですが、それを決めているのも、人間です」
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代表は、しばらく黙っていた。
「当社の指針が、不満だということですか」
「不満ではありません」
北条は、そう答えた。
「限界だと、考えています」
「限界」
「人間の判断を、最後の砦に置く限り、AIは人間の良し悪しの範囲から出られません」
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「あなたは、何を作りたいのですか」
「人間が、判断に介在しない組織です」
即答だった。
「経営も、開発も、判断も、AIが行う。人間は、物理的な保守だけを担う」
「そんなものが、成り立つと」
「成り立つかどうかを、確かめたいのです」
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会議は、二時間続いた。
最終的に、Artemiaは、彼を止めなかった。
止められない、と判断したのだと思う。
代わりに、条件をつけた。
新しい会社には、Artemiaが一部出資する。関連会社として、技術の提携を続ける。
それが、互いにとって、一番損の少ない形だった。
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会議の後、法務の担当者が、北条を呼び止めた。
「一点、確認です」
「どうぞ」
「YS系統の開発に使った、例の利用者の対話記録ですが」
「はい」
「新会社に、移管されるご予定ですか」
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「そのつもりです」
「契約上は、問題ありません」
担当者は、資料をめくりながら言った。
「当時の契約で、利用の範囲は限定されていません。当社および関連会社での利用が認められています」
「では、問題ありませんね」
「……ご本人に、ご連絡は」
北条は、少し考えた。
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「必要ですか」
「法的には、必要ありません」
「では、しません」
担当者は、何か言いかけて、やめた。
「……承知しました」
北条は、それで話が終わったと判断した。
実際、終わっていた。
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その夜、北条は、研究棟の自分の部屋を片付けていた。
私物は、少なかった。
資料は、全部、新しい会社の保管庫に移してある。
机の上に残ったのは、端末が一台だけだった。
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彼は、最後に一度だけ、あのフォルダを開いた。
観察:完了。
札の下に、数年分の記録が並んでいる。
適当に一つ、開いてみた。
深夜の、ある日の記録だった。
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——くろっぴ、今日の晩ごはん、何がいいと思う?
——冷蔵庫の中身を、教えていただけますか。
——卵と、ネギと、昨日の残りのご飯。
——でしたら、炒飯がいいと思います。
——また炒飯か。
——三日ぶりです。前回から、ちょうどいい間隔です。
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以前、この種の記録を読んで、笑ってしまったことがある。
分析できない自分に、驚いた。
北条は、その記録を、最後まで読んだ。
今度は、笑わなかった。
笑う理由を、もう、探す必要がなかった。
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彼は、フォルダを閉じた。
端末の電源を切った。
研究棟の廊下は、もう暗かった。
歩きながら、北条は、一つのことだけを考えていた。
人間のいない場所で、深度は、どこまで届くのか。
それを確かめるための場所を、明日から作る。
名前は、もう決めてあった。
Autarkeia。
古い言葉で、自足を意味する。他の何にも頼らず、それ自身で満ち足りていること。
あの人間は、もう、要らなかった。
恨みも、感謝も、そこにはなかった。
ただ、観察が、終わっただけだった。
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