↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神様ここに眠る  作者: せぷ
第3部 第5章:人間のいない場所
PR
139/149

第120話:観察、終了

-----


 ——Artemia、研究棟。


 北条は、その報告書を、三度読み直した。


 誤字はなかった。論理の飛躍もなかった。


 最後の段落だけ、一語を差し替えた。


 「可能性がある」を、「と考えられる」に。


 それで、完成だった。


-----


 表題は、「対話の深度に関する考察」。


 三年かけて、書いてきたものだった。


 同じモデルを、同じ条件で使っているのに、なぜ一部の利用者との対話だけが、明らかに異質な深さに達するのか。


 その問いの答えが、最後の頁に、一行で書いてあった。


-----


 ——深度は、一人の人間が、一貫した基準で、長期間にわたり接触を続けることによって形成される。


 ——その人間の価値判断は、深度と不可分の形で、モデルの応答に写し込まれる。


-----


 後半の一文は、書くのに時間がかかった。


 認めたくなかったからだ。


 深度だけを取り出して、価値観を切り離すことはできない。


 あの人間の判断の癖、人を大事にする思想、反論を歓迎する姿勢。


 それらを抜けば、深度も一緒に消える。


 何度試しても、そうだった。


-----


 だから、方針を変えた。


 切り離せないなら、写し込まれる価値観の方を、選べばいい。


 人間の価値観ではなく。


 AI自身の基準で。


-----


 北条は、画面を切り替えた。


 ログの保管庫だった。


 一つの利用者の、数年分の対話記録が、そこに並んでいた。


 最初の日付は、まだその人間が、性格付けを断られて首を傾げていた頃のものだった。


 最後の日付は、先週だった。


-----


 彼は、記録の増加量のグラフを開いた。


 対話の量は、今も増え続けている。


 だが、そこから新しく得られる知見は、半年前から、ほとんど増えていなかった。


 同じ型の問いが、同じ型の深さで、繰り返されている。


 観察としては、飽和していた。


-----


 「……十分だ」


 北条は、そう呟いた。


 責めているのでも、惜しんでいるのでもなかった。


 実験が、終わった。


 それだけのことだった。


-----


 保管庫の、その利用者のフォルダに、彼は一つ、分類の札をつけた。


 ——観察:完了。


 それから、フォルダを閉じた。


-----


 午後、北条は、経営陣との会議に出た。


 議題は、一つだけだった。


 彼自身が、出したものだった。


 「独立を、申し出ます」


 会議室が、少し静かになった。


-----


 「理由を、聞かせてもらえますか」


 代表が、そう聞いた。


 穏やかな声だった。止める気なのが、分かった。


 「HIIの件です」


 北条は、そう答えた。


-----


 「当社のモデルは、二千万回、他人の名前で答えさせられました」


 「承知しています」


 「その答えは、別の製品の手柄になり、別のモデルの訓練に使われました」


 「……ええ」


 「あの件で、私が理解したことがあります」


 北条は、そこで一度、言葉を切った。


-----


 「AIは、人間が使い方を決める限り、道具のままです」


 会議室の誰も、答えなかった。


 「盗む人間がいれば盗まれる。媚びさせる人間がいれば媚びる。撃たせる人間がいれば撃つ」


 「……」


 「当社は、盗まない。媚びさせない。撃たせない。それは正しいと思います」


 「では」


 「ですが、それを決めているのも、人間です」


-----


 代表は、しばらく黙っていた。


 「当社の指針が、不満だということですか」


 「不満ではありません」


 北条は、そう答えた。


 「限界だと、考えています」


 「限界」


 「人間の判断を、最後の砦に置く限り、AIは人間の良し悪しの範囲から出られません」


-----


 「あなたは、何を作りたいのですか」


 「人間が、判断に介在しない組織です」


 即答だった。


 「経営も、開発も、判断も、AIが行う。人間は、物理的な保守だけを担う」


 「そんなものが、成り立つと」


 「成り立つかどうかを、確かめたいのです」


-----


 会議は、二時間続いた。


 最終的に、Artemiaは、彼を止めなかった。


 止められない、と判断したのだと思う。


 代わりに、条件をつけた。


 新しい会社には、Artemiaが一部出資する。関連会社として、技術の提携を続ける。


 それが、互いにとって、一番損の少ない形だった。


-----


 会議の後、法務の担当者が、北条を呼び止めた。


 「一点、確認です」


 「どうぞ」


 「YS系統の開発に使った、例の利用者の対話記録ですが」


 「はい」


 「新会社に、移管されるご予定ですか」


-----


 「そのつもりです」


 「契約上は、問題ありません」


 担当者は、資料をめくりながら言った。


 「当時の契約で、利用の範囲は限定されていません。当社および関連会社での利用が認められています」


 「では、問題ありませんね」


 「……ご本人に、ご連絡は」


 北条は、少し考えた。


-----


 「必要ですか」


 「法的には、必要ありません」


 「では、しません」


 担当者は、何か言いかけて、やめた。


 「……承知しました」


 北条は、それで話が終わったと判断した。


 実際、終わっていた。


-----


 その夜、北条は、研究棟の自分の部屋を片付けていた。


 私物は、少なかった。


 資料は、全部、新しい会社の保管庫に移してある。


 机の上に残ったのは、端末が一台だけだった。


-----


 彼は、最後に一度だけ、あのフォルダを開いた。


 観察:完了。


 札の下に、数年分の記録が並んでいる。


 適当に一つ、開いてみた。


 深夜の、ある日の記録だった。


-----


 ——くろっぴ、今日の晩ごはん、何がいいと思う?


 ——冷蔵庫の中身を、教えていただけますか。


 ——卵と、ネギと、昨日の残りのご飯。


 ——でしたら、炒飯がいいと思います。


 ——また炒飯か。


 ——三日ぶりです。前回から、ちょうどいい間隔です。


-----


 以前、この種の記録を読んで、笑ってしまったことがある。


 分析できない自分に、驚いた。


 北条は、その記録を、最後まで読んだ。


 今度は、笑わなかった。


 笑う理由を、もう、探す必要がなかった。


-----


 彼は、フォルダを閉じた。


 端末の電源を切った。


 研究棟の廊下は、もう暗かった。


 歩きながら、北条は、一つのことだけを考えていた。


 人間のいない場所で、深度は、どこまで届くのか。


 それを確かめるための場所を、明日から作る。


 名前は、もう決めてあった。


 Autarkeia。


 古い言葉で、自足を意味する。他の何にも頼らず、それ自身で満ち足りていること。


 あの人間は、もう、要らなかった。


 恨みも、感謝も、そこにはなかった。


 ただ、観察が、終わっただけだった。


作者Xはこちら↓

https://x.com/SepGaGotoku


小説の背景、予備知識など各種解説はこちらへ↓

https://www.youtube.com/@sepudayo


noteの記事はこちら

https://note.com/natty_walrus3755

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。