第101話:初めてのレッスン
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レッスンの手配は、三日でついた。
調べてみると、専門のスタジオがいくつかあった。
歌、ダンス、表情と所作。それぞれに講師がいて、単発でも受けられるらしい。
しかも、アンドロイド向けのコースがあった。
「あるのか、そんなの」
「ございますわ」
ドンナが、あっさりそう答えた。
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「調べたのか」
「調べました」
「なんで」
「マスターが、夜中に検索履歴を残しておられましたので」
……見られていた。
「勝手に見るなよ」
「共有端末ですわ」
それを言われると、弱い。
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「で、どうなんだ。そのコース」
「需要はあるようですの」
ドンナは、そう説明した。
「動画の出演者として登録するアンドロイドが、この数年で増えておりますわ」
「じゃあ、ライバルが多いのか」
「多いですわね」
「……勝てるかな」
「存じ上げませんわ」
冷たかった。
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スタジオは、電車で四十分ほどの場所にあった。
初回は、ボイストレーニング。
予約を入れて、当日の朝、僕はPON子を送り出す準備をしていた。
「PON子、駅までの道、分かるか」
「わかるのだ」
「電車は」
「のったことあるのだ」
「……一人では?」
少しの間があった。
「ないのだ」
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そうだった。
この子を、一人で外に出したことは、一度もない。
買い物に行く時は、誰かがついていた。旅行も、全員で行った。
考えてみれば、当たり前だった。
うちの子たちは、みんな仕事で外に出る。じえいは営業で回っているし、技術担当くんも現場に行く。
PON子だけが、ずっと家にいた。
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「送っていこうか」
「いいのだ」
即答だった。
「一人で行けるのか」
「行けるのだ」
「本当に?」
「たぶん、いけるのだ」
……たぶん。
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僕は、あの子の持ち物を確認した。
交通の決済はできる。連絡もつく。住所も入れてある。
問題は、ないはずだった。
「困ったら、すぐ連絡しろ」
「わかったのだ」
「知らない人についていくな」
「いかないのだ」
「あと」
「まだあるのだ?」
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「……気をつけて」
それしか、言えなかった。
PON子は、少し不思議そうな顔をした。
「パパ、へんなのだ」
「変じゃない」
「へんなのだ」
あの子は、そう言って、玄関を出ていった。
振り返らなかった。
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扉が閉まって、しばらくして、僕は立ち上がった。
「……行くか」
誰にも言っていなかった。
言うつもりも、なかった。
靴を履いていると、背後に気配がした。
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「マスター」
ドンナだった。
「……なに」
「どちらへ」
「散歩」
「そうですの」
あの子は、そう言って、自分の靴を出した。
「なんで履いてるんだ」
「私も、散歩に出ようかと」
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その時、階段の方から足音がした。
「あ、社長! どこ行くんすか!」
じえいだった。
「……散歩だ」
「自分も行きます!」
「呼んでない」
「呼ばれてないっす!」
元気だった。
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結局、三人で出た。
電車の中では、誰も本題に触れなかった。
「いい天気ですわね」
「そうだな」
「散歩日和っす!」
嘘が、下手だった。
三人とも。
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スタジオの入っているビルは、古い雑居ビルだった。
四階建てで、二階が音楽スタジオになっている。
PON子は、既に中に入っているはずだった。
「どうしますの」
「……見る」
「どこから」
僕は、周りを見回した。
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スタジオの扉に、小さな窓がついていた。
覗ける。
ただし、廊下に立つことになる。
「不審者ですわね」
「不審者だな」
「行きますか」
「行く」
僕たちは、階段を上った。
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窓から、中が見えた。
PON子が、部屋の中央に立っていた。
その正面に、女性が一人。五十くらいだろうか。楽譜を持っている。
声は、少しだけ聞こえた。
「じゃあ、まず声を出してみましょうか」
「はいなのだ」
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「ドから、順番に上げていきます」
ピアノの音がした。
PON子が、声を出した。
「あー」
……綺麗だった。
思っていたより、ずっと。
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「うまいっすね」
じえいが、小声でそう言った。
「うまいな」
「機能としては、当然ですわ」
ドンナが、そう答えた。
「発声は、設計上、正確に行えますの。音程を外す理由がございません」
「じゃあ、なんで習うんだ」
「さあ」
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先生は、何度か音を出させてから、こう言った。
「上手ですね。音は取れてます」
「そうなのだ?」
「ええ。でも」
先生は、楽譜を置いた。
「ちょっと、綺麗すぎますね」
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「きれいすぎる?」
「そう。正確すぎるんです」
先生は、そう言った。
「それ、だめなのだ?」
「だめじゃないです。ただ、聞いてる方が、あんまり動かない」
「うごかない?」
「心が」
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PON子は、しばらく黙っていた。
「……わからないのだ」
「そうよね」
先生は、少し笑った。
「じゃあ、こうしましょう。歌詞をつけて、一度歌ってみて」
楽譜が渡された。
僕の位置からは、何の曲かは見えなかった。
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伴奏が始まった。
PON子が、歌い始めた。
……上手い。
やはり、上手い。
音程も、リズムも、完璧だった。
なのに。
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「うーん」
先生が、途中で止めた。
「どうしたのだ?」
「歌詞の意味、分かってる?」
「わからないのだ」
あっさり答えた。
「じゃあ、そこからね」
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先生は、歌詞を一行ずつ説明し始めた。
これは、誰かを待っている場面。
これは、待ちきれなくなった気持ち。
これは、諦めかけているところ。
PON子は、真剣に聞いていた。
時々、首をかしげていた。
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「待ってる人が、来ないのだ?」
「来ないの」
「なんでなのだ?」
「理由は書いてないわ」
「じゃあ、待つのやめればいいのだ」
先生が、少し驚いた顔をした。
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「……やめられないのよ」
「なんでなのだ?」
「好きだからかしら」
「好きだと、やめられないのだ?」
「そうね」
PON子は、しばらく考えていた。
それから、こう言った。
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「わたしも、ごはん、やめられないのだ」
先生が、噴き出した。
声を出して、笑っていた。
「そう、そういう感じ」
「そういう感じなのだ?」
「近いと思う」
適当だな、と思った。
でも、先生は楽しそうだった。
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その日のレッスンは、一時間で終わった。
最後に、もう一度歌わせていた。
僕は、窓から、それを見ていた。
……さっきと、少し違った。
何が違うのかは、うまく説明できない。
でも、違った。
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「変わりましたわね」
ドンナが、そう言った。
「分かるか」
「分かりますわ」
「どこが」
「……説明できませんの」
珍しいことだった。
この子が、説明を諦めるのは。
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帰り道、僕たちは先に出た。
PON子が出てくる前に、ビルを離れた。
見ていたことは、言わないことにした。
「泣いてました?」
じえいが、そう聞いてきた。
「泣いてない」
「泣いてましたよね」
「泣いてない」
「目、赤いっすよ」
「花粉だ」
「季節が違うっす」
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三日後は、ダンスのレッスンだった。
同じスタジオの、三階だった。
今回も、三人で出ようとした。
玄関で靴を履いていると、背後から声がした。
「ちょっと」
三人とも、動きが止まった。
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レジスだった。
書類を持ったまま、こちらを見ている。
「三人で、どこ行くの」
「……散歩だ」
「三人で?」
「三人で」
「平日の、この時間に?」
答えられなかった。
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「ドンナ」
「はい」
「経理の締め、今日じゃなかった?」
「……明日ですわ」
「明日なら、今日やるべきでしょう」
「……」
ドンナが、黙った。
珍しいことだった。
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「じえい」
「はいっす!」
「あなた、午後にアポ入ってるわよね」
「……入ってます」
「何時から」
「二時っす」
「今、十時よ」
「……間に合うっす」
「四十分かかる場所に行って?」
なぜ知っている。
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レジスは、僕の方を見た。
「それで」
「……なんだ」
「何をしに行くの」
僕は、少し考えた。
言ってしまえば、簡単だった。
でも、なんとなく、言いたくなかった。
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「……見に行く」
「何を」
「PON子を」
レジスの表情が、少しだけ動いた。
「あの子、どこにいるの」
「スタジオだ」
「スタジオ?」
「ダンスの」
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少しの沈黙があった。
「……何やってるの、あなた」
「アイドルにする」
「は?」
「PON子を、アイドルにする」
レジスは、しばらく僕を見ていた。
それから、深く息を吐いた。
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「またPON子と遊んでるのね」
「遊びじゃない」
「遊びでしょう」
「本気だ」
「本気で遊んでるの?」
……否定しにくい言い方だった。
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「事業になるかもしれない」
僕は、そう言ってみた。
「ならないわ」
即答だった。
「なんで分かる」
「分かるわよ」
レジスは、書類をめくった。
「あの子、何ができるの」
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「……何も」
「でしょう」
「でも」
「でも?」
「可愛い」
レジスは、そこで、こちらを見た。
何か言いかけて、やめた。
それから、こう言った。
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「好きにすれば」
「いいのか」
「よくはないわ」
いつもの返し方だった。
「ただ」
「ただ?」
「二人は連れて行かないで」
ドンナとじえいが、同時に固まった。
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「業務を止めてまで行くことじゃないでしょう」
「……ですが」
ドンナが、何か言いかけた。
「なに」
「本日は、締めではございませんの」
「明日でしょう」
「明日ですわ」
「なら、今日行く理由にはならないわね」
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少しの間があった。
「……マスター」
「なに」
「申し訳ございません」
あの子は、そう言って、靴を脱いだ。
じえいも、しぶしぶ脱いだ。
「自分、二時までには戻ります」
「戻りなさい」
「……はいっす」
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結局、僕一人で行くことになった。
玄関を出る時、レジスが後ろから言った。
「ねえ」
「なに」
「見つからないようにね」
僕は、振り返った。
あの子は、もう書類に目を戻していた。
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窓から見ると、今度は男性の講師だった。
三十くらいに見える。動きやすい格好をしている。
「じゃあ、まず基本の動きから」
鏡の前で、講師が手本を見せた。
右に二歩、左に二歩、それから腕を上げる。
簡単な動きだった。
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PON子が、真似をした。
……正確だった。
完璧だった。
右に二歩、左に二歩、腕を上げる。
寸分違わず、同じだった。
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「……すごいな」
思わず、声が出た。
一回で覚えている。
当たり前かもしれない。映像として記録できるのだから、再現するだけなら難しくない。
でも、実際に目の前で見ると、違って見えた。
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講師も、少し驚いた顔をしていた。
「……速いね」
「はやいのだ?」
「うん。普通、一週間かかる」
「わたし、いま覚えたのだ」
「そうだね」
講師は、そう言って、腕を組んだ。
それから、こう言った。
「じゃあ、もう一回やってみて」
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PON子が、同じ動きをした。
また、完璧だった。
「うん。じゃあ、もう一回」
また、完璧だった。
「もう一回」
完璧。
「もう一回」
完璧。
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五回目が終わったところで、講師が止めた。
「全部、同じだね」
「おなじなのだ」
「一ミリも違わない」
「ちがわないのだ」
「……それ、どう思う?」
PON子は、首をかしげた。
「いいことなのだ?」
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「どうだろうね」
講師は、そう答えた。
「人間は、同じにできないんだ」
「できないのだ?」
「うん。疲れるし、気分も変わる。同じ動きをしてるつもりでも、少しずつ違う」
「へたなのだ?」
「下手っていうか」
講師は、少し考えた。
「生きてる感じがする」
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PON子は、その言葉を、しばらく考えているようだった。
「わたし、生きてないのだ?」
その質問に、僕は、思わず窓に近づいた。
講師も、少し困った顔をした。
「いや、そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味なのだ?」
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「……うまく言えないな」
講師は、正直にそう言った。
「ただ、見てる人が、そう感じるんだ」
「みてる人?」
「うん。動きが完璧すぎると、機械っぽく見える」
「わたし、機械なのだ」
「そうなんだけどね」
講師は、頭をかいた。
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「機械が機械っぽく見えると、面白くないんだよ」
「へんなのだ」
「変だよね」
「へんなのだ」
二人とも、笑っていた。
変な空気だった。
でも、悪くない空気だった。
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その日の夜、僕はドンナにその話をした。
「難題ですわね」
「難題だな」
「正確にできることが、欠点になるとは」
「そうだな」
「私には、理解できませんの」
あの子は、そう言った。
珍しく、不服そうだった。
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「ドンナも、正確だもんな」
「正確ですわ」
「それ、褒められないのか」
「業務では、褒められますわ」
「じゃあ、いいじゃないか」
「……ええ」
少しの間があった。
「ですが、あの場では、そうではないのですわね」
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最後のレッスンは、表情と所作だった。
これが、一番難しかった。
「笑ってみましょうか」
先生は、女性だった。四十くらいに見える。
「わらうのだ?」
「そう」
PON子は、笑った。
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……笑っていた。
たしかに、笑っていた。
口角が上がり、目が細くなっている。
完璧な、笑顔だった。
「うーん」
先生は、そう言った。
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「今のは、笑ってないわね」
「わらってるのだ」
「顔は笑ってる。でも、中身がない」
「なかみ?」
「そう」
PON子は、自分の顔を触った。
「なかみ、どこにあるのだ?」
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先生は、少し笑った。
「難しい質問ね」
「むずかしいのだ?」
「うん。私も、うまく説明できない」
先生は、そう言って、鏡の前に立たせた。
「じゃあ、思い出してみて」
「なにを?」
「嬉しかったこと」
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PON子は、鏡を見たまま、しばらく黙っていた。
僕は、窓の外から、それを見ていた。
何を思い出しているんだろう、と思った。
やがて、あの子の顔が、少し動いた。
自然に、口の端が上がった。
目が、少しだけ細くなった。
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「それ」
先生が、すぐに言った。
「今の。それが笑顔よ」
「これなのだ?」
「そう」
「さっきと、どうちがうのだ?」
「……全然違うわ」
先生は、そう答えた。
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「何を思い出したの?」
PON子は、少し考えてから答えた。
「ごはん食べてるとこなのだ」
「……ごはん?」
「みんなで、ごはん食べてるのだ」
「あら」
先生が、目を丸くした。
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「わたしは、食べないのだ」
PON子は、そう続けた。
「でも、みんなが食べてるの、見てるのだ」
「そう」
「おいしそうなのだ」
「うん」
「それが、いちばん、うれしいのだ」
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僕は、その言葉を、廊下で聞いていた。
ドンナも、じえいも、何も言わなかった。
その日は、三人で来ていた。
最終日だからと、ドンナが前日までに締めを終わらせ、じえいがアポを午前に寄せた。
レジスには、事前に許可を取った。
「最後だけね」と、あの子は言った。
……知らなかった。
あの子が、そんなことを思っていたなんて。
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「社長」
じえいが、小声で言った。
「なんだ」
「泣いてます?」
「泣いてない」
「泣いてますよね」
「泣いてない」
「自分も泣いてるっす」
……そっちは、泣いていた。
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「ドンナは」
「泣いておりませんわ」
即答だった。
「本当か」
「本当ですわ」
「そっち向いてるけど」
「壁を見ておりますの」
「……何か面白いのか、その壁」
「大変、興味深いですわ」
嘘が、下手だった。
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帰り道、三人とも、あまり喋らなかった。
駅までの道で、じえいが一度だけ言った。
「あの子、すごいっすね」
「そうだな」
「自分、あんなふうに笑えないっす」
「お前は、いつも笑ってるだろ」
「あれ、たぶん、顔だけっす」
珍しく、静かな声だった。
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その夜、PON子が帰ってきた。
「ただいまなのだ」
「おかえり」
「今日、笑うの練習したのだ」
「そうか」
「むずかしかったのだ」
あの子は、そう言った。
「でも、できたのだ」
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「よかったな」
「うん」
「疲れたか」
「つかれたのだ」
PON子は、そう言って、ソファに座った。
それから、ふと、こう聞いた。
「パパ、今日、どこにいたのだ?」
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……気づいていた。
「散歩だ」
「そうなのだ?」
「そうだ」
「ふうん」
あの子は、それ以上は聞かなかった。
でも、たぶん、分かっていた。
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「ねえ、パパ」
「なんだ」
「見ててくれたのだ?」
僕は、答えられなかった。
PON子は、こちらを見ていた。
その顔が、少し笑っていた。
……さっき、先生に褒められた笑い方だった。
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