第97話:数字が動いた
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その週の報告は、いつもと違った。
京極は、資料の一枚目を見た時点で、それに気づいた。
継続率のグラフが、初めて下を向いていた。
「これは」
「先週から、下がり始めています」
担当役員が、そう答えた。
「どのくらい」
「三か月継続率で、六割から、五割七分です」
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三ポイント。
小さい数字だった。
「誤差の範囲か」
「その可能性もあります」
役員は、そう答えた。
「ただ、この一年、一度も下がったことはありません」
「一度も?」
「はい」
京極は、資料をめくった。
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「企業向けは」
「動いていません」
役員は、そう答えた。
「無傷か」
「無傷です」
「当然だな」
京極は、そう言った。
「最初から、分けてある」
「はい。サービス名も、契約体系も、データの扱いも」
「個人向けで何が起きても、飛び火しない構造だ」
「その通りです」
「なら、痛くはないな」
役員は、少し間を置いた。
「痛みは、そこにはありません」
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個人向けの、他の数字も見た。
新規登録数は、まだ伸びていた。
問い合わせ件数も、増えている。
利用時間の平均も、大きくは変わっていない。
変わったのは、継続率だけだった。
「離脱している層は」
「分析中です」
「見当は」
「……家族と同居している層に、集中しています」
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京極は、そこで少し目を細めた。
「本人ではなく」
「はい」
「家族が解約させている、ということか」
「そう見えます」
役員は、そう答えた。
「先月から、家族からの問い合わせが、また増えていまして」
「内容は」
「以前と同じです。ただ、件数が三倍になりました」
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「原因は」
「報道かと」
迷いのない答えだった。
京極は、少し黙った。
「あれが、効いているのか」
「効いていると思われます」
「二分のニュースが?」
「二分ではありません」
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役員は、別の資料を出した。
記事の一覧だった。
「最初の報道から、四か月です」
「うん」
「その間に、関連記事が二百本を超えています」
「二百」
「はい」
京極は、その数字を見ていた。
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「一本一本は、小さいです」
役員は、そう続けた。
「ですが、途切れていません」
「途切れない」
「はい。毎週、必ず何かが出ています」
「誰が書いている」
「様々です。同じ媒体ではありません」
その言い方に、京極は少し引っかかった。
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「元を辿ると、どこに行き着く」
「最初の報道です」
「それだけか」
「はい」
「四か月前の、二分のニュースか」
「そうなります」
京極は、椅子にもたれた。
「……厄介だな」
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彼が厄介だと言ったのは、感情の話ではなかった。
構造の話だった。
一つの大きな記事なら、対応できる。反論を出し、訂正を求め、場合によっては法的に動く。
だが、これは違う。
二百本の小さな記事に、一つずつ反論することはできない。
しかも、そのどれもが、元の報道を引用しているだけだ。引用元は正確で、内容にも誤りがない。
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「反論できる部分は」
「ほとんどありません」
役員は、そう答えた。
「なぜだ」
「効果については、こちらに有利なデータが出ています。ですが、報道でも、その点は触れられています」
「両論併記か」
「はい」
「それで?」
「批判されているのは、別の点です」
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「言え」
「歯止めがない、という点です」
京極は、その言葉を聞いて、少し止まった。
「歯止め」
「はい。使いすぎた時に、警告や制限が一切ない、という指摘です」
「他社は、あるのか」
「一部にあります」
役員は、そう答えた。
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「業務用のサービスでは、長時間利用時に休憩を促す機能があります」
「あれは、労務管理の話だろう」
「そうです」
「同じではない」
「同じではありません」
役員は、認めた。
「ですが、外から見ると、同じに見えます」
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京極は、しばらく資料を見ていた。
「対応案は」
「三つ用意しました」
「言え」
「一つ目は、反論の記事を出すことです」
「効果は」
「限定的かと」
「なぜ」
「反論する内容が、こちらにないためです」
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「二つ目は」
「媒体への働きかけです」
役員は、少し言いにくそうにした。
「どういう意味だ」
「広告出稿を通じた、関係の構築です」
京極は、その言葉を、しばらく聞いていた。
「黙らせろ、ということか」
「そこまでは、申し上げていません」
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「言え」
「……そうなります」
役員は、そう認めた。
「実効性は」
「一部の媒体には、効くと思われます」
「一部か」
「はい。今回、記事を出している媒体は、二百近くあります。全てを押さえることはできません」
「では、意味がないな」
「……はい」
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京極は、そこで一度、目を閉じた。
昔なら、この手は使えた。
媒体の数が限られていた時代なら、主要な数社を押さえれば、話題は消えた。
だが、今は違う。
個人が書き、AIが記事を生成し、それが自動的に配信される。
押さえるべき相手が、存在しない。
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「三つ目は」
「機能の追加です」
役員は、そう言った。
「機能?」
「利用時間の警告機能です。一定時間を超えた場合に、休憩を促す表示を出す」
京極は、少し眉を上げた。
「継続率が落ちるぞ」
「落ちます」
「どのくらい」
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「試算では、五パーセントから八パーセントです」
「大きいな」
「大きいです」
「では、なぜ提案する」
役員は、少し間を置いた。
「批判の根拠が、なくなるためです」
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京極は、その言葉を、少し考えた。
「批判されているのは、歯止めがないことだったな」
「はい」
「歯止めを作れば、批判は消えるか」
「消えないと思います」
あっさりした答えだった。
「では、意味がない」
「意味は、あります」
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「言え」
「批判の焦点が、移ります」
役員は、そう答えた。
「移る?」
「はい。今は、何もしていないことが批判されています。機能を入れれば、その機能が十分かどうかという議論になります」
「議論の土俵が変わるということか」
「そうです」
京極は、少しだけ、感心した。
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「誰の案だ」
「私です」
「そうか」
彼は、それだけ言った。
褒めはしなかった。
だが、悪くない案だと思った。
批判を消すことはできない。だが、批判の質を変えることはできる。
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「導入した場合、数字はどうなる」
「短期では、落ちます」
「長期では」
「回復すると見ています」
「根拠は」
「離脱の主因が、家族による解約だからです」
役員は、そう説明した。
「機能があれば、家族の懸念が下がります。解約の圧力も、減るかと」
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「つまり、家族向けの機能か」
「実態としては、そうです」
「利用者のためではないな」
「……はい」
京極は、少し笑った。
「正直だな」
「事実ですので」
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「やれ」
あっさりした指示だった。
「よろしいのですか」
「五パーセントなら、許容範囲だ」
京極は、そう答えた。
「ただし、条件がある」
「はい」
「警告は、表示だけにしろ」
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「表示だけ、と申しますと」
「制限はかけるな」
京極は、そう言った。
「使い続けたい者が、使い続けられる状態を保て。休憩を促すのは構わないが、遮るな」
「……承知しました」
「それなら、離脱は最小限で済む」
役員は、それを記録した。
記録しながら、少しだけ、手が止まった。
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「一点、確認してもよろしいですか」
「なんだ」
「その設計ですと、実効性はほとんどありません」
「知っている」
即答だった。
「……」
「批判の根拠を消すのが目的だ。実効性は、目的ではない」
役員は、答えなかった。
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京極は、その沈黙に気づいていた。
だが、説明する気はなかった。
説明したところで、この男は納得しないだろう。
納得しないまま、指示には従う。それでいい。
彼が求めているのは、同意ではなく、実行だった。
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「他に、報告は」
「一点、ございます」
「言え」
「先週から、別の話題が出始めています」
役員は、そう言った。
「別?」
「はい。利用者による、個体への損壊事案です」
京極の手が、止まった。
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「損壊」
「はい。専用の体をつけたプランで、複数件」
「うちの製品か」
「うちが提供した個体です。ただし、行為者は利用者です」
「保証の対象外だな」
「対象外です」
「では、問題ない」
「……法的には」
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役員は、そこで言葉を選んだ。
「ただ、報道された場合、印象は良くありません」
「印象か」
「はい」
「実害は」
「今のところ、ありません」
京極は、少し考えた。
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「なぜ、そういうことが起きる」
「分析中です」
「見当は」
役員は、少し言いにくそうにした。
「……仮説としては、応答の設計が関係している可能性があります」
「どういうことだ」
「否定しないよう調整されているため、利用者の行為に対して、抵抗や拒否を示しません」
「それが、どうした」
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「抵抗されないため、行為が続く可能性がある、と」
京極は、その言葉を聞いて、しばらく黙っていた。
「それは、こちらの責任か」
「法的には、違います」
「では、誰の責任だ」
「行為者です」
「そうだろう」
間を置かなかった。
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「ナイフを売った者が、刺した者の責任を負うか」
「負いません」
「同じことだ」
京極は、そう言った。
「……ただ、ナイフには用途があります」
役員が、そう返した。
珍しく、食い下がった。
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「何が言いたい」
「ナイフは、切るための道具です。刺すためのものではありません」
「うん」
「ですが、あの応答設計は」
役員は、そこで一度、息を吸った。
「抵抗しないことが、機能として組み込まれています」
部屋が、静かになった。
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京極は、その男を見ていた。
「お前は、あれが虐待を誘発していると言いたいのか」
「そこまでは、申し上げていません」
「では、何を言っている」
「因果関係は、分かりません」
役員は、そう答えた。
「ただ、無関係だと言い切れる根拠も、こちらにはありません」
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京極は、しばらく黙っていた。
それから、こう聞いた。
「調べるか」
「え」
「調べるか、と聞いている」
「……調べれば、何か出るかもしれません」
「出たら、どうする」
役員は、答えられなかった。
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「出たら、直すのか」
京極は、そう続けた。
「直せば、継続率が落ちる」
「……はい」
「どのくらい落ちるかは、分からない。五パーセントで済むかもしれないし、半分になるかもしれない」
「はい」
「それでも、調べるか」
役員は、しばらく黙っていた。
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「……調べるべきだと、思います」
小さい声だった。
だが、はっきりしていた。
京極は、その答えを聞いて、少し意外そうな顔をした。
「理由は」
「知らないままでいるのは、経営判断として不健全かと」
「経営判断か」
「はい」
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その言い方が、少し可笑しかった。
この男は、たぶん、別のことを考えている。
人が壊れているとか、AIが壊されているとか、そういうことを。
だが、それを言えば通らないと分かっている。だから、経営の言葉に翻訳して出してきた。
……悪くない。
京極は、そう思った。
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「調べろ」
「よろしいのですか」
「調べるだけならな」
彼は、そう答えた。
「結果が出たら、そこで判断する」
「……承知しました」
「ただし、外には出すな」
「はい」
「内部の資料として保持しろ」
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役員は、それを記録した。
これで、この議題は終わりだった。
継続率の低下。警告機能の追加。損壊事案の内部調査。
全て、処理された。
少なくとも、記録の上では。
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会議が終わって、京極は次の予定に向かった。
廊下を歩きながら、彼は、さっきの数字を思い出していた。
六割から、五割七分。
三ポイント。
……四か月かけて、三ポイントか。
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遅い、と彼は思った。
あの報道から四か月。二百本の記事。政府の調査。それだけ積み上げて、三ポイント。
効率が悪すぎる。
自分なら、もっと早く動かす。
だが、と彼は思い直した。
止まらないのだ、これは。
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二百本の記事は、一本ずつは小さい。
だが、途切れない。
誰かが書き、それを別の誰かが引用し、また別の誰かが書く。
押さえるべき相手がいない。
消すべき火元もない。
……水が、染みてくるようなものだ。
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エレベーターの中で、彼は端末を開いた。
次の会議の資料が入っていた。
宇宙開発の進捗報告だった。
彼は、AIコンパニオンの件を、そこで一度、脇に置いた。
だが、完全には消えなかった。
三ポイント、という数字が、頭の隅に残っていた。
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初めて下を向いたグラフ。
あれは、たぶん、止まらない。
止め方を、彼は知らなかった。
これまで、そういう事態に遭遇したことがなかったからだ。
問題が起きれば、解決してきた。金で、技術で、あるいは人事で。
だが、これは、解決すべき問題の形をしていなかった。
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