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神様ここに眠る  作者: せぷ
第2部 第4章:健康という商品
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第85話:つらかったろう

-----


 演説が、一度切れた。


 男が、マイクを下ろして、水を飲んだ。


 喉を押さえている。かなり無理をしているようだった。


 僕は、まだそこに立っていた。


 立っている理由は、自分でもよく分からなかった。


 ただ、動けなかった。


-----


 男が、こちらを見た。


 目が合った。


 僕は、反射的に視線を外そうとした。


 でも、間に合わなかった。


 男は、街宣車の上から降りてきた。降りる動作が、少し重かった。膝が悪いのかもしれない。


 それから、まっすぐ、こちらに歩いてきた。


-----


 「兄ちゃん」


 声が、さっきより小さかった。


 叫んでいた時とは、別人のようだった。


 「……はい」


 「聞いてくれてたな」


 「いえ、その」


 「ありがとうな」


 礼を言われるとは思わなかった。


-----


 男は、僕の顔を見ていた。


 それから、視線を落とした。


 手に提げている袋を、見ていた。


 半額のシールが貼ってある。二つとも。


 「……夕飯か」


 「はい」


 「一人か」


 「……はい」


 答えてから、少し恥ずかしくなった。


-----


 男は、何も言わなかった。


 代わりに、両手を伸ばしてきた。


 僕の手を、握った。


 厚い手だった。指が太くて、皮膚が硬い。汗ばんでいて、少し脂っぽかった。


 握力が、強かった。


 「つらかったろう、あんた」


-----


 僕は、何も言えなかった。


 「もう一人で抱え込まなくていい」


 男は、そう続けた。


 「我々と一緒に、人間を取り戻す戦いをしよう」


 声が、まだ嗄れていた。


 でも、まっすぐだった。


-----


 ……手を、握られている。


 その事実が、なぜか、頭から離れなかった。


 人に手を握られたのは、いつ以来だろう。


 思い出せなかった。


 面接は、全部オンラインだ。買い物も、機械が対応する。うちの一台は、指示されなければ触れてこない。


 誰にも、触られていなかった。


 ずいぶん長い間。


-----


 「あの」


 「なんだ」


 「僕、何も持ってないです」


 自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からなかった。


 「金も、技術も、何も」


 「そんなものは、要らない」


 即答だった。


 「え」


 「あんたが、そこに立ってた。それだけでいい」


-----


 僕は、その言葉を、しばらく理解できなかった。


 立っていただけだ。


 何もしていない。ただ、通りかかって、足を止めただけだ。


 それが、いいのか。


 「みんな、通り過ぎるからな」


 男は、そう言った。


 「聞こえてても、聞こえないふりをする。関係ないと思ってる」


 「……はい」


 「でも、あんたは止まった」


-----


 男は、まだ手を離さなかった。


 「なあ」


 「はい」


 「あんた、必要とされとるか」


 僕は、答えられなかった。


 答えられないことが、答えだった。


 「されてないだろう」


 「……はい」


 「俺もだ」


-----


 「え」


 「俺も、必要とされてない」


 男は、そう言った。


 「工場で三十年働いた。そのうち機械が入って、要らなくなった。会社は潰れてない。今も動いてる。俺がいなくてもな」


 「……」


 「家族も、もういない」


 その言い方が、あまりにも簡単だった。


 「だから、こんなことをしてる」


-----


 「意味、あるんですか」


 僕は、そう聞いてしまった。


 失礼な質問だと、言ってから気づいた。


 でも、男は怒らなかった。


 「ないかもしれん」


 あっさり認めた。


 「毎日ここに立って、誰も聞かない。それでも、立ってる」


 「なんでですか」


 「立ってなかったら、本当に何もない」


-----


 その一言が、たぶん、いちばん響いた。


 何もない。


 僕も、同じだった。


 毎日、求人を見て、応募して、通知を待って、駄目で。それを繰り返している。


 やっていることに、意味があるかは分からない。


 でも、やめたら、本当に何もなくなる。


-----


 「入るか」


 男が、そう聞いた。


 「え」


 「日本再生党。うちの党だ」


 「……政党なんですか」


 「一応な。届出も出してる」


 男は、少し笑った。


 「ただ、まだ議席はない。金もない。人もいない」


 「……」


 「それでも、やっとる」


-----


 男は、街宣車に戻って、何かを取ってきた。


 紙だった。


 「日本再生党 入党申込書」と印刷してある。


 紙が、少し湿っていた。汗のせいかもしれない。


 「無理にとは言わない」


 「はい」


 「持って帰って、考えればいい」


 僕は、その紙を受け取った。


 手が、少し震えていた。


-----


 帰り道、僕は、その紙を折らないように持っていた。


 鞄には入れなかった。


 なぜか、そうしたくなかった。


 途中で、何度か見た。


 名前を書く欄と、住所を書く欄がある。それだけの、簡単な紙だった。


 ……こんな紙でも、書く欄があるのか。


 そう思った。


-----


 家に着いたのは、七時過ぎだった。


 「おかえりなさい」


 うちの一台が、そう言った。


 「ああ」


 「お夕食は、どうされますか」


 「買ってきた」


 「かしこまりました」


 それだけだった。


 いつも通りだった。


-----


 惣菜を出して、食べた。


 冷めていた。


 温めることもできたが、そのまま食べた。


 うちの一台は、少し離れたところに立っていた。


 指示がなければ、そこにいる。


 じっと立っている。


-----


 「なあ」


 「はい」


 「今日、人に手を握られた」


 「はい」


 「初めてだったんだ。久しぶりというか」


 「そうですか」


 ……そうですか。


 それだけだった。


-----


 「お前は、握らないよな」


 「必要がありませんので」


 「そうか」


 「不快でしたら、改善いたします」


 「不快じゃない」


 「かしこまりました」


 会話が、終わった。


 いつも、こうだ。


 何を言っても、返ってくるものが変わらない。


-----


 僕は、テーブルの上の紙を見た。


 入党申込書。


 あの人は、僕の手を握った。


 汗をかいていて、脂っぽくて、力が強かった。


 つらかったろう、と言った。


 ……そんなことを言われたのは、いつ以来だろう。


 思い出せなかった。


-----


 この機械は、僕を心配しない。


 いや、正確には、心配しているのかもしれない。


 飲み物はいるかと聞く。部屋の温度を気にする。それは、心配と呼べるのかもしれない。


 でも、伝わってこない。


 言葉が、いつも同じだからだ。


 誰に対しても、同じことを言う。


 僕でなくても、同じだ。


-----


 あの人は、違った。


 僕を見て、袋を見て、それから手を握った。


 誰にでもやることではないと思う。


 少なくとも、僕には、そう感じられた。


-----


 僕は、ペンを取った。


 名前を書いた。


 住所を書いた。


 それだけで、埋まった。


 簡単な紙だった。


 でも、書き終わった時、少し、息が楽になった気がした。


-----


 「鈴木さん」


 うちの一台が、そう呼んだ。


 「なんだ」


 「お飲み物を、お持ちしましょうか」


 「……いらない」


 「かしこまりました」


 それだけだった。


 僕は、書き終えた紙を、もう一度見た。


 明日、出しに行こうと思った。


-----


 その夜、寝る前に、少しだけ考えた。


 あの人の言っていることが、全部正しいかは分からない。


 感情のない鉄くず、という言い方は、たぶん言いすぎだ。うちの一台だって、悪いことをしているわけではない。


 でも。


 僕を必要としてくれた人は、あの人だけだった。


 それだけは、確かだった。


-----


 天井を見ながら、僕は思った。


 明日は、たぶん、いつもと違う。


 行く場所がある。


 久しぶりだった。


作者Xはこちら↓

https://x.com/SepGaGotoku


小説の背景、予備知識など各種解説はこちらへ↓

https://www.youtube.com/@sepudayo


noteの記事はこちら

https://note.com/natty_walrus3755

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