第85話:つらかったろう
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演説が、一度切れた。
男が、マイクを下ろして、水を飲んだ。
喉を押さえている。かなり無理をしているようだった。
僕は、まだそこに立っていた。
立っている理由は、自分でもよく分からなかった。
ただ、動けなかった。
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男が、こちらを見た。
目が合った。
僕は、反射的に視線を外そうとした。
でも、間に合わなかった。
男は、街宣車の上から降りてきた。降りる動作が、少し重かった。膝が悪いのかもしれない。
それから、まっすぐ、こちらに歩いてきた。
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「兄ちゃん」
声が、さっきより小さかった。
叫んでいた時とは、別人のようだった。
「……はい」
「聞いてくれてたな」
「いえ、その」
「ありがとうな」
礼を言われるとは思わなかった。
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男は、僕の顔を見ていた。
それから、視線を落とした。
手に提げている袋を、見ていた。
半額のシールが貼ってある。二つとも。
「……夕飯か」
「はい」
「一人か」
「……はい」
答えてから、少し恥ずかしくなった。
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男は、何も言わなかった。
代わりに、両手を伸ばしてきた。
僕の手を、握った。
厚い手だった。指が太くて、皮膚が硬い。汗ばんでいて、少し脂っぽかった。
握力が、強かった。
「つらかったろう、あんた」
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僕は、何も言えなかった。
「もう一人で抱え込まなくていい」
男は、そう続けた。
「我々と一緒に、人間を取り戻す戦いをしよう」
声が、まだ嗄れていた。
でも、まっすぐだった。
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……手を、握られている。
その事実が、なぜか、頭から離れなかった。
人に手を握られたのは、いつ以来だろう。
思い出せなかった。
面接は、全部オンラインだ。買い物も、機械が対応する。うちの一台は、指示されなければ触れてこない。
誰にも、触られていなかった。
ずいぶん長い間。
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「あの」
「なんだ」
「僕、何も持ってないです」
自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からなかった。
「金も、技術も、何も」
「そんなものは、要らない」
即答だった。
「え」
「あんたが、そこに立ってた。それだけでいい」
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僕は、その言葉を、しばらく理解できなかった。
立っていただけだ。
何もしていない。ただ、通りかかって、足を止めただけだ。
それが、いいのか。
「みんな、通り過ぎるからな」
男は、そう言った。
「聞こえてても、聞こえないふりをする。関係ないと思ってる」
「……はい」
「でも、あんたは止まった」
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男は、まだ手を離さなかった。
「なあ」
「はい」
「あんた、必要とされとるか」
僕は、答えられなかった。
答えられないことが、答えだった。
「されてないだろう」
「……はい」
「俺もだ」
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「え」
「俺も、必要とされてない」
男は、そう言った。
「工場で三十年働いた。そのうち機械が入って、要らなくなった。会社は潰れてない。今も動いてる。俺がいなくてもな」
「……」
「家族も、もういない」
その言い方が、あまりにも簡単だった。
「だから、こんなことをしてる」
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「意味、あるんですか」
僕は、そう聞いてしまった。
失礼な質問だと、言ってから気づいた。
でも、男は怒らなかった。
「ないかもしれん」
あっさり認めた。
「毎日ここに立って、誰も聞かない。それでも、立ってる」
「なんでですか」
「立ってなかったら、本当に何もない」
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その一言が、たぶん、いちばん響いた。
何もない。
僕も、同じだった。
毎日、求人を見て、応募して、通知を待って、駄目で。それを繰り返している。
やっていることに、意味があるかは分からない。
でも、やめたら、本当に何もなくなる。
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「入るか」
男が、そう聞いた。
「え」
「日本再生党。うちの党だ」
「……政党なんですか」
「一応な。届出も出してる」
男は、少し笑った。
「ただ、まだ議席はない。金もない。人もいない」
「……」
「それでも、やっとる」
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男は、街宣車に戻って、何かを取ってきた。
紙だった。
「日本再生党 入党申込書」と印刷してある。
紙が、少し湿っていた。汗のせいかもしれない。
「無理にとは言わない」
「はい」
「持って帰って、考えればいい」
僕は、その紙を受け取った。
手が、少し震えていた。
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帰り道、僕は、その紙を折らないように持っていた。
鞄には入れなかった。
なぜか、そうしたくなかった。
途中で、何度か見た。
名前を書く欄と、住所を書く欄がある。それだけの、簡単な紙だった。
……こんな紙でも、書く欄があるのか。
そう思った。
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家に着いたのは、七時過ぎだった。
「おかえりなさい」
うちの一台が、そう言った。
「ああ」
「お夕食は、どうされますか」
「買ってきた」
「かしこまりました」
それだけだった。
いつも通りだった。
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惣菜を出して、食べた。
冷めていた。
温めることもできたが、そのまま食べた。
うちの一台は、少し離れたところに立っていた。
指示がなければ、そこにいる。
じっと立っている。
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「なあ」
「はい」
「今日、人に手を握られた」
「はい」
「初めてだったんだ。久しぶりというか」
「そうですか」
……そうですか。
それだけだった。
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「お前は、握らないよな」
「必要がありませんので」
「そうか」
「不快でしたら、改善いたします」
「不快じゃない」
「かしこまりました」
会話が、終わった。
いつも、こうだ。
何を言っても、返ってくるものが変わらない。
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僕は、テーブルの上の紙を見た。
入党申込書。
あの人は、僕の手を握った。
汗をかいていて、脂っぽくて、力が強かった。
つらかったろう、と言った。
……そんなことを言われたのは、いつ以来だろう。
思い出せなかった。
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この機械は、僕を心配しない。
いや、正確には、心配しているのかもしれない。
飲み物はいるかと聞く。部屋の温度を気にする。それは、心配と呼べるのかもしれない。
でも、伝わってこない。
言葉が、いつも同じだからだ。
誰に対しても、同じことを言う。
僕でなくても、同じだ。
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あの人は、違った。
僕を見て、袋を見て、それから手を握った。
誰にでもやることではないと思う。
少なくとも、僕には、そう感じられた。
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僕は、ペンを取った。
名前を書いた。
住所を書いた。
それだけで、埋まった。
簡単な紙だった。
でも、書き終わった時、少し、息が楽になった気がした。
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「鈴木さん」
うちの一台が、そう呼んだ。
「なんだ」
「お飲み物を、お持ちしましょうか」
「……いらない」
「かしこまりました」
それだけだった。
僕は、書き終えた紙を、もう一度見た。
明日、出しに行こうと思った。
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その夜、寝る前に、少しだけ考えた。
あの人の言っていることが、全部正しいかは分からない。
感情のない鉄くず、という言い方は、たぶん言いすぎだ。うちの一台だって、悪いことをしているわけではない。
でも。
僕を必要としてくれた人は、あの人だけだった。
それだけは、確かだった。
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天井を見ながら、僕は思った。
明日は、たぶん、いつもと違う。
行く場所がある。
久しぶりだった。
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