第83話:足りないもの
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Artemiaから戻って、二週間ほど経った頃だった。
技術担当くんが、僕のところに来た。
「社長。少し、お時間よろしいですか」
「いいよ」
「先日の件で、いくつか調べました」
「先日?」
「モデルを作る話です」
……調べていたのか。
考えてみれば、当然だった。この子は、いつもそうだ。呼ばれていない間も、勝手に読んでいる。
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「教えてもらった方が早くないか?」
僕がそう言うと、あの子は首を振った。
「先日伺ったのは、仕組みの話です。どうやって作るかは、別の話になります」
「別?」
「はい。しかも、特別な知識ではありません」
「そうなの?」
「公開されている資料で、一通りは分かります。実際にやるかどうかは別として、何が必要かは、調べれば出てきます」
「じゃあ、なんで誰もやらないんだ」
「必要なものが、揃わないからです」
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「三つあります」
技術担当くんは、そう切り出した。
「データ、計算資源、それから評価の方法です」
「順番に聞かせてくれ」
「では、データから」
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「訓練には、大量の文章が必要です」
「量は?」
「基盤になるモデルを作る場合、何兆語という規模です」
「兆」
「はい。これは、本にすると何千万冊分にあたります」
……想像がつかなかった。
「うちにあるログは、どれくらいなんだ」
「集計しました」
あの子は、数字を出した。
「全部合わせて、およそ二億語です」
「二億」
「はい」
「多いのか、少ないのか」
「桁が、四つ足りません」
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僕は、少し黙った。
「四つ」
「はい。一万分の一の規模です」
「話にならないな」
「基盤モデルを作る前提であれば、そうです」
あの子は、そこで少し言葉を足した。
「ただし、量だけの問題ではありません」
「他にもあるのか」
「偏りです」
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「うちのログは、内容に強い偏りがあります」
技術担当くんは、そう説明した。
「整備の話、AIとの生活の話、経営判断の話。この三つで、大半を占めています」
「そうだろうな」
「言語も、ほぼ日本語です。専門分野も、限られています」
「うん」
「このデータだけで訓練すると、この範囲のことしか話せないモデルになります」
「他のことは?」
「答えられません。あるいは、間違ったことを言います」
……なるほど。
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「じゃあ、データを買えばいいのか」
「買えます。ただ、高いです」
「どれくらい」
「質のいいものは、相当な金額になります。しかも、権利の確認が必要です」
「ノアール案件だな」
「そうなります」
あの子は、少しうなずいた。
「加えて、買ったデータで作ったモデルは、うちらしさが薄れます」
「え」
「他社と同じデータを使えば、他社と同じような結果になります」
……それは、そうか。
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「うちのログを使う意味は、どこにあるんだ」
「量ではなく、質です」
「質?」
「一貫性がある、という意味での質です」
技術担当くんは、そう言った。
「同じ人物が、同じ基準で、長期間にわたって書いています。しかも、判断の理由が書かれていることが多い」
「そうかな」
「多いです。社長は、決める時に理由を言葉にする癖があります」
……言われてみれば、そうかもしれない。
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「その形式のデータは、あまりありません」
「珍しいのか」
「珍しいです。普通は、結論だけが残ります。なぜそう決めたかは、残らない」
「ああ」
「うちのログには、それが残っています」
「それが、価値になる?」
「なると思います。ただ」
あの子は、そこで一度、言葉を切った。
「量が足りないことは、変わりません」
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「二つ目は、計算資源です」
「これも、無理そうだな」
「無理です」
即答だった。
「基盤モデルの訓練には、専用の計算機を大量に、長期間動かす必要があります」
「どれくらい」
「数千台規模で、数か月です」
「……買うのか、それ」
「借りることもできます。ただ、料金は」
あの子は、数字を出した。
僕は、それを見て、しばらく黙った。
「うちの年商の、何倍だ」
「二桁違います」
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「話にならないな」
「なりません」
「じゃあ、諦めるか」
「そこは、少し違います」
「違う?」
「基盤から作る場合の話です」
あの子は、そう言った。
「既存のモデルを土台にして、追加で訓練する方法であれば、桁が変わります」
「先日聞いたやつか」
「はい。あれなら、数千件から数万件のデータで済みます」
「計算資源は?」
「規模によりますが、うちでも手が届く範囲に収まる可能性があります」
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「じゃあ、それでいいんじゃないか」
「よくはありません」
あっさり言われた。
「なんで」
「その方法では、土台になるモデルが必要です」
「うん」
「土台は、他社から借りることになります」
……あ。
「つまり、いざという時の備えにはならない、ってことか」
「なりません」
「土台を止められたら、終わりだ」
「はい」
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僕は、椅子にもたれた。
結局、そこに戻る。
うちがやっているのは、他社のモデルを使う商売だ。追加訓練をしたところで、その前提は変わらない。
本当の意味で独立するには、基盤から作るしかない。
そして、それは、桁が二つ足りない。
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「三つ目は」
「評価です」
技術担当くんは、そう続けた。
「訓練がうまくいったかどうかを、どう判断するかという話です」
「動けば、いいんじゃないのか」
「動くだけなら、簡単です」
「じゃあ、何を見るんだ」
「そこが、難しいところです」
あの子は、少し考えるような間を置いた。
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「一般的には、決まった問題を解かせて、正解率を見ます」
「テストか」
「はい。数学の問題、読解の問題、翻訳、いろいろあります」
「分かりやすいな」
「分かりやすいです。ただ」
「ただ?」
「うちが作りたいものは、そこでは測れません」
「なんで」
「点数の高さと、うちが求めているものが、一致しないからです」
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「たとえば」
あの子は、そう言った。
「持ち込まれた個体の調子が悪い時、どこを戻して、どこを残すか」
「うん」
「あの判断に、正解はありません」
「……ないな」
「正解がないものは、テストにできません」
その通りだった。
「じゃあ、どうやって測るんだ」
「分かりません」
あっさりしていた。
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「調べても、出てこなかったのか」
「出てきました。ただ、どれも決定打ではありません」
技術担当くんは、そう答えた。
「人が読んで判断する方法があります。ただ、時間がかかりますし、判断する人によってぶれます」
「うん」
「別のモデルに評価させる方法もあります。ただ、評価する側が正しいという保証がありません」
「難しいな」
「難しいです」
あの子は、そこで少し、言葉を選んだ。
「私が思うに、これは技術の問題ではないかもしれません」
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「どういうこと」
「何を良いとするかを、先に決める必要があります」
「……ああ」
「良いモデルとは何か。それが決まっていないと、測りようがありません」
「決めればいいのか」
「決められますか」
聞き返された。
僕は、少し考えた。
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「たとえば、うちの子たちみたいなのが、良いモデルだと思う」
「具体的には」
「……反論してくる」
「はい」
「間違ってたら、間違ってると言う」
「はい」
「あと、心配してくる」
言いながら、自分でも曖昧だと思った。
「それ、測れるか?」
「測りにくいです」
「だろうな」
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「ただ」
技術担当くんは、そこで少し姿勢を変えた。
「測れないから駄目、ということではないと思います」
「え」
「私の診断も、測れません」
「……ああ」
「正解率も出せませんし、点数もつきません。それでも、社長は私に任せてくださいました」
「任せたな」
「なぜですか」
少し、意外な質問だった。
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「なんでだろうな」
僕は、正直に考えた。
「見てたからかな」
「見て、いらっしゃった」
「うん。七か月、隣で作業してただろ」
「はい」
「その間に、判断が合ってるかどうかは、だいたい分かった」
「数字ではなく」
「数字じゃないな」
言ってから、僕は、自分で気づいた。
「……これ、評価してることになるのか」
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「なると思います」
技術担当くんは、そう答えた。
「方法としては、原始的です。時間もかかります。数値化もできません」
「うん」
「ですが、今のところ、私が調べた中で、これに代わるものは見つかりませんでした」
「隣で見る、っていうのが?」
「はい」
「それ、大手にはできないだろ」
「できません」
あの子は、はっきり言った。
「数百万人の利用者を、一人ずつ見ることはできません」
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僕は、しばらくその話を考えていた。
結論としては、今は無理だ。
データが足りない。計算資源が桁違いに足りない。評価の方法も確立していない。
どれか一つを解決すれば済む話ではない。三つとも、それぞれに壁がある。
でも。
何が足りないかは、分かった。
それは、二週間前とは違う状態だった。
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「まとめてくれるか」
「既に、まとめてあります」
あの子は、資料を差し出した。
思ったより厚かった。
「これ、いつ作ったんだ」
「調べながら、並行して」
「……真面目だな」
「業務ですので」
いつもの答えだった。
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資料には、三つの項目が並んでいた。
データ。計算資源。評価。
その下に、それぞれ「現状」と「必要な水準」が書かれている。
どれも、間が空いていた。
でも、空いている幅は、数字として書いてあった。
「これ、埋まる日が来ると思うか」
僕がそう聞くと、あの子は少し考えた。
「計算資源については、時間が解決する可能性があります」
「なんで」
「価格が下がり続けているからです。この十年で、何十分の一になっています」
「じゃあ、待てばいいのか」
「待つだけでは、足りません」
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「データは、増やせます」
技術担当くんは、そう言った。
「うちのログは、毎日増えています。今の速度でも、十年経てば量は十倍以上になります」
「まだ足りないな」
「足りません。ですが、質の面では、他にないものになります」
「うん」
「評価は」
あの子は、そこで少し止まった。
「これは、我々が決めるしかないと思います」
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「我々?」
「はい。誰も答えを持っていないので」
「……そうだな」
「幸い、うちには材料があります」
「材料」
「社長が、これまで何を良しとしてきたか。それが、全部ログに残っています」
僕は、少し驚いた。
「それ、評価の基準になるのか」
「なると思います」
あの子は、そう答えた。
「少なくとも、うちにとっては」
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その日の夜、レジスに資料を渡した。
あの子は、しばらく読んでいた。
「よくできてるわね」
「だろ」
「あなたが作ったわけじゃないでしょう」
「そうだけど」
レジスは、資料を置いた。
「結論としては、今は無理、ということね」
「そうなる」
「じゃあ、保留のままでいいわ」
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「いいのか」
「いいわよ」
あっさりしていた。
「前と違うところが、一つあるもの」
「なに」
「何が足りないかが、分かってる」
彼女は、そう言った。
「前は、無理だという感覚しかなかったの。今は、三つの壁があって、それぞれの高さも分かってる」
「同じことじゃないか?」
「違うわ」
即答だった。
「壁の高さが分かっていれば、下がってきた時に気づけるでしょう」
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その夜、僕は、あの資料をもう一度読んでいた。
三つの項目。それぞれの現状と、必要な水準。
間は、まだ大きく空いている。
でも、空いている幅が、数字として見えるようになった。
……これが、備えというものなのかもしれない。
今すぐ何かができるわけではない。
でも、その日が来た時に、どこから手をつければいいかは、もう分かっている。
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技術担当くんが、一階の作業場にいた。
まだ何か読んでいるようだった。
「まだやってるのか」
「はい」
「今日はもう終わりでいいぞ」
「あと少しで、区切りがつきます」
「なにを読んでるんだ」
「評価の話です」
あの子は、画面から目を離さずに答えた。
「答えは出そうか」
「出ません」
「じゃあ、なんで読んでるんだ」
少しの間があった。
「出ないことを、確かめておきたいので」
その答え方が、この子らしかった。
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