白金台教会人質事件 2/3
教会の敷地、規制線の手前でニコラはマセラティを止めた。赤色灯が乱反射している。周りの警官が唖然としている中、悠々とニコラはスーツについた埃を払い、ポケットから桜に鍵が交差するロゴの入ったライセンスを取り出し、軽く敬礼した。
「BPMA特務部隊HAUNDSのスフォルツァだ。上からの依頼でネゴシエーションを引き継ぐ。状況を教えてほしい」
ロゴを見たベテラン刑事が息を吞み、敬礼した。
「二名による犯行。逃げ遅れて人質に取られているのは若い女性と老夫婦です。日本語が通じない。英語はなんとか通じそうですが、イタリア語での交渉を希望しています」
「ベネ」
ニコラは扉に手をかける。革靴が石の床を叩く音が大きく響いた。硝煙のにおいはしない。血のにおいもしない。怒号も飛んでいない。ただ、静かだった。まだ、話は通じるラインだろう。日本の警察は相当優秀らしい。
「……武器は持っていないよ。シニョーレ・サンマルティーニ」
ニコラが両手を広げてみせる。穏やかな笑みは崩さない。敵対する気はないという意思を見せなければ、人質は救えない。
教会に取り残されているのは三名。若い女性と、高齢の夫婦のようだった。
話すのはイタリア語で。訛りのない、トスカーナの言葉だ。
「あなたも礼拝かな? 今日はとても良い天気だ……ゴキゲンになるのも無理はないね。例のものは持ってきたけど……その前に、少し世間話でもどうだろう。近くにカンノーリの美味しい店ができたんだ。持ってこさせようか」
両手を広げたまま、もう一歩近付く。
「……ふざけるな。無駄話に付き合う気はない。要求はひとつ、例の砂時計だけだ。これ以上近付くと……この婆さんの命はないぞ」
ジュスティーノがナイフを高齢の女性に翳す。女性はひぃ、と小さな悲鳴を上げながら震えた。
「やめなさい。人質なら、私が代わりになります」
若い女性が立ち上がる。芯の強そうな、真っ直ぐな瞳をしている。肩までの黒髪はきれいにひとつに束ねられている。ステンドグラスから伸びる光が艶やかな黒髪にあたる。
「――っ」
きれいだ、と思った。
ニコラは大勢の人間を見てきた。いざ自らの命が危険に晒された時に、保身に走るのがほとんどだった。並べられる言い訳。阿諛追従。罵声。吐き気を催すような愚劣。
自己犠牲とは違うものだった。ただ、自らの命を投げ捨てるのではなく、奪わせないための献身。
人間が動くのは、いつだって欲望が根底にある。彼女にあるのは、欲望ではない何かだった。
思わず息を呑んだ。こんな人間を見たのは、初めてかもしれない。
「交渉人さん。そのおばあさん、心臓に疾患があるんです。さっき不整脈を確認しました。早く外に――」
「誰が勝手に話していいと言った!」
ジュスティーノの平手が女性の頬を打った。乾いた音が響く。女性は悲鳴を上げることなく、黙って下を向いた。
「美しい女性にそんな暴力なんて感心しないな。最近のマフィアはカタギに手を出すのか?」
「だったらなんだと言うんだ。お前も同じだろう、スフォルツァ」
「我が一族をご存じとは、光栄だな。今後ともPMCのスフォルツァ商会をご贔屓に。さて、話を戻そうか。今私の犬が砂時計を咥えてここまで運んできているところだ。国道一号線が混んでいないことを祈ってくれ」
晴臣の拠点からBPMA市ヶ谷本部まではおよそ十五分。そこから白金台まで車を飛ばせば約二十分。迅のことだ。無駄にサイレンを鳴らして道を開けさせるだろう。教会に足を踏み入れて、体感で五分――あと十五分は粘りたい。
「あの砂時計、オークションの品だったみたいだね。私も美術品には目がないんだ。他にはどういったコレクションを?」
「お前には関係のない話だろう?」
「あるとも。我々は砂時計を提供する側だよ、シニョーレ・サンマルティーニ」
「上からの指示だ」
「ほう? ドン・マルテッロにそんな趣味がお有りとはね。ぜひ一度美術談義をしてみたいものだが――そろそろそのお嬢さんを離す気にならないかね。私のマセラティに駐禁を貼られる前に、彼女を助手席に座らせたいのだが」
バン、と乱暴に教会の扉が開いた。ジュスティーノは咄嗟にナイフを音のする方に向けた。ニコラは振り返ることもしない。
「遅い。どこで道草を食ってマーキングしてたんだ、この駄犬」
「うるせぇな、文句は運転した二条のおっさんに言え」
迅は流暢な英語で喋りながら砂時計の入ったアタッシュケースを広げて見せた。
「朝からパーティーなんて気前いいじゃねえか。ご希望の品のデリバリーだ、歓迎しろよ。ただ、場所が悪ィな。俺ん家来ねぇか」
「それをこっちに寄越せ」
「お嬢さんが先だ」
ニコラは静かに思考を巡らせる。
ジュスティーノとの距離はおよそ一メートル。呼吸が荒く、視線が落ち着かないように見える。時折手が痙攣する。僅かに呼気にアルコールの臭いがした。アルコール依存症の離脱症状か。なるほど、これ以上の交渉は不可能――次に奴が動いたタイミングで、確保する。




