白金台教会人質事件 3/3
一歩、距離を詰める。
「――交渉決裂だな、スフォルツァ!」
「――っ!」
女性がぎゅっと目を閉じる。
ナイフが振り下ろされる。その間、0.5秒。
胸元に隠したベレッタを抜く。構える。狙う。撃つ。同時に迅がジュスティーノの足元に杭を投げ込んで走り出す。
手元のナイフが弾き飛ばされ宙を舞い、鋭い音を立てて床に落ちた。
「確保ぉッ!」
迅は肩を掴んで床に組み敷く。ジュスティーノは口を金魚のようにパクパクとさせながら、青い顔をしていた。
「Bastardo! Che cazzo hai fatto a Giustino!?」
(テメェ! ジュスティーノに何しやがった!?)
ニコラは顔も向けず、冷徹な表情のまま銃口だけ向け、弾を放った。
何も言わずに正確に眉間に二発。男は糸の切れた人形のように倒れた。
「何を、使った」
「あァ? ここは日本だ、日本語喋りなオッサン。アレは普通の人間には効かない、特殊な術式を刻んだもんだよ」
にやりと笑いながら迅はジュスティーノの手首に特殊合金の手錠を嵌める。
「一〇時三七分、ジュスティーノ・サンマルティーニ、人質強要罪及び住居侵入、あとなんか色々! 逮捕する」
「なんだい、それは」
「罪状多すぎんだよこのオッサン。残念だがマトモなムショには行けねえぞ。市ヶ谷で楽しいティータイムが待ってるぜ」
「……やれやれ。そんなむさ苦しいティータイム、私は遠慮したいものだね。マエストロ、終わったよ。残念ながらアニメタイムは終わってしまったがね」
『いや、いい。ご苦労だったね、ニコラ。BPMAの車両を手配してるよ。そのまま管理局の医療棟に――』
「ノン、さっき私はこう言ったはずだよ」
ニコラは着ていたジャケットを腰を抜かして座り込んでいる女性の肩にかけた。
「私の助手席に乗せると、ね。念のため一緒に診てもらいに行こうか。その後は……一緒にエスプレッソでもどうかな?」
「あ……」
「名前を訊いても?」
「な、七瀬……恵、です」
呆気にとられたように、恵はニコラを見つめていた。
「メグ! Il suo nome suona bellissima per me!」
(なんて素敵な名前なんだ!)
「おい、マセラティだかフェラーリだか知らねえが、なんでもいいから俺も乗せろ。市ヶ谷に返しに行かないといけねぇんだ、こいつを」
迅は忌々しそうにアタッシュケースを掲げた。
「残念ながら二人乗りでね」
「テメェ……駐禁切るぞ……」
「君にそんな権利ないだろ。それよりメグ、早く医療棟へ行こうか」
「ふっざけんな、俺は仕事してんだぞ!」
「私だって仕事だよ、ragazzo……ciao!」
ばたん、とドアを閉めてエンジンをかける。唸るような低い音が響いた。静かにアクセルを踏み込んで、教会を後にする。迅は最後までなにか喚いていた。
***
東京タワーの残骸を右に見ながら、車を走らせる。エアコンから暖かい風が流れて、香水の柑橘にほんの少しだけ硝煙のにおいが乗った。カーステレオからは朗々とテノールの歌声が響いている。
「……トゥーランドットですか」
「おや。良く知ってるね」
誰も寝てはならぬ。オペラにも明るいとは思わなかった。胆力があるだけではない。教養がある。Vinceròと伸びやかな声が響いた。そうだ、勝者は――。
「悪趣味ですね」
テノールはブツッとそこで途切れた。ステレオに異常はない。ただ、ニコラの周囲からふっと音が消えたのだ。
「……へ?」
頭が真っ白になった。そんなはずはない。完璧な出会い、完璧なエスコート。一体彼女は何が不満だというのだろう。
「助けていただいたのは感謝しています。あなたは私の命の恩人です。でも、先ほどの方も同じ方向に向かうなら、一緒に行っても良かったんじゃないですか?」
正論だ。確かに後部座席にはアサルトライフルを積んでいるが、迅ひとりくらいなら乗れなくなかった。
だが、迅を乗せたら恵と二人っきりにはなれない。魔道具を両手で抱えた相棒が目の前にいるのに、口説けるわけがない。気が散る。
「市ヶ谷とおっしゃいましたけど……」
「境界線事象管理局――公には表に出てこない、公安の組織だよ。私たちはその一部だ。そして、悪魔と日々戦っている。東京に住んでいるなら、君も知ってるだろう」
ニコラは視線を目の前の道に戻す。信号が赤になった。ついていない。
「毎日瘴気予報を出しているところ、ですよね。私も詳しくは分かっていなくて……東京の大学病院で研修医になって初めて、知ったんです」
「医者、だったのか。君」
ニコラは目を丸くした。
「まだ、研修期間ですけど。だから、さっき教会で一緒になったおばあさんも見過ごせなくて」
「……そうか」
もっと知りたい、と思った。ニコラにとっての日常は、謀略と暴力に満ちていた。自らの意思で人の命を救うために立ち上がる人を、初めて見たのだ。眩しかった。
――やはり、彼女に触れてはいけないのか。
「公安の方の医療ケア、勉強させていただくいい機会ですね」
「真面目なんだね、メ……君は」
「変わってる、とは言われます」
「そんなことはないと思うけどね。私には、素敵な人に見えるけど。いや、これは本心で――参ったな」
上手く言葉が出てこない。息をするように出てくる褒め言葉が出てこなかった。美しい、素敵だ、いくつ言葉を並べても正しいとは思えない。
「……ふふっ」
恵は小さく笑った。その顔がとても穏やかで、陽だまりに咲いている小さな花のようで、ニコラは言葉を失った。
「俺、は」
「はい?」
「ニコラ・ガブリエーレ・スフォルツァ。俺の名前。良かったら、覚えててくれると、嬉しい」
情けないくらいに小さな声だった。それでも恵は、ニコラさん、と柔らかい声で呼んでくれたのだ。




