白金台教会人質事件 1/3
七瀬恵は聖ルカ清心医科大学付属病院の研修医だ。日曜日の朝、彼女は教会に行くのを欠かさない。そこまで家族は熱心な信徒だったわけではない。日曜日の朝に教会へ行き、その流れで喫茶店でモーニングを揃って食べるのが、休日のルーティンになっていた。東京で一人暮らしを始めた今も、この習慣は変えられなかった。この後、本屋さんで参考書を買って、近くのカフェで本を広げながら美味しいコーヒーを楽しもうかな、そんなことを考えていた。
恵がちょうど立ち上がったその時――教会の扉が乱暴に開く音がした。
***
一条晴臣の日曜日は子供向けのアニメ番組から始まる。定番の決まり文句。同じ展開。衣装は違えど、基本は変わらない。晴臣はじっとテレビを見つめていた。視線はキャラクターと言うより、表示されている時間表示を注視しているようにも見えた。ストーリーを追っているようには感じられない。まるで何かを確認するように、瞬き一つしなかった。
キッチンで迅が卵とベーコンを焼いている。ニコラは芳醇な香りがする方に視線を向けた。コーヒーメーカーからはぽたぽたと琥珀色の雫が落ちていた。
「なんでエスプレッソじゃないんだい?」
ニコラは冷蔵庫からリンゴを取り出し、カットしながら言う。背の高い男が二人キッチンに並ぶと、いくら広いタワマンの最上階の部屋と言えど、ぎゅうぎゅうになるほどに狭い。ため息が出る。
「文句言うならマシン自腹で入れろよ」
「そうする。ほたるは大丈夫かね」
「ああ、今日一日療養すれば明日には復帰できるだろ。あいつ、瘴気を取り込みやすいけど抜けるのも早いんだと」
「そうか、なら安心だね」
テーブルの上に皿を並べていく。男四人分。二条は結局、妻の待つ自宅に戻れないらしい。タブレット端末を片手にスマホを操作していた。
「――ああ、せやな。うん、うん。わかった。そっちは頼む」
晴臣は誰かと電話をしているようだった。少しだけいつもより表情が穏やかに見える。だが、視線はテレビの時間表示を見つめているままだった。
「ちゃんと食べてるし、寝てる。心配せんでも、次の会合の時に……うん、また」
「誰? なんか楽しそうにしてたけど。もしかして彼女とか」
迅はニヤニヤしながらトレイに載せたマグカップをテーブルに並べていく。
「いや、許嫁」
あっさりと晴臣は言った。
「いッ……ま、まあそうか。一条家、でかいもんな」
京都一条家は、安倍晴明を祖とする陰陽師の宗家だ。京都市内を裏から霊的に支配する一族であり、彼の右腕である二条貴紀もその枝の一つだ。許嫁がいてもなにも不思議なことはなかった。
家のしがらみなんて、そんなものだ。スフォルツァ家という金色の檻でフィクサーとして育てられたニコラは窮屈さをよく知っている。
パッ、とスクリーンの画面が魔法少女から都内の地図に切り替わる。大きな赤文字で「EMERGENCY」の文字が点滅した。
「――晴臣様。司令部からです」
「何事だよ、貴紀。全く、神聖なニチアサタイムに何をしてくれるのかね!」
見ていないくせに。晴臣はマグカップのコーヒーを傾ける。
「人質を取って立て籠もっているようですね。場所は旧白金台の教会です。犯人はマフィアのマルテッロ・ファミリーを名乗る男が二名」
「立て籠もりだぁ?」
迅が顔を上げる。その視線は鋭い。
「目的はなんだよ」
「前回我々が回収した『砂時計』です」
「なるほど、それでBPMAに出動要請が出たということか」
敵もなりふり構っていられないということだろう。何に使われるものなのかはニコラにはまだ掴めなかった。だが、それだけ『S級魔道具・灰の砂時計』というものが強力な何かを秘めているということは理解できた。ただの骨董品の収集と言うわけではなさそうだ。
「マルテッロ・ファミリー……この前の豪華客船にいた男か」
「ああ、ほたるの尻を触ったオッサン!」
ようやく迅は理解したようだった。
モニターに情報が流れてくる。ジュスティーノ・サンマルティーニ。ナポリを拠点にするマルテッロ・ファミリーの幹部だ。彼のIDはまだニコラのスーツのポケットの中に入れたままになっていた。
「ニコラ、交渉人として現場へ向かってくれ。迅は市ヶ谷本部で砂時計を受け取った後、合流。ジュスティーノは何か情報を持ってるようだね。殺さずに捕えて。あとは殺って構わない。民間被害は最小限に」
「Si、マエストロ」
「持っていくのか? ハッタリでもいいんじゃねえの」
「マフィアって意外と慎重なんだよ。実物がないと信じない。今人質は三人と出たけど、この何一つ関係ない無垢な三人の命を犠牲にしてでも、彼らはそれを得なければならない理由がある」
晴臣はマグカップを手で玩ぶ。
「なら幹部に喋ってもらえばいいだろ。口を割らせるなら、餌は本物の方がよく食いつくよ」
ニコラはプライベートルームに戻ると、きっちりと上までネクタイを締めて、ショルダーホルスターを装着する。ベレッタにマガジンをセットして、予備のマガジンをポケットに詰める。ジャケットを羽織り、最後に香水を一振りした。柑橘とスパイスの香りが表情を引き締めさせてくれる。私情は捨てろ。ただ目の前の任務にフォーカスする。
「俺が合流する前に片付けてくれると助かるけどな」
「任せてくれたまえ。君の手も、その砂時計も表に出さずに終わらせるよ」
軽薄そうな笑顔を滲ませると、迅は奇妙な顔をした。




