移送車両にて
遠海は水平線が曖昧に見えるほどの闇が広がっていた。ボートの小さな光がその闇を切り裂くように進んでいく。レーダーには何も映っていない。追っ手はいないようだった。
「このまま漁港に向かってくれ。車で東京まで戻れる手筈だ」
「Si、マエストロ。ほたる、顔色が悪いが……大丈夫か?」
「大丈夫……です。わたしのことは気にしないで、急いでください」
ほたるが青い顔をしながら、ケースを抱えている。
「ほたる君は本部に着いたらすぐに医療棟に向かいたまえ」
晴臣が通信機を操作する。
「僕から【白鳩】にすぐ受け入れしてもらうよう手配しておく」
「S級魔道具……初めて見た」
迅はケースを見ながらぼそりと呟いた。
「迅も初めてなのか」
ニコラが舵を握りながら言う。
「そうそうお目にかかれるようなシロモノではない……ってことか」
「魔道具の回収はBPMAのよくある仕事だけど、ここまで瘴気を放っているものは初めてだ。回収するもんは古文書だとか……あとは古いハードディスクとかもあるけど」
魔道具の種類にもよるが、神話の領域に入るようなものもある。そういったものは、少なくとも駆け出しのチームには任せない。確実に遂行できる、専門知識を持ったチームと連携するか、エリート部隊の物量で押し込む。BPMAはそういうやり方をしてきた。だからこそ、今回一番指揮官として歴の浅い晴臣にこの任務を任せたことが不思議でならなかった。
「これを管理しているのが遺物管理部門……だったか」
「ああ。俺たちは『倉庫』とか呼んでる。歴史的に重要な資料とか、研究価値のあるものなんかは遺し、保管する。ヤベェものは瘴気を抜いてから破壊する。そんなまどろっこしいことしないで全部破壊すりゃいいのにな」
晴臣は砂時計のケースをじっと見ながら黙って聞いていた。ガラスケースの中の砂は奇妙な色をして浮かんでいる。
「……私にはあんまり感じないけどほたるは感受性が強いのかね」
「体質……みたいなものです。こういうものの悪い気を引き寄せてしまう……というか」
「晴臣、そういうのってどうにかできねぇのか」
迅が顔を上げる。黒髪が海風に揺れた。
「僕は研究者じゃないから完全に制御させるようなことはできないよ。術式で多少抑えられる程度だ。僕の専門は攻撃と封印だから、浄化できるようなヒーラーに依頼するしかないんだ」
だから医療班に連絡したんだよ、と晴臣が苦い顔をして言った。
「それにしても……オークション主催者、何者だろうな。そんな危険物を美術品として出品したり……」
「魔道具だって知らなかった……じゃ、済まねえよ。どうせ関係者同士でやり合ってんだろ。ガチのマフィアが絡むくらいなんだ」
「EHC内部にも色々あるんだろう」
晴臣がどこか遠い目をして言った。
「色々……ね」
波音だけが響く。
夜の海が、小さなボートを呑み込もうとしていた。
***
ボートがゆっくりと岸壁に接岸する。エンジンが停止し、波の音だけが戻ってきた。
「――わかった、ほんまにごめん。しろたえのチーズケーキな。来週帰るから」
桟橋に立っていたのは二条貴紀だった。どこかに連絡しているようだった。
「貴紀」
「また連絡するから、じゃあ、切るで。おやすみ」
「……貴紀」
「申し訳ありません、晴臣様。ご無事でお戻りですね」
ただの通話にもかかわらずペコペコと礼をしていた二条は振り返ると眼鏡のブリッジを押し上げた。
「奥さんかい?」
「ええ、まあ……来週には帰ると、伝えましたけど」
「帰れるといいけどねぇ」
息をつきながら、晴臣はほたるから砂時計のケースを取り上げ、当たり前のように後部座席に乗り込んだ。
黒塗りのセダンだ。ナンバープレートには一条家の家紋だろうか、五芒星が描かれている。どう見てもマトモな車両ではない。
「ほたる君、ナビ頼むよ」
「おい晴臣。ほたるは……!」
「大丈夫です、迅さん。さっきよりは……よくなりましたから」
ほたるが青い顔をしながら小さく笑う。タブレットを取り出す手が僅かに震えていた。
何も言わずに、迅とニコラが後部座席に乗り込んだ。車内に重苦しい空気が流れ込む。
「監視カメラのない道を通ります。今地図を出しますので……宜しくお願いします」
ほたるが隣に座る二条に画面を見せて、小さく礼をした。二条は正面を見据えたまま、静かに車を発進させた。エンジン音が夜の静寂を裂く。
ラジオからは交通情報が流れていた。東名高速道、おおむね順調です――早めに帰れるなら好都合だ。ほたるの浴びた瘴気を早く緩和しないといけない。
『続いて、明日の東京の瘴気予報です。二十三区エリア、新宿結界から西は通常通りです。港区・品川区はやや濃いでしょう。お出かけの際はご注意ください』
ラジオは広告に移っていた。
「瘴気予報も当たり前のようになってきたね」
「精度が上がりましたよね。わたし、結構助かってるんですよ。わたしみたいに瘴気の影響を受けやすい人って、多いと思いますし」
「そうだね、黄昏事変以降か」
十三年前、東京を大規模悪魔災害が襲った。境界線の向こう側、瘴気を切り裂いて現れたのは悪魔の群れだった。表向きには首都圏大災害として報道されている。『黄昏事変』――迅たちの組織では、そう呼んでいた。
迅の拳が固く握られる。ほたるは下を向き、晴臣は窓の外に映る闇を眺めている。誰も思い出したくない傷痕。
ニコラは少し疎外感を感じたものの、触れることはしなかった。車内に重い空気が沈殿していく。二条は何も言わず、ほたるのナビ通り、スピードを落とすことなく運転を続けている。
「当時、報道規制が出たんです。なのでイタリアにいたニコラさんが知らないのも無理はありません。政府とBPMAはこの事実を隠蔽しようとしましたけど、ネット社会ではそれが通用しなかった。でも、この話はあまり、わたしたちの間でもしたくないんです。失ったものが大きすぎるので」
ニコラは黙ったまま手元のベレッタを見つめた。金属の冷たさが掌に伝わる。
「敵の組織について、教えてもらえるかな。私は何も聞いていないのでね」
「え? 説明してなかったっけ」
晴臣はきょとんとしていた。
「おいおい、説明してないのかよ」
迅が呆れながらため息をつく。
「事象地平教会――俺たちはEHCと呼ぶことが多い。奴らは表向きは新興宗教団体を装っていて、いわゆる『悪魔』と呼んでいる異形のものの力を利用して、既存の世界秩序を破壊し、『宵闇』って呼ばれる異次元との境界を繋げようとしている国際的な秘密結社だ」
「秘密結社……」
ニコラが呟いた。
闇が車窓を流れていく。街灯の光が規則的に車内を照らしては消える。
「さっき見た富裕層の一般人……何も知らず『ただの美術品のオークション』として参加したような人々……まあ、信者なんてそういう無垢な羊が大半だが……科学者、犯罪組織、政治家――本当に様々な人間がそれぞれの思惑を持って関わっている。奴らとて一枚岩ではないが思想は一致している。僕にしてみれば有象無象の連中だけどね」
晴臣が説明を引き継ぐ。
「終末思想とはまた別のようだな」
「彼らの目的は破滅じゃないんだ。悪魔を『異次元への扉を開く鍵』と考えていて、この世界と『宵闇』との境界線を破り、選ばれた人間――まあ、自分たちだね――を進化させようとする……ある種狂った選民思想だよ」
「マトモじゃねえよ。黄昏事変であれほど被害を受けたのに、分かってて己を差し出そうとしてるんだ。俺からしてみれば破滅に向かいたいだけにしか見えねえ」
車窓に見慣れた景色が広がってきた。高層ビルの明かり。夜でも眠らない街——眠れない街、東京。ビルの間に、瓦礫が残っている。瘴気の濃度によっては人が外に出ることは難しい。そのせいで、復興の進み具合は遅かった。
「もうすぐ都内に入ります。このまま首都高速を抜けましょう……管理局本部までおよそ二十kmです」
ほたるは小さく息をついた。
「さっきも言ったけど、ほたる君は真っ先に医療棟へ」
晴臣が指示を出す。
「僕と貴紀で倉庫にこれを預けてくるから。ニコラと迅は報告書の作成を頼むよ」
「げっ……俺報告書苦手なのに」
「フォーマットだけ送ってくれ、私の方で作るよ。しかし……疲れたな。これが瘴気の影響なのか」
ニコラは息をついてシートに頭を預け、目を閉じた。
「すみません、ニコラさん、迅さん」
「何言ってんだよ。ブツの回収はほとんどほたるがやったんだ。吸ってる瘴気の量だって違うだろ。早いとこ治療を受けたほうがいい」
「はい」
ほたるが小さく頷いた。
市ヶ谷の境界線事象管理局のロゴが見えた。車が管理局の搬入口に滑り込む。無事にここまで辿り着けた。新人チームとしては、上出来だ。
晴臣は砂時計を抱える手に力をこめた。目を閉じて息を吐く。次に開いた紫色の瞳は、何かを覚悟したような光が宿っていた。
「――僕らはもう、戻れないところに来ている」
砂時計を持った晴臣が呟く。その手は僅かに震えていた。地下駐車場は冷蔵庫の中のように冷え切っている。吐く息が白く溶けていく。
「晴臣様……これ以上は、私が政治の場で抗います。晴臣様は、どうか『今』の彼らを見ていてください」
二条と晴臣は迅たちを振り返ることなく、管理局の自動ドアを潜る。
「こちらも……色々あるんだろうね、マエストロ」
ニコラが遠ざかる晴臣の背中を見つめて、呟いた。




