↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【新改訂】戦犯の孫  作者: ふたぎ おっと
第六章 灯火は消えない
PR
99/103

6-11.リーゼと大尉①

「どうだ、クラウディア。懐かしいだろう?」

 車を降りると、父がブランカの肩に手を置いた。建物に視線を向けさせた。

 蔦が這う三階建ての赤いレンガ造りの建物。ここはブランカが通ったアカデミーだ。

 ブランカはドレスの裾をぎゅっと掴んだ。

「ここはなかなか素晴らしい建物だったからな、かなり手を入れさせた」

 ギュンターはブランカを伴い、ゆっくりと校舎の中を進んだ。後ろには、カミーユとセドロフ大尉が続いた。

 廊下の壁には淡い照明が並び、長く続く赤いカーペットを照らしている。昔は緑色だった壁が、金色に塗り替えられていた。

 昔はここを、端から端まで走り回っていた……。

 今は、沢山のオプシルナーヤ兵士が、廊下を行き来している。

 すれ違うたび、兵士たちが父に敬礼をした。

「お前は本当に優秀な子供だった」

 廊下から見えた教室では、複数の男性がタバコを吸っていた。別の教室では、勉強机を寄せて、カードゲームをしていた。中からカーテンが閉められて、様子の見えない教室もあった。

「マナーもダンスも素晴らしく、私は誇らしかったよ」

 やがて、広い舞踏室に出た。立派なシャンデリアが、白黒格子柄の床に反射している。中央にあるピアノを囲うように、弦楽四重奏団が音楽を奏でる。舞踏室の端には、オードブルのテーブルが並んでいた。

 舞踏室の中央で踊っていた人たちが、こちらに視線を向けた。

 ブランカは、父の陰に隠れたくなった。

「<アメルハウザー大佐>」

 きれいにアイロンのかかった軍服に勲章をいくつもつけた白髪交じりの男性が、ゆっくり歩み寄ってきた。

 父は、ブランカの背中を前に押した。「<参謀長>」

 ブランカはドレスの裾をつまみ、形式だけのお辞儀をした。

 参謀長はパイプの煙をくゆらせた。ブランカを上から下まで眺めた。

 ブランカは、ふらつきそうな足をじっと堪えた。

 父の底のない目も苦手だが、この人の目も、居心地が悪い。

 一生に思えるほどの数秒の後、参謀長はパイプの陰で薄く口角を上げた。パイプを咥えたまま、彼はわずかに腰を折った。

「<噂どおり、なかなか魅力がある。君の今後を楽しみにしているよ>」

 軽い調子の低い声が、ブランカには恐ろしく響いた。

 参謀長の目は、笑っていなかった。

「<あぁ、ほら。早速君の信奉者が現れたようだ>」少し離れた場所で、青年将校たちがこちらを見ていた。「<アメルハウザー大佐。ここは若者たちに預けて、老害は向こうで話そう>」

「<そうですね>」父は少し硬い声で返した。

 去っていく参謀長と父の代わりに、一人の将校が歩み寄ってきた。「<一曲いかがですか?>」

 差し出された手。

 彼は腰を折ったまま、ブランカを舐めるように見上げた。

 どうしよう。断る理由が見つからない。

「嫌なら、断りましょうか?」

 耳元でカミーユが囁いた。

 うなじにかかる息に、思わず身を強張らせた。

 ブランカは、差し出された手に手を預けた。

 将校は舞踏室の中央へ、ブランカを引いていく。

「<ようやくあなたと踊れました。前回は……怪我をされたとか>」彼は口元だけで薄く笑った。

 ブランカは彼の軍服のボタンを見ながら、小さく頷いた。失礼に当たらないよう、なるべく距離をとる。

 しかし彼はブランカの背中に回した手に力を入れ、真上から覗き込んだ。

「<なるほど。これくらいの赤みなら、十分に化粧で隠せる>」

 彼はブランカの右頬から首筋にかけて、ゆっくりと視線を這わせた。

 ブランカは必死で表情を動かさなかった。

 曲が終わり、別の将校がブランカの手を取った。「先日も素敵でしたが、今夜も素晴らしい」彼はヘルデンズ語で言った。

 ターンするときに、自分の姿が窓に映った。

 スモーキーブルーのシルクのドレスは、光の加減で金色にも白にも見える。背中から流れるオーガンジーのドレープが、回るたびにふわりと舞う。身体の右半分の火傷は、今回も極力隠している。

 ブランカは、鏡に映る自分に、違和感しかなかった。

「ところで考えてくれましたか?」将校は耳元で言う。「私とひとときを過ごすのを」

 彼は背中を支える手を、上下に動かした。

 全身が産毛立つのを、ブランカは何とか堪えて返した。「私には……答えられません」

 別の軍上部の男性は、カエルのような目でブランカの胸元を見た。「<君はもう少し食べた方がいいな>」

 だったら休ませてほしい。

 代わる代わる男たちから下品な目で見られる。ダンス中の会話も、品定めか卑しい誘いばかりだった。

 足の痛みが、じわじわと増していく。これでは前回の二の舞だ。

 ブランカはダンスが終わると、次の相手に断りを入れて、化粧室に向かった。

 しかし、化粧室の手前で、三人の婦人に阻まれた。

 一人が、ブランカのドレープを手ですくい上げる。「<とても立派なドレスだこと>」彼女はすらりと伸びた高い位置から、ブランカを見下ろした。

「<大佐にたいそう気に入られていますのね>」別の女性が、扇子の裏で目を細めた。

「<そうでなければこの姿で……お上手だこと>」もう一人が、刺すような鋭い目を隠さず言った。

 ブランカは二歩、三歩後ずさる。「<化粧室に……行ってもよろしいでしょうか?>」

 婦人たちの目が、細くなった。

 背の高い一人が、薄気味悪く笑う。

「<ちやほやされるのも……今のうちでしてよ>」

 そう言って、ブランカのドレープをもう一度手に取った。

 次の瞬間、ビッという音が鳴った。

 婦人たちは、くすくす笑いながら去っていく。

 ブランカは急いで化粧室に入り、後ろを向いたまま鏡を見た。

 ドレープが、裂けている。

 恥ずかしさよりも、もったいないと思った。あの人たちは、この生地がどれくらい高価か知らないのだろうか。

 ……ブランカも、知らないのだけれど。

 本当に、こんな世界のどこが誇らしいのだろう。

 ブランカは近くのソファに座った。足を伸ばして、ビジューを散らした靴を眺めた。こういうところに使うお金があるなら、と思わずにはいられない。

 そんな気持ちが、ずっと消えなかった。

 壁に並ぶ食事の山。分厚い肉に、色鮮やかな野菜。果物まであった。いつも配給で配っているスープの何倍も美味しそうで、栄養も詰まってるはず。

 けれどもここの人たちは食事に手をつけるわけでもなく、下品な言葉を投げつけてくる。

 こんな時間があるなら、配給や炊き出しの方がずっといい。

 すると、化粧室の扉が慌ただしく開かれた。一人の女性が、きょろきょろと中を伺って入ってくる。

 ブランカは目を見開いた。

「……リーゼ?」

 リーゼはびくりと体を揺らしてこちらを見た。やっぱりアンネリーゼだ。このアカデミーで一緒に育った同級生。

「ク……クラウディア……。どうして、ここに?」

「少し疲れて……」ブランカはソファから立ち上がった。「リーゼ、来てたんだね」

 アンネリーゼは目を逸らして細かく頷いた。

 彼女は前に会った時と同じように、とてもきれい。きれいな金髪を半分だけ垂らし、ラベンダー色のドレスに身を包む彼女は、元々の大人っぽい雰囲気にぴったりだった。

 そして、前に会った時と同じように、よそよそしかった。

 それどころか、彼女は小刻みに揺れていた。

「リーゼ?」

 ブランカは歩み寄った。

 リーゼはブランカを――突き飛ばした。

 ブランカは近くのテーブルに腰を打ちつけた。

「全部あんたのせいよ!」リーゼは叫んだ。

 何が起こったのか分からなくて、ブランカは顔を上げた。

 リーゼは、泣いていた。

「あんたたちダールベルクのせいなのに! なのにあんたは今も特別扱いよ!」

 彼女は両手で顔を覆って、その場に座り込んだ。

 リーゼが何に怒ってるのか、全く訳が分からない。前に議事堂で会った時、リーゼはオプシルナーヤの紋章入りのネックレスを付けて、得意げにしていた。そして、ブランカのことを見下していた。

 するとそのとき、ドレスの裾から、リーゼの足が見えた。

 赤と青のいくつもの斑点。肌の色が、まるで見えなかった。

「それ……どうしたの?」

 リーゼはさっとドレスで足を隠した。

 ブランカはリーゼに歩み寄った。手袋を着けた彼女の腕に、そっと触れる。リーゼは咄嗟に腕を振り払った。ブランカが触れた箇所を、反対側の手で守るように隠している。

 しかし、上腕まで覆っていた手袋が、肘まで滑り落ちた。その拍子に、見えた。

 『O/П』の焼印――。

 しかも、一つではなかった。

「リーゼ、これ……」

 リーゼは、慌てて手袋を引き上げた。「あんたには分からないわよ。昔からお姫様で、搾取される側の気持ちなんて分かるわけない」彼女は、引き攣った笑いを漏らした。

「ごめんなさい、私……」

「何に対してのごめん?」リーゼは鋭く聞き返した。

 ブランカは答えられなかった。自分でも何に対して謝っているのか、よく分からなかった。

 でもこんなの――こんなの、違う。

「もういや……」リーゼは呟いた。

「リーゼ?」

「もう、いや!」

 リーゼは化粧室を飛び出した。

 ブランカはリーゼを追いかけた。廊下にまばらに人がいたけれど、リーゼもブランカも気にしなかった。

 リーゼは廊下の突き当たりまで行くと、階段を上がり、電気の灯っていない四階の廊下を走った。手近な教室に入っていく。

 ブランカが教室に飛び込んだとき。

 リーゼは窓を開けて、窓枠に脚をかけていた。

「リーゼ! だめ!」

 ブランカはリーゼの腰に飛びついた。リーゼは両手を振って暴れるが、ブランカはぎゅっと腕の力を込めた。

 二人は教室の床に倒れ込んだ。

 リーゼは両手と足をばたつかせたが、しばらくして、床に横になったまま泣き出した。

「もういや……いやなの……」

 ブランカは身を起こして、リーゼの肩をさすった。

 暴れた拍子に見えた肘周りには、焼印がいくつも押されていた。ドレスから覗いた足は、暗がりの中でも、アンネリーゼの白い肌には見えなかった。

「戻りたくない……死にたい」

 そう呟く旧友を見て、ブランカは首を横に振った。かける言葉が見つからない。

「お嬢様?」

 ブランカはハッとした。

 教室の入り口に、大きな人影。

「こちらで何を?」

 入ってきたのはセドロフ大尉だった。

 ブランカは咄嗟にアンネリーゼを後ろに隠した。

「と……友達と……」舌がうまく回らない。

 セドロフ大尉は、ゆっくりと近づいてきた。軍靴の音が、やけに響いた。

 彼は目の前で止まると、ブランカとアンネリーゼを交互に見た。リーゼは、まだうずくまって泣いている。

 セドロフ大尉は落ち着いた声で言った。「お二人とも、戻らないと」

 リーゼが激しく身体を揺らした。

 ブランカは大尉を見たまま、力なく首を横に振った。

「お願いです……」

 何を言っているのか分からないまま、ブランカは懇願した。

 セドロフ大尉は、しばらく二人を見下ろした。

 そして、アンネリーゼの腕を掴んだ。

「大尉――」

「立て」セドロフ大尉はリーゼを引き起こした。「歩けるな」

 リーゼが曖昧に頷くと、彼はリーゼの腕を引っ張って歩き出した。

 ブランカは大尉を追いかけた。「セドロフ大尉、待って下さい! お願いです!」

 しかし彼は何も言わず、リーゼを廊下の端まで引っ張り、階段を降り始めた。

 ブランカは青ざめた。

「大尉!」

 ブランカは彼の前に回り込むが、セドロフ大尉はオリーブ色の瞳をこちらに向けて一言。「あなたは舞踏室にお戻りください」

 彼は止まらなかった。連れて行かれるリーゼは、疲れた顔でブランカを見る。

 ブランカは首を横に振って、尚も大尉を追いかけた。

 やがて一階に降りると、人気のない暗い廊下を突き進む。セドロフ大尉は突き当たりの扉を開けて、アンネリーゼを外に追い出した。

「大尉! リーゼ――」

「ここからなら、市街に出られる。好きに行け」

 ブランカとリーゼは、お互いに顔を見合わせた。二人とも、何が起こったのか頭が追いついていない。

 ブランカはセドロフ大尉を見上げる。彼はさっきと何も表情を変えていない。

 ブランカは、もう一度リーゼを見た。

 リーゼは、ぐちゃぐちゃに泣き腫らした顔でブランカと大尉を交互に見た。一歩、また一歩と、後ずさって行く。ぐっと唇を噛むと、リーゼは背中を向けて走って行った。

 ブランカは一歩踏み出した。しかしまっすぐな手に阻まれる。

 大尉を見上げる。

 オリーブ色の瞳と、目が合った。

「人はそう簡単には死なない」

 セドロフ大尉は静かにそう言った。

 大尉はブランカを屋内に戻し、扉を閉める。

「どうして……そう言い切れるんですか?」

 ブランカは混乱したまま聞いた。

 オリーブ色の瞳が、再びじっと、ブランカを見下ろした。

「どこかの人間が、何度も証明してくれています」

 謎めいた答え。しかし彼の目が、心なしか柔らかくなった気がした。

 それでブランカはハッとした。

 これまでに三回届いたWの字の入った紙切れ。うち二回は、室内履きに入っていた。

 もしかして――。

「さぁ、戻りましょう」

 大尉はいつも通りの落ち着いた口調で言った。ブランカを先導する。

 考えすぎかもしれない。この人は父の部下だし。

 でも……。

 ブランカは扉を振り返った。

 この人はリーゼを逃した。思えばいつも、ブランカのやることに口出ししない。

「あの、セドロフ大尉」ブランカはどきどきしながら尋ねた。

「何でしょう?」

 ブランカの頭の中には、Wの紙切れのことがあった。

 それなのに、口から出てきたのは全く違うことだった。

「帰ったら、火傷の薬をもらえますか?」

 大尉は振り返って、ブランカをまじまじ見た。「どうかされましたか?」

 ブランカはドレスの裾を掴んで言い訳した。「がれき撤去の炊き出しで……鍋を触ってしまうんです」思い出したように付け足す。「いつも」

「いつも?」セドロフ大尉は首を傾げた。「炊き出し作業、減らすように調整しますか?」

「いえ! それは――」

 慌てて言いかけて、大尉の口角がわずかに上がっているのに気付いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。