6-10.父と祖父②
昨夜の父は、やっぱり怖かった。
鏡の前で身支度をしながら、ブランカは昨日のことを考えていた。配給のエプロンの紐を、後ろできゅっと結ぶ。
父は元々怖い人だ。この右頬がそれを証明している。
けれども昔の優しい一面を、ブランカはどこかで期待していた。再会してからの父は、至って穏やかだった。だからこそ、父に汚らわしい娘とみなされたことが、ひどく堪えた。
ブランカは右手を眺めた。
赤いやけどの残る右手。
私は、汚れているのかしら……。
ドアが乱暴に叩かれた。ブランカはびくりと扉の方を振り返る。
返事をする前に、扉が開かれた。
「ご同行お願いします」
カミーユでもセドロフ大尉でもないオプシルナーヤ兵士が、片言のヘルデンズ語で強く言った。
ブランカは一歩後ずさった。
兵士はそのまま中に入り、ブランカの腕を乱暴に掴んだ。彼はブランカを引っ張っていく。
「あの……! どこへ行くんですか?」
腕の痛みにブランカは息を詰めた。兵士は何も答えない。
何……何が起こっているの?
心臓が激しく脈打ち始める。状況が全く読めなかったが――国会議事堂の本棟の階段を登り始めて、嫌な予感がした。
まさか――いや、嘘でしょう……?
ブランカは兵士の腕を振りほどこうとした。だが、びくともしない。
そのまま階に着いた。
「お願いです! あの部屋はいや!」
「命令です」
兵士は扉を開くと、ブランカを中に押し込んだ。扉がすぐに閉められる。
視界に飛び込んでくる壁と天井の写真。
ブランカはその場に座り込んで、目をぎゅっとつぶった。
部屋の照明が、落とされる。
ブランカはきつく耳を塞いだ。
『わたしのおじいちゃんはヘルデンズ帝国の一番えらいひ――ザザッ』
何度も聞かされた作文の朗読。この後の続きも覚えている。
しかし音声は途中で途切れたまま、続きが流れなかった。
そのまま待ってみても、音声が流れない。
ブランカはわずかに瞼を開けた。
『めずらしい発明ひ……ザザッ』ブランカは再び目を閉じた。『……世界をきれいに……ザザッ』
途切れ途切れに流れた音声は、やがて雑音だけになった。耳障りな音が、不気味に響く。
いや……。いつまで耐えればいいの?
しかし、何度も聞かされた昔の音声が全く聞こえてこない。
でも、前にそれで恐ろしい映像が流れていたし……。
けれども――。
雑音は、やがて消えた。
部屋が静まり返る。聞こえてくるのは、ブランカの心臓の音。
映像の光が、瞼を刺した。
ブランカは恐る恐る指の隙間から、映像を覗き見た。
祖父が――そこにいた。
穏やかに笑う祖父。ブランカが――クラウディアが何度も見てきた顔。
映像はゆっくりと動いた。
たくさんの生垣に、いろんな形の花。白黒映像だけど、どんな花の色か分かる。
ここは母が作った庭だ。ピンクと黄色と白のミニ薔薇。すずらんにすみれ、デイジー、パンジー。母はいつも庭にいた。
お母さん……。
大きな帽子をかぶった母が、映像に映る。母は、首から下げたカメラを覗き込んだ。そのカメラの先で、ブランカが――クラウディアが、犬に花冠を乗せていた。犬はクラウディアにのしかかり、顔を舐めている。
大きく笑う自分。
私、あんな風に笑っていた……。
後ろから、祖父が嬉しそうに包み込んだ。
遠い幼い日の、穏やかな光景。
涙が頬を伝った。
このときは……とても幸せだった。
この日常を疑うこともなかった。世界のことなんて何も知らないまま、ずっとこんな風に生きていたかった。
祖父のことを、本当に愛していた。
でも、ブランカは知ってしまった。
この日常が、幻の上に成り立っていたこと。
そして、祖父の罪も。
祖父の悪行を知るたび、自分の罪を知るたび、この血を呪った。母が目の前で殺されたあの日、本当は、ブランカも死にたくてたまらなかった。
だとしても。
祖父も母も、全身で愛してくれていた。
ダールベルクとか関係なく。
ブランカは涙を拭おうとポケットを探った。しかし、出てきたのはヨモギの葉っぱだった。
やけど早く治してね。これをくれた子は、そう言って笑顔を見せてくれた。
ブランカは右手のやけどを見た。右頬を無意識に触る。
生きてきた証。
ヴォルフは何度もそう言ってくれた。その言葉で、ブランカは少しだけ前を向くことが出来た。祖父の罪に向き合おうと思えた。そんなブランカを、ヴォルフはずっと支えてくれた。
私は災いで、だからヴォルフは……。
だけど――。
ブランカは、ヨモギの葉っぱをじっと眺める。
あの子の笑顔を、守りたい。
ノイマールの人の暗い顔を、少しでも晴らせたら。
ブランカはぐっとつばを飲み込んで、映像を見上げた。
映像には、どこかのアパートが映っていた。
笑顔のヘルデンズ兵士が、扉をたたく。中から、けげんな顔をした女性が出てきた。兵士は女性にマイクを向けながら、他の兵士と一緒にアパートの一室に入って行く。
マイクを持った兵士が女性に何か質問している。別の兵士は、台所や寝室を漁っていた。ある兵士は寝室のクローゼットからきれいなワンピースを手に取ると、カメラの前に掲げた。他の兵士は台所の床下から銀の燭台を取り出し、持ってきた袋に入れた。
兵士たちは、それら全部を持って、女性のアパートから出て行った。
ブランカはぞっとした。
数週間前、アジェンダ人の家を訪問した際のことを思い出す。入ったときには掛かっていた玄関の絵が、帰る頃には消えていた。落ちていた写真をひったくった奥さんの鋭い目が、脳裏に浮かぶ。
私……当然だわ……。
映像は、別のシーンに切り替わった。
何もない平原で、人々が穴を掘っている。彼らはみな瘦せ細っていて、暗い顔をしていた。映像の隅で、ヘルデンズ兵士たちが一人の男に暴行している。
次のカットには、人々の行列が出来ている。一番前の人は、順に何かを出していた。宝石、眼鏡、時計。ヘルデンズ兵士たちは、集めたものを、それぞれの家で妻や恋人に渡していた。
何が……違うの?
見れば見るほど、今との違いが分からない。
――お前はヘルデンズに報いなければならない。
父は何度もそう言って、従うことを要求してきた。
ブランカもヘルデンズに報いたい。大陸中に償いたいと思っている。
けれど――これじゃない。
ブランカはヨモギの葉っぱをもう一度見た。
「ご協力に感謝します」
翌日。ブランカは広場の献納イベントにいた。
受け取った腕時計を、色んな角度から確かめた。そして、それを相手につき返した。
「これは……こちらでは受け取れません」
列の前にいた人は、目を丸くしてブランカを見た。
ブランカは少々気まずいものの、もう一度その人に腕時計を突き付けた。彼は恐る恐る腕時計を受け取り、列を離れていく。
後ろに並んでいた女性が、彼とブランカを交互に見ながら、一歩前に出た。彼女はそろりと大きな袋を差し出した。中を開けると、大きなティディベアが出てきた。
女性は、あとこれもと言って、写真入りの楯を出した。そこには若い男性と、ぬいぐるみを持った小さな女の子が写っていた。
ブランカは女性を見上げた。彼女は写真を見ると、ハンカチで鼻を隠した。
「ご協力ありがとうございます」
そう言って、ブランカはティディベアだけ受け取った。女性はブランカを見上げた。ブランカは首を横に振って、写真楯を女性の手に戻した。
次の男性は、何枚か服を差し出した。ウールのコート、スーツのジャケット。それからマフラーなど。
ブランカはコートとジャケットを広げた。そして男性に返した。「受け取れません」
「<何で返すんですか>」オプシルナーヤ兵士がそれらを掴んだ。
ブランカは兵士を見上げて、オプシルナーヤ語で言った。「<いくつか……穴が開いています>」
「<それくらい問題ない>」
「<それに、ウールは偽物でした>」言いながら、心臓がどきどきしてきた。
「<何で分かる?>」
ブランカは小さく息を吸って言った。
「<これでも私は……ダールです>」
兵士は言葉に詰まった。
ブランカは兵士をじっと見てから、改めて男性にコートとジャケットを返した。
男性はそそくさと列を離れていった。
ロマンとヤーツェクの脇を、子供たちが走っていく。
「元気だな」ヤーツェクが呟いた。
「子供が元気なのは、気分が明るくなっていい」ロマンは眩しそうに目を細めた。
ここ一週間のうちに、そういう光景をよく見るようになった。漏れ聞こえる噂によると、ダール二世の子がお菓子を配っているらしいとか。
ロマンはこの状況を、心配するべきか喜んでいいのか分からなかった。
「ねぇその草、何に使うの?」走っていく女の子が尋ねた。
「ダールのお姉ちゃんにあげるんだ! 笑うと絶対きれいだよあの人!」男の子が、片手に緑色の草を持って、走っていく。
笑うときれい――か。
ロマンはふっと微笑んだ。
「何笑ってんだ」ヤーツェクが鋭く問いただす。
「いや別に」ロマンは手で口元を隠した。
すると、広場の方から呆けた顔の人たちが、歩いてきた。
「なあ、これ、偽物なのか?」
「知らねえよ。俺に聞くなよ、分かるわけねーじゃん」
「あたしのコート、質が悪いって言われた。絶対嘘なんだけど」
「良かったじゃない、取られなくって」
広場に向かうにつれ、そんな会話が漏れ聞こえてきた。
ロマンはヤーツェクと顔を見合わせた。
ヤーツェクは手を振って、回れ右をした。
「俺は戻る」
黒いキャスケットをかぶり直すと、ヤーツェクは来た道を戻っていった。
ロマンはため息をついて友人の背中を見る。
なかなかヤーツェクも意地っ張りだ。
ロマンは噂が気になって、広場の方へ向かった。
すると、別の噂が漏れ聞こえてきた。
「あのダール二世の子、大丈夫か?」
「あの子だよな、いつもスープ多くくれる子」
「たまたまでしょ。腐ってもダールよ」
「でもこの前市場で赤ちゃんにパンあげてたよ」
ロマンは話している人たちを見た。
何人かが固まって言っているわけではなく、それぞれがダール二世の子の話をしていた。
彼らの目線の先には、ブランカがいた。
その夜。
ブランカは部屋に戻って、大きく息を吐いた。鏡台の椅子に座り込む。
とっても緊張した……。
今日一日で、ずいぶん嘘をついた気がする。
いや、ダムブルクでは日常的に嘘をついていたと思い直した。けれども今日のは、ダムブルクにいたときとは違う。
訝しむオプシルナーヤ兵士の顔を思い出すと、今でもまだ心臓がどきどき鳴っている。ブランカは震える手をポケットに突っ込んで、ヨモギの葉っぱを取り出した。
あの男の子、今日も来てくれた。
あんなことで良かったのかな。
人々の驚いた顔。でもその下には、微かな希望が見えていた。
初めて自分の名前に感謝した。こんな風に使える日が来るなんて……。
でも、本当にこれで良かったのかな?
ブランカは立ち上がり、部屋履きに履き替えた。
すると、つま先で覚えのある感触がした。
部屋履きを脱いで、靴の奥を確かめる。
やはり、小さな紙きれが入っていた。
ブランカは、じっと紙切れを眺めた。
もうこれで三度目だ。流石に開くのは緊張する。
ブランカは縋るようにヨモギの葉っぱを見ると、目を閉じて深呼吸した。
中を開く。
『迷ったら俺を信じろ――W』
見覚えのある筆圧の強い字。
端っこには、女性の横顔が描かれていた。
最近知ったブローチの二層目。
お祖母様……。
ブランカはしばらくその絵を眺めると、ベッドに駆け寄った。横にある引き出しを開ける。二枚の紙切れと、Wの刺繍の入ったハンカチを取り出した。
ブランカはそれらと、新しい一枚を並べた。
『迷ったら俺を信じろ――W』という文字と、祖母の絵。
『俺は信じてる――W』と、ブローチの花の絵。
『必ず行く。お前はお前だ――W』
同じような筆跡の、同じような力強いW。
文字だけだったら、ブランカはこれをいたずらだと思い続けられた。
でも、祖母の絵。
祖母の絵……。
ブランカはその三枚とハンカチを胸に抱いた。
涙が一粒落ちる。更にもう一つ。おまけにもう一つ流れて。
いつしか涙が溢れてやまなかった。
ブランカはハンカチを額に当てた。
ヴォルフ……。
生きてるの……?




