6-10.父と祖父①
――クラウディア、何があってもお前だけは私の味方であってくれるね?
激しい雨が降りしきる中、珍しく弱気な顔でそう言って、祖父はブランカに手紙とブローチを遺した。濡れた手は冷たく震えていたけれども、微かな温度が、握った両手から確かに伝わってきた。
やめて、今さら。そんな風に惑わさないで。
あまりにもたくさんの血が流れた。たくさんの生活が奪われた。
残ったのはがれきの山と、暗く疲れた顔の人々。あなたが約束した輝かしい王国なんて、どこにもなかった。
いい加減分かったでしょう? だからもうあっちへ行って。帰ってこないで。
振り上げた手を、誰かが止めた。
ブランカを安心させてくれる、大きな手。
――お前は人形じゃない。
そう言って、ブランカの顔を両手で包み込む。
――お前はお前だ。俺は信じてる。
ヴォルフは、ブランカの目と右頬と唇の端に、順に口付けをした。揺るぎないまっすぐな気持ちが伝わってくる。
ヴォルフ……。
会いたい。どこにいるの?
手を伸ばした途端、地面がはじけ飛んだ。
ブランカは跳ね起きた。
心臓がバクバクとうるさい音を立てている。肩が激しく上下し、いきなり入り込んできた酸素に思わず咳き込んでしまった。
電気の付いていない真っ暗な部屋の中。外から雨の音が聞こえてくる。
おかしいことは何もない。国会議事堂の別棟に与えられているブランカの部屋だ。まだ夜明けでもないらしい。
また夢……。頬に触れると、目の周りがうっすら湿っている。
「怖い夢でも見たのですか?」
すぐ近くから聞こえた声に、ブランカはびくりと体を揺らした。天蓋の柱の影から、ぬっと人影が現れる。
「うなされているようでしたね、クラウディア」
雷の光が、その人を照らした。
見慣れた顔。
カミーユ。
「な……何でここにいるんですか?」
ブランカはシーツで身体を覆って、ベッドのヘッドボードに背中をつけた。
カミーユはベッドに腰かけ、手を伸ばす。ブランカは避けようとするが、それより早く、冷たい指が目尻に触れた。
「かわいそうに。とても怖い夢だったんですね」
カミーユはブランカを見据えたまま、触れた指をそのまま口元へ運んだ。
全身がぞわっとした。
「何でここにいるんですか?」ブランカは小さい声で繰り返した。
「あなたの声が聞こえてきたからですよ。もう大丈夫。何も考えず目を閉じれば、怖いことなんてもうありません」
ブランカは首を横に振って更に後退した――これ以上下がれるならば、だが。
「私は大丈夫ですから……出て行って下さい」
「遠慮は要りません。私たちは、似たもの同士でしょう?」
カミーユはまたブランカの右頬に触れた。彼の左側が、雷に照らされる。
半分だけ赤くただれた顔――。
ブランカは思いっきり両手を突っぱねた。
「出て行って下さい!」
ブランカはカミーユがよろけた隙に彼から遠い側へとベッドの中を移動し、ベッドから降りた。
カミーユはすぐに体勢を立て直し、ブランカの前を塞いだ。
「いけませんね。反抗期ですか?」カミーユはゆっくり笑みを浮かべた。
ブランカは後ろに下がった。「ここは……私の寝室です」
カミーユは歯を見せて笑みを広げた。
「ええ、そうです。ですからあなたの睡眠も、私の管轄です」
何を言っているの、この人。
背中に壁が当たった。カミーユが再び手を伸ばす。
いや……いや――!
「お嬢様」
ノックの音と同時に、扉の外から声がした。
「お嬢様。声がしましたが、大丈夫ですか?」
セドロフ大尉の声だ。ノックの音が、再度聴こえる。
ブランカは答えられなかった。
助けてほしい。
でも――大丈夫なの?
カミーユに目をやると、彼は無表情にブランカを見ていた。
悪寒が全身を伝った。
「お嬢様?」
セドロフ大尉がもう一度聞くと、カミーユはため息をついた。無表情にブランカを見据えたまま、後退してゆく。
彼は扉を開けて出て行った。
「マルシャン殿。何故こちらに」
「お嬢様のお世話をしていたんですよ」カミーユの声は剣呑だった。
そして足音が遠ざかっていった。
セドロフ大尉は、薄く開いたままの扉から顔を覗かせた。「お嬢様、大丈夫ですか?」
ブランカは壁に張り付いたまま、首を縦に振った。
大尉は廊下の方を一瞥すると、静かに言った。「外で見張っていますので、ゆっくりお休みください」
扉が閉まり、部屋が静まり返る。雨の音が、更に増している。
ブランカはずるずる床に座り込む。枕を引っ張って、腕に抱え込んだ。
ヴォルフ……。
涙が次から次へと流れ出した。
結局その後は一睡も出来なかった。眠れるわけがなかった。
昨夜のカミーユは――気持ち悪かった。
どうして今まで当たり前のように触らせていたんだろう。今思うとぞっとする。
気付かず取り出したWの刺繍入りのハンカチを、ぎゅっと握りしめる。
「クラウディア、入りますよ」
扉を叩く音と、カミーユの声。
ブランカは鏡台の前から立ち上がり、部屋の端っこへ逃げた。
入ってきたカミーユは、口元に笑みを湛えたまま、首を傾げた。
「どうしたんですか? そんなところにいて」
目の笑わない笑顔。抑揚のついたフラウジュペイ訛りのヘルデンズ語。いつもと変わらない。
でもブランカは壁から離れられなかった。
「ほら、朝の支度をしないと」カミーユは近づいて来る。
「も……もう、自分で済ませましたから」
言ったとおり、今日の配給作業に合わせた格好をしている。
しかしカミーユは目を光らせて寄ってきた。ブランカは壁伝いに逃げるが、カミーユが手をついてゆく手を阻んだ。
嫌がるブランカの顎を持ち上げる。「またくまが濃くなっている」
ブランカはカミーユと目を合わせないようにした。
カミーユはブランカの耳元で囁いた。
「ぐっすり眠れるように、いい薬を用意しておきますね」
薬――?
そのとき、ロゼで母を見たときのことを思い出した。母は、ステージの上で焦点の合わない目で酔いしれていた。
その原因はフィルマンとこの人――。
ブランカはぎゅっと目を閉じて、激しく首を横に振った。いつの間にかカミーユの手が外れ、ブランカはその場にへたり込む。
カミーユはつまならなそうに見下ろした。
「どうやらまだダールベルクの血が抜けきっていないようですね」
その言葉が何を意味してるか知らなかったし、知りたくもなかった。
その日は一日落ち着かなかった。
どこからかカミーユに見られてる感じがして、気持ち悪かった。今日も少しだけ多めに配ろうと思っていたのに、それどころではなかった。結局配分を間違えまくって、兵士に何度も注意された。ただ……列に並んだ人たちは、嬉しそうだった。
この前の男の子がまたヨモギの葉をくれたときには、少しだけ気が休まった。やけど早く治してねって言って、またぴゅんと走っていったけれど。
そうして大して気が休まらないままきれいな服を着せられ、晩餐の席に座っていた。
「どうだ、最近は。どれか気に入った活動はあるか?」
丸テーブルの向こうから、父が尋ねてきた。
今日はこぢんまりしたダイニングルームに通された。父娘でプライベートに食事したいとのことらしい。その割には兵士が二人の間にカメラを構えるが。
「どの活動も……皆さまのお役に立てているのなら」ブランカは無難な答えを探した。
「謙虚で良いことだ。しかし」ギュンターは肉を切りながら、ブランカを鋭く見た。「まず、お前が尽くすべきは誰だ?」
「……お父様、です」
これも模範解答だった。少し前なら何も考えずに答えていたのに、しかし今は、答えるのに苦労した。
父は頷いた。
「その次に国家だ。そうすれば、お前はヘルデンズに報いることになる」
そう、なのかしら。
ブランカは、ノイマールの街を頭に浮かべた。
きれいな表通りの裏に広がる廃墟の街。人々が手作業でがれきを撤去し、食料を求めて縋るように配給に並んでいる。何日も配給や炊き出しに参加しているけれど、人々の暗い顔は変わらない。
ここにはこんなに手の込んだ料理があるのに。
ブランカは自分の前に置かれた野菜と肉のプレートを、心苦しく思った。
「ところでクラウディア。お前は今、反抗期らしい」
ブランカは顔を上げて父を見た。
ギュンターは手元の豆を掬いながら言う。「マルシャンが言っていた。最近のお前は素直ではないと」
ブランカはカトラリーをぎゅっと握った。「あの人が……夜、部屋に入ってきたんです」
声が思わず震えた。今夜も入ってきたらと思うと、夜になるのが怖い。父なら、この気持ちを分かってくれると思っていた。
ギュンターは豆をいじる手を止めた。高い背もたれにもたれ、ブランカを見据える。
「それがどうした?」
ブランカは言葉を失った。
ガチャンと音を立てて、フォークとナイフが落ちた。
「それが彼の仕事だろう。わがままはよろしくないな」
父は大したことないように肘掛けに頬杖をついた。
ブランカは首を横に振った。
「違う……違うんです。わがままではなくて……」
どうして通じないの?
私が……おかしいの?
父の底のない深緑色の瞳を見ていると、声が思うように出なくなってくる。
自分の肩を抱く娘を、ギュンターは無言でしばらく眺めていた。
「まぁいい。今日はゆっくり休めるよう言っておこう」
ブランカは胸を撫で下ろしかけた。
「しかしお前も自覚せねばならない。その身体には堕落した血が混ざっているのだと」
耳を疑った。
ブランカは目を見開いて父を見た。父の表情は何も変わらない。
「その血は人を惑わす。善良な人間ほど」
私の血は人を惑わす……?
善良な人?
父は何を言っているの?
「お父様は……私がそういう人間だと思っているんですか?」
ブランカは首を横に振った。
この人は、私を汚れていると思っているの……?
ギュンターはふっと乾いた笑いを漏らした。
「心配しなくていい。お前の膿はいずれ消えるさ。私の言うとおりにすれば」
膿。
軽く励ましているような口調で言うが、ブランカはどう感じればいいか分からない。
「お前は賢い子だ。だからよく理解したのではないか、お前の血が――あの男がいかにこの国を貶めたかを」
ギュンターは席を立ち、ワイングラスを持ってブランカの隣に移動した。鋭い光を放つ深緑色の目で、ブランカをじっと見据える。
ブランカは迷いながらも頷いた。
父の言うことは正しい。
祖父の行いは、確かに間違っていた。祖父が、ノイマールをこんなに暗い街にした。ヘルデンズをダメにした。大陸中も。
「そして、いかにして我が国家が世界の安寧のために手を尽くしているか、お前は十分理解したはずだ」
――それなら、どうして今もこの街は暗いの?
頭の中で、鋭い疑問が差し挟まった。いくつかの情景が、頭の中に浮かぶ。
フラウジュペイのダムブルク。今年はお祭りを再開できるまでになったけれど、五年前はひどかった。壊れた建物もあったし、政府の支援はほとんどなかった。
ヘルネーも、廃墟はたくさんあった。それでも下町には活気があった。同じ東ヘルデンズ内で、兵士の数はここよりもずっと少なかったのに。
終戦からもう五年も経っている。それなのに何故ノイマールは今も暗いままなの?
いつしか見た村の火災が、脳裏をよぎる。人々の悲鳴も。
「クラウディア。我々は古い腫瘍を取り除かなければならない」
ギュンターは椅子を寄せ、娘の左手を膝の上に取った。自分と同じ色の娘の目を覗き込む。
「隠す必要はないさ。お前はもう分かっている。ただ、私に委ねればいい。あの男は、お前に何を遺した?」
底のない深緑色の目。強い眼光。
私に銃を向けた、鋭い光――。
ブランカは咄嗟に胸元に右手をやった。しかし触れたのはただの布だった。
「さあ。国家のためだ」
低い声に、ブランカは震えた。
とても不気味で、暴力的な響き。
「じ……らい……」
ブランカはやっとの思いで答えた。
「地雷?」父は目を更に細めた。ブランカの右手を鋭く見る。「地雷とは何だ?」
ブランカは頭の中で花の絵を思い浮かべた。それが意味していたことも。
でも父の猟奇的な目を見ていると、どうしても吹き飛んだ地面ばかりが瞼の裏に浮かんだ。
ブランカは目を閉じて、震える身体をこらえた。
「いいだろう」ギュンターは半ば睨むようにして言った。「また日を改めて聞こう」
父は椅子の位置を元に戻した。
ブランカは細かく息をする。
ギュンターは席を立つと、ブランカの顎を持ち上げた。
「分かっているな。お前が従う相手は」
父の指が、火傷のある右頬に食い込む。
微かに眉根を寄せて、ブランカは言った。
「お父様……です」
ギュンターは乱暴に娘の顔を放した。
痛む頬に手を当てながら、ブランカは去っていく父の背中を見つめていた。




