6-9.がれきとヨモギ②
「またあの子。でたらめばっかり言う」
「店主も気の毒だよ、毎回付き合わされて」
「腐ってもダール二世はいいわよね。あんなきれいな格好で歩けるんだから」
ノイマール随一の食品市場は、再び嫌悪感に包まれた。ロマンとヤーツェクと他二人は、しかめ面の主婦たちの後ろから噂の的を覗き込んだ。
パン屋の周りに軍の関係者が何人か、店の入り口にはカメラを持った撮影部隊がいる。店の中には、パンを選ぶ赤いチェックのスカート姿のブランカ。
「なんだあれ。胸糞悪ぃ」ヤーツェクが吐き捨てた。キャスケットの黒革のつばの位置を直す。
「ノリノリだな。虫も殺さぬ顔してえげつねぇなぁ」ヘルネーから一緒に来た一人が言う。
ロマンは苦い気持ちでブランカの行動を眺めていた。
ブランカの記事は、頻繁に新聞に取り沙汰されている。オプシルナーヤ当局はダール二世の更生を進めているとか書いているが、中身はただのプロパガンダだ。先日は軍の強奪を手伝っていたと聞く。ロマンは失望を隠せなかった。
「でもさ……」ヤーツェクの後ろにいた仲間のもう一人が、小さい声で言った。「俺、やっぱりブランカちゃんはブランカちゃんな気がしてさ」
ロマン以外の二人が彼を睨んだ。「どういう意味だ?」
「俺、この前見たんだよ」その男が言う。「炊き出しでさ、今にも倒れそうな男に水やってた」
三人は押し黙った。
ヤーツェクが鼻で笑う。「どうせ見せかけだろ? オプシルナーヤの徴収に加担してたじゃねぇか」
「いや、もしかしたら脅されてるんじゃないかと思って――」
「お前、人がいいから騙されんだよ」もう一人の男性が、彼の肩を叩いた。「あの子はクロだよ」
ロマンはなんとも言えない気持ちで、パン屋の方を見た。
ふわふわの白パンに、バターロール。もちもちのミルクパン。
窓側の棚には、それらが整然と並べられていた。
ブランカはその棚の前に立たされていた。動く位置も指定されている。
今日もまた撮影。しょっちゅうカメラを向けられるのは居心地が悪い。これが何の役に立つのだろう。
カメラの方を向きながら、パン屋の店主の不安そうな目と、目が合った。やけに白いエプロンが、店の奥のうす暗い雰囲気と合っていなかった。
「<台詞をお願いします>」随行していた兵士の一人がオプシルナーヤ語で言った。
ブランカは両手で棚を示し、台本通りに言った。「このように……近頃は色んなパンを焼けるようにもなったそうです」
そう言ってみるものの、その言葉には違和感しかなかった。カメラの向こう側に目を向けると、ライ麦の黒い固そうなパンばかり並んでいた。あっちの方が、この店の雰囲気に合っていた。
兵士に促され、ブランカは白パンとミルクパンを手に取った。店主はブランカの後ろをちらちら見ながら、ためらうように代金を受け取った。
店を出ると、撮影を見ていた買い物客のけげんな視線が突き刺さった。
「<次はあちらの店へ>」
今日の撮影を取り仕切っている兵士が、別の店へブランカを誘導した。
すれ違いざまにいた人々のざわめきが聞こえた。
「嘘っぱち」
「こっちはパン一つ買えやしないのに」
「結局全部回収だよ」
最後に聞こえてきた言葉が気になって、ブランカはパン屋の方を振り返った。先ほどまで窓側の棚に置いてあった白いパンやバターロールなどが、一式消えていた。店の中ではオプシルナーヤ兵が無言で袋にパンを詰めている。
人々の鋭い視線が突き刺さった。痩せて疲れた顔でブランカを睨むヘルデンズ人。ブランカは手元の買い物かごに入れた白パンとミルクパンを見た。
私……何をやっているの?
「<お嬢様>」兵士がブランカへ呼びかけた。「<次の段取りを>」
ブランカは指示に従い、ある店先に立った。隣に買い物かごを持った女性が並ぶ。
兵士の合図を見て、ブランカは台本通りに言った。「最近の……買い物状況はいかがですか?」台詞をなぞるのが、だんだんつらくなってきた。
「色んな食材が手に入るようになりました」女性はぎこちない笑顔で答える。「見てください」
彼女は買い物かごを広げて見せた。太いニンジンに大きなキノコ。かぼちゃはずっしり身が詰まっていそうだった。
ブランカは目だけで市場を見渡した。少なくともここから見える範囲には、こんな大きな野菜を置いている店はない。
女性は台本通りに進める。
「軍の皆さんのおかげで――」
言いかけたところで、赤ん坊の激しい泣き声が響き渡った。撮影を見ていた女性客が、腕の中で赤ん坊をあやしている。赤ん坊は両手をばたつかせ、泣き止む気配はない。
オプシルナーヤ兵が、軍靴を鳴らして母親の元へ寄った。「<黙らせろ>」
母親は赤ん坊を揺らすが、赤ん坊は更に泣きじゃくった。
ブランカがそちらの方を見ていると、近くにいた別の兵士が嘲りながら言った。
「<乳でも飲ませろよ>」
「<いいな。出せよ、ほら>」
オプシルナーヤ兵士たちが、次々囃し立てた。母親は蒼白な顔でこの場を去りたそうにしているが、兵士たちが彼女を囲って邪魔をした。兵士たちは下品に笑って手拍子する。
ブランカは周りを見渡した。撮影を見ていた他の人たちはみんな、固い顔をして下を向いていた。赤ん坊の泣き声を、兵士の下品な声が覆う。母親も泣きそうな顔をしていて、なんだかすごく――。
――いや。
ブランカは自分の買い物かごへ視線を落とし、近くの店を見た。わずかに逡巡したのち、ブランカはその場を離れた。
「<ちょっとお嬢様――>」
撮影を仕切っていた兵士が声をかけるが、兵士たちの囃し立てに紛れて聞こえない。ブランカは近くにあった店で牛乳を買い、兵士たちの間に割って入り、母親の元へ向かった。嫌な雰囲気を作っていた兵士たちが、一斉に静まり返る。周りで見ていた人たちも息を飲んだ。
母親は、目を見開いてブランカを見た。
「あの、まずはこれを……」
ブランカは先ほど買った白パンを取り出し、小さくちぎって母親に差し出した。
母親は力なく首を横に振った。
「受け取れません」
母親はかすれる声で言うが、赤ん坊がいっそう泣きじゃくったので、恐る恐るブランカの手からちぎったパンを受け取った。
次にブランカは牛乳瓶の蓋を開け、それも母親の前に出した。
「これなら食べられますか……?」
ブランカは赤ん坊を見て言う。
母親の目は、赤ん坊と牛乳とブランカの顔を何度も行き来する。しばらくして、母親はパンを牛乳に浸し、それを赤ん坊の口へ持っていった。赤ん坊はまだぐずっていたが、やがて母親の指に吸い付いた。
そして、静かになった。
母親は安心したように肩で息をした。
それを見て、ブランカも小さく息をついた。
ずいと、腕を引っ張られた。撮影を仕切っていたオプシルナーヤ兵士だ。
「<台本にないことはしないでください>」
彼は母親を退散させた。
先ほど囃し立てていた兵士たちが、見ていた市民を脅かして散らしている。
「<まったく、こんなものを勝手に買って>」
兵士はブランカの手から牛乳瓶をもぎ取り、地面に叩きつけた。激しい音を立てて瓶が割れる。あたりに牛乳が飛び散った。
その瞬間、ブランカの中で何かが崩れた気がした。
兵士に乱暴に引っ張られて市場から出ていく途中で、先ほどの赤ん坊の母親が、蒼白な顔でブランカを見ていた。
翌日。ブランカは紺色のワンピースを着て、エプロンを上から身に着けた。
扉をノックする音がし、ほどなくして護衛のセドロフ大尉が入ってくる。
「お嬢様、ご準備はお済みでしょうか?」
「はい」
今日は公民館の配給の日だ。
何度目の参加になるのだろう。配給の日は憂鬱だ。今にも倒れてしまいそうな痩せた人たちにたくさん配れないのが、いつも心苦しい。
ここにはたくさん余っているのに。
ブランカは、部屋の中央テーブルに置いたかごに目をやった。昨日買ったミルクパンと白パンの残りがある。それからあんまり食べないのに毎日置かれるお菓子の山。
「お嬢様? どうかされましたか?」
ブランカはセドロフ大尉を見上げた。あまり大きくないオリーブ色の瞳が、じっとブランカを見ている。
ブランカは、もう一度テーブルの上を見た。
それからほどなくして、ブランカは公民館の配給所に向かった。
いつものように器にスープを注いでパンを渡す。
けれども今日は、一つだけ変えてみた。
昨日のパンを、小さくちぎって、そっとスープに入れる。
列の一番前に並んだ人が、驚いたようにブランカを見た。ブランカは少しだけ気まずかったが、白パンとミルクパンがある限り、その後も同じようにした。
「特別扱いはよして頂きたい」近くにいたオプシルナーヤ兵がブランカに詰め寄るが、「お嬢様の心遣いだ」とセドロフ大尉が静かに言った。
たまに小さい子供が列の前に来ると、ブランカはエプロンのポケットから紙に包んだチョコレートやビスケットを配った。子供たちは目を輝かせて帰っていく。
ブランカは、列の後ろの方で白パンやミルクパン入りのスープを飲む大人たちを見渡した。
みんな、前に見たときより顔が和らいでいる。子供たちはお菓子を分け合って食べていた。
――お前がこの国を明るくするのだ。
ふと脳裏をよぎる言葉に、ブランカは思わず顔をしかめた。
私……何をしているんだろう。こんなこと、何の意味もないのに。
そもそも私は災いなのに。
「お姉ちゃん」
下から声を掛けられた。痩せた小さい男の子が、列の脇に立っていた。その子は前歯のない歯を見せてにっこり笑った。
「これ、さっきのお菓子のお礼。やけど治るといいね」
そう言って、ヨモギの葉っぱをブランカに渡した。近くにいた兵士が注意し、男の子は駆けていった。
ブランカはヨモギの葉と右手のやけどをしばらく眺めていた。
生きてきた証……。
そう言ってブローチを取り戻してくれたヴォルフを思い出した。
ヴォルフ……私、どうしたらいい?
ダメだと思うのに、少しだけ明るく見えるこの光景を、否定できなかった。
今日も広場に列が出来ている。徴収の列と、男たちばかりの列――徴兵の列だ。男たちは暗い顔で下向きながら、一歩ずつ列を進めている。
昔も見た憂鬱な光景だ。
建物の壁にもたれかかりながら、ロマンは広場を眺めていた。
「今考えてみると――」隣にいたヤーツェクが、だしぬけに言う。「巻き込んで悪かった」
「何を今更」ロマンは広場に視線を据えたまま返した。「わざわざフラウジュペイまで勧誘しに来ておいて」
「あのときはあんまり深く考えてなかったんだよ。フラウジュペイがあんなに穏やかだとも知らなかったしさ」
ロマンも、東ヘルデンズがここまで暗いとは思っていなかった。フィンベリー大陸戦争期のメルジェーク――二人の故郷がこんな感じだった。当時はヘルデンズに搾取されていたが、だからと言って今のヘルデンズ人を悪くは思えない。
「お前はフラウジュペイにいた方が良かったんだろうなと思うんだよ」
「よく言うよ」
ロマンがこちらに来ざるを得なくなったのは、この男がきっかけだったというのに。本人は知らないだろうが。
「残してきた女とかいないのか?」
「ずけずけ聞くね」
「実際どうなんだよ」
言われて、レオナの顔が浮かんだ。明るく利発的な大きな笑顔。ロマンにとって、ダムブルクでの生活は成り行きでしかなかったし、完全に気楽にいられたわけではない。だからこそ、おおらかなレオナの明るさは、正直ありがたかった。
ショコラ色の髪を振り乱して泣きながら追いかけてきた姿が、ずっとこびりついている。
ロマンは目を閉じて息をついた。
「君こそ」ヤーツェクが首を傾げたので、ロマンは続けて言った。「ヨアヒムさん」
ヤーツェクはむせた。何でお前知ってるんだよ、と呟く。
ロマンは肩をすくめた。
ヤーツェクは黒のキャスケットをかぶり直して言った。
「女なんてろくでもねぇな」
自分から話題を振っておいて何を言っているんだか。ロマンは呆れた目を友人に向けた。
そのとき、何人かの子供たちが、二人の前を横切った。
「お菓子もらえるとこ、どこ?」
「公民館の配給だよ! ダールのお姉ちゃんが配ってるんだって」
「大丈夫? 怖くない?」
「分かんないけど、裏の子はめっちゃいいチョコもらってた!」
子供たちは目をキラキラさせて、公民館の方へ向かって行った。
彼らを見送ってから、ロマンとヤーツェクはお互いに顔を見合わせた。




