6-9.がれきとヨモギ①
『俺は信じてる――W』
力強いまっすぐな言葉。端っこに描かれた、繊細な花の絵。
ブランカは、くしゃくしゃになったもう一つの紙切れを、隣に並べた。
『必ず行く。お前はお前だ――W』
同じような筆圧の、意志の強いW。
鼻の奥が、つんと痛くなる。
どうしてこんなものが二つも出てくるのだろう。
ブランカは、花の絵を指でなぞった。指が勝手に宙に凹凸を描く。何度も何度も指で確かめた動きだ。
ブランカをいつも安心させてくれた、ブローチの花――。
――ヘルデンズの運命は、お前の――……。
やめて。
ブランカは目を閉じた。涙がいくつも頬を伝う。
祖父の言葉に今更惑わされたくない。祖父がいなかったら、こんな世界にはならなかった。そのくせ意味のありそうな言葉に何度も翻弄されて、そのせいでブランカは過ちを犯した。
ヴォルフだって……。
花の絵が、涙で滲んだ。紙から飛び出てくるようなスケッチ。
頭のどこかでささやく声を、ブランカは信じきれずにいた。
「ここ最近、顔色が悪いですね」
カミーユが鏡越しにブランカを見て言った。
今日も目が少し赤い。それに目の下のくまが濃くなっている。
「どこか体調でも悪いのですか? 最近また痩せているようですし」
「ただの寝不足です」ブランカは機械的に返した。
「寝不足?」
カミーユはブランカを見て目を細めた。あんまり見られたくなくて、ブランカは鏡越しに目を逸らした。
「そういえば一昨日周期が来たところですね」カミーユはブランカの両肩に手を置いた。「大事な身体ですから、無理させてはいけませんね」
ブランカは鏡をちらりと見た。カミーユは、ブランカの右横に顔を並べて立っている。まるで彼の左側の火傷と隣り合わせになるように。
「平気です。心配要りません」
だから手を離してほしい。
背中に走った悪寒を、ブランカは押し殺した。
しかし素直に休んでおけばよかったと、ブランカは数時間後に思った。
炎天下のがれき撤去場は、暑さが厳しかった。がれきが日光を照り返すせいで、熱がこもっている。その中での炊き出しは、暑さの逃げ場がなかった。
ブランカは汗だくになって、スープを配っていた。顔に当たる湯気で、頭が朦朧としてくる。お腹も痛い。ぱちぱちなる音が、やけに耳に障る。
「ねぇ、あんた」近くにいた下働きの婦人が、迷惑そうに声をかけてきた。「さっきから何度もこぼしてるよ」
「あ……ごめんなさい」ブランカの手はスープでべちゃべちゃになっていた。
ブランカは頭を振って背筋を伸ばした。
気がたるんでる。責務を果たさないと。
でも十五分もしてると、また身体がふらついた。
「君……少し休んだら?」
列の方から声がした。日焼けして疲れた顔の男性――あれ、この人、前に……。
ブランカは首を横に振って、受け取った器にスープを入れた。でも渡す手が、やっぱりおぼつかない。
近くの婦人がブランカの腕を掴んだ。
「軟弱な子だねぇ、これしきでバテて。ほら、柄杓放しな」
「だ……大丈夫です。ちゃんとします」ブランカは柄杓を持ち直した。
しかし婦人はブランカの手から柄杓を取り上げた。「あんたが粗相するとあたしらが怒られるんだから」
彼女は耳元で小声で言った。彼女の目線の先には、オプシルナーヤ兵が日陰でくつろいでいる。
「ごめんなさい……」
あまりにいたたまれない。より鈍い痛みを訴えるお腹に手を当てる。
「あんた、もしかして……」
婦人はしばらくブランカを見ると、他の給食婦人に持ち場を任せて、兵士のところへブランカを連れて行った。
「<この子。気持ち悪い。休ませて>」
彼女は単語だけのオプシルナーヤ語と身振りで、ブランカの不調を兵士に伝えた。兵士は迷惑そうにブランカを見ると、親指で日陰を指した。
「ほら、いいってさ。少し休みな」
婦人はそれだけ言って持ち場に帰った。
ブランカは日陰に向かって、とぼとぼ歩く。つくづく情けない。指示されたことすら出来ないなんて。
めまいがして、ブランカはその場にしゃがみ込む。近くのがれきに手をついた。
熱っ――。
思わず手を離した。ブランカはがれきと手を交互に見た。
知らなかった……。
がれきってこんなに熱いの?
がれきの片付けはダムブルクでも見てきたから知ってるつもりでいた。でもよくよく考えたら、夏場の撤去場は初めてだった。それどころか足手まといだと言われて、当時は別の作業をさせられていた。
ブランカは作業している男たちを見た。照りつく日の下で、みな、素手でがれきを持ち上げて集積場まで運んでいる。彼らの手が黒ずんでいるのは、煤と日焼けによるものだと思っていた。
「あんた、本当に大丈夫?」さっきの婦人が戻ってきた。「ほら、これ飲みな」
彼女はブランカに水の皮袋を出した。ブランカは声にならない声で断るが、婦人は無理矢理ブランカに水を飲ませた。彼女はブランカを立たせると、数歩先の日陰へ連れて行った。
「まったく。温室育ちのお嬢さんは手がかかる」
そう言いながらも、ブランカの横に水の皮袋とスープの椀を置いて、また持ち場に帰っていった。
ブランカはスープの椀を持ち上げた。右手のやけどをじっと見てから、作業場へ視線を戻す。
ブランカはもうやけどの痛みを感じないけれど、スープの入ったブリキの椀は普通に熱い。さっきまで当たり前のように彼らにそのまま渡していたけど、みんな一体どれくらい我慢していたんだろう。思い返してみると、彼らはみんな、恐る恐る手を差し出しながら、でもありがたそうにスープを眺めていた。
そう思うと、なんだか全身がむずがゆく感じた。生理痛が更にひどくなる。
するとそのとき、笑い声が聞こえてきた。少し離れたところで、何人かのオプシルナーヤ兵が騒いでいた。何かを蹴るそぶりが見える。
ブランカは、作業場の男性たちと兵士らを交互に見た。彼らはこんなにも暑い中、休む間もなく素手で働かされているのに……。
そこまで考えてブランカは頭を振った。
だめ、深く考えてはだめ。何もしないでいるのがいい。これがあるべき姿。
――本当に?
本当にこれがいいの?
「や……やめてくれ……!」
かすかな悲鳴が聞こえてきた。騒いでいる兵士たちの方だ。ブランカは背中を伸ばして、そちらを覗き込んだ。
四人のオプシルナーヤ兵の中に、男性が頭を抱えて倒れていた。
兵士は大きく足を引いて、男性の腹部を蹴った。他の三人も、ゲラゲラ笑いながら蹴ったり踏んづけたりしている。
ブランカは、動けなかった。
身体が震える。
恐怖と、ショックと、別の何か。
やがて兵士たちは、最後に男性をひと蹴りすると、その場を去っていった。一気に静まり返る。
男性は、倒れたまま動かなかった。
ブランカはしばらく逡巡し、水の皮袋とスープの椀を持って男性のところへ寄った。
「あの……大丈夫ですか?」
男性は返事をしなかった。ブランカは最悪の状況を想像したが、男性の肩が動いているのを見て、息をついた。
ブランカは彼のそばに跪くと、ポケットからきれいなハンカチを出し、水で湿らせた。それを男性のこめかみに当てる。
瞬間、男性は腕を振り払った。ブランカはびっくりして尻餅をつく。
男性は顔を上げた。頭から血が流れ、瞼は青く腫れている。口も頬も切れているようだった。
彼は無言でブランカを見る。
ブランカは濡れたハンカチと水を差し出した。
「良ければこれ、使ってください。あと……これも」
スープの椀を彼の隣に置いた。
ブランカは一言添えた。
「あの……ハンカチと一緒に持つと、きっと熱くないです」
男性は目を見開いてまじまじとブランカを見た。その視線に耐えられなくて、ブランカはその場を去った。
めまいもお腹の痛みも、気がついたら消えていた。




