6-8.当局の慈善事業①
目が赤くなっている。
ブランカは鏡の中の自分を、ぼんやり眺めた。
昨夜はあまり眠れなかった。夢の中に何度もヴォルフが出てきたせいで。
ヴォルフは、ブランカの右手を取り、右頬に触れて、そしてキスをした。でも次の瞬間、ヴォルフは胸から血を流し、息もしなくなっていた。
それで目が覚めて寝直しても、同じような夢を見た。何度も何度も。
ブランカは鏡台に突っ伏した。涙が溢れ出る。
あんな紙切れを見たせいだ。まるでヴォルフが書いたかのような、まっすぐな言葉。
本当にタチの悪いいたずらだ。いったい誰があんなものを入れたのだろう。
だってヴォルフはもう――。
「クラウディア、入りますよ」
扉を叩く音と一緒にカミーユの声が聞こえてきた。ブランカは涙を拭って、荒れた気持ちを鎮めた。ほどなくして、カミーユが入ってきた。
「昨夜はいかがでしたか? とてもきれいに仕上げましたからね、さぞかし注目を浴びたんじゃないですか?」
くせの強いフラウジュペイ訛りのヘルデンズ語で、カミーユは言った。抑揚を付ける彼の喋り方が、寝不足の頭に響く。
カミーユは鏡台まで来ると、ブランカを見て眉根を寄せた。
「目が腫れていますね? 涙の跡もある」
カミーユは、火傷のあるブランカの右頬を指先で撫でた。その手つきの気持ち悪さに、ブランカは目を伏せた。
ほうっておいてほしい。
カミーユの手は、ブランカの右頬を何度か上下に動いた。「かわいそうに。昨日のパーティで酷い扱いを受けたのですね」
昨日のパーティのことなんて、転んだ以外のことはほとんど覚えていない。
「でも仕方ないですね」カミーユは続けた。「だって、あなたはクラウディア・ダールベルクですから」
ブランカは目を開いて鏡の自分を見た。
右半分のただれた、醜い顔。
これが私、クラウディア・ダールベルク。戦犯の孫。
私が、みんな壊した。私がいたから、すべてだめになった。ヘルネーの街も人も、それ以外の街も。
母も。
そしてヴォルフも――。
「大丈夫」カミーユは鏡越しにブランカを見た。「あなたはただ、お父上の言うとおりになさればいいんです。そうすれば、みんな許してくれます」
そう。そうすれば、もうひどいことは起こらない。
つらいこともない。
「あなたは何も考えなくていいんです。何も心配しないで」
もう何も、考えたくない。
何も感じたくない。
ブランカは目を閉じて、すべての感情を遮断した。
カミーユは、火傷のない右側だけで笑った。
けれどもその日は思い通りにいかなかった。
「ご協力に感謝します」
指示されたとおりの言葉を言いながら、ブランカは足の痛みと戦っていた。
昨日痛めたつま先が、ずきずき痛む。慣れない尖った靴でたくさん踊ったせいだろうか。本当ならこんな痛み、大したことないのに。
「献納にご協力頂き、ありがとうございます」
内心もやもやしながら、ブランカは目の前の人が出してきたものを受け取った。
本革のカバン。毛皮のコート。カメラに懐中時計。ブランカが立つ机の後ろの収集箱には、そんなものが並んでいた。
「祖国再建を願う皆々様、本日は復興支援のための献納にご協力ください」近くにいたオプシルナーヤ兵士が、はきはきとしたヘルデンズ語で、マイクに向かって言った。「特にヘルデンズの皆様は、平等に責任を負っています。奮って我々の活動にご協力を」
彼の言葉が、広場のスピーカーから響き渡る。広場は、たくさんの人が列を作っていた。
明るい夏の日差しを受けながら、彼らはみな疲れた表情で下を向いている。痩せた手には、大小さまざまな袋が提げられている。
そのうちの一人の男は、袋からカフスボタンと金歯を出した。
「ご協力、ありがとうございます」彼の震える手から、ブランカはその二つを受け取る。
「<おい>」ブランカの横にいた兵士が、その男の腕をつかんだ。「<これ以外にもあるだろう。出せ>」
その男は青白い顔でブランカを見た。
オプシルナーヤ語が分からなかったのだろうか。「他にはございますか?」ブランカは機械的に聞いた。
「ない……ない!」彼は激しく首を横に振った。「この兵隊さんにそう言ってくれ……!」
「<他にはないそうです>」ブランカは、そのまま兵士に伝えた。
兵士は肩に担いだ銃をカチャカチャ動かした。「<身分証を確認してください>」
指示通りにブランカは男の身分証を求めた。
彼は蒼白な顔でブランカと後ろの兵士を見比べるが、観念したように身分証を出した。ブランカは兵士に言われるまま、彼の身分証を書き留めた。
身分証を返すとき、男は目を見開いてブランカを凝視していた。それを見た瞬間、つま先が鋭く痛んだ。
次の男性は、銀の指輪と二冊の分厚い本を出した。ブランカは礼を言って受け取る。
しかしまた兵士が声をかけた。「<それも出せ>」
兵士は銃先で男性の肩を示した。男性の肩にはバイオリンのケースが掛かっていた。
「これは私の仕事なんです。取られたら生きていけない……!」
ブランカは翻訳して伝えた。
兵士はバイオリンケースの肩紐に手を掛けた。「<仕事ならある>」
男性は激しく抵抗するが、兵士は構わず彼の肩からバイオリンケースをもぎ取った。男性は反動でブランカの方へ倒れる。
「<復興してやってるんだ。感謝しろ、殺人集団が>」
男性を支えるブランカの後ろで、兵士が言った。
ブランカは兵士を振り返ろうとしたが、別の声が先に耳元で聞こえた。
「うす汚い盗人どもめ……」
むき出しの両腕をぐっと圧迫された。同時につま先も痛む。
ブランカがかすかに眉根を寄せると、男性は体勢を立て直し、去って行った――両手を握りしめて。
ブランカは釈然としないまま、掴まれた腕を見下ろした。赤い痕が付いている。
顔を上げると、別の兵士が、収集箱から象牙の万年筆をポケットに入れていた。
数日後。
ブランカは何人かのオプシルナーヤ兵士に連れられて、とあるアパートを訪問した。
ベルを鳴らすと、躊躇いがちに扉が開く。鳶色の髪と目の男性が姿を現した。彼の後ろには、同じ色の髪と目の女性や子供も。
ブランカは目を逸らしたかったが、後ろから兵士が背中を押してきた。
「お時間いただきありがとうございます」後ろにいた兵士が愛想良くヘルデンズ語で言った。「本日は大変なご経験をされたアジェンダ人の皆さまを訪問し、近況を伺って回っております。差し支えなければ、詳しいお話を伺っても?」
兵士の言葉は淀みなかった。
アジェンダ人の男性は怪訝な表情でブランカと兵士たちをさっと見渡すと、鈍い動きで中へ通した。
玄関の壁には、いくつかの額縁が飾ってあった。小さい家族写真や鮮やかなコスモスの絵。誰かの肖像画も。
ブランカは、ヘルデンズ語を話す兵士と一緒に居間へ通された。他の兵士は廊下で待機するらしい。
居間も玄関と同じように整っていた。アジェンダ人の男性は、ブランカと兵士にソファを勧め、簡易チェアに腰掛けた。奥さんと子供は、離れた位置に座って、じっとブランカたちを見ている。
無言でこちらを見る、鳶色の目。
そんなに見ないでほしい……。
「さて、まずはこちらの女性から、皆さまに言いたいことがあるそうです」
そう言うと、兵士は首から下げていたカメラをブランカに向けた。
ブランカは、指示された段取りに従った。
「私たちの……過去の行いによって――皆さまに多大なるご迷惑をおかけしましたこと、深くお詫び申し上げます」
ブランカは頭を下げた。実際に口に出して言うと、なんだかあまりに空っぽで儀礼的に聞こえた。胸の奥が、ちくちく痛い。突き刺さる視線が、より冷たく感じた。
「実は彼女はダールベルク家の血縁者でして、あなた方にはお詫びしてもしきれないと言って、こうして参った次第です」兵士が口添えした。
「そうですか……」アジェンダ人の男性の声は、低く震えていた。
「あの……どうぞこちら、お詫びと支援を兼ねて、お受け取り下さい」
ブランカは手に持っていたかごの中から、紙で包んだパンを差し出した。
男性は受け取り、後ろにいた奥さんに渡した。子供が、開けてみようよ、と言って少しだけ嬉しそうに母親に身を乗り出した。
「ここ最近の……暮らしはいかがですか?」ブランカは指示されていた通りに尋ねた。
男性は、ブランカへ鋭い視線を送った。「……答えるようなことは何もありません」
ブランカは膝に視線を落とした。当然だろう。彼らにとっては自分は悪の根源だ。
重い沈黙が、部屋に充満する。振り子時計の振り子の音が、不気味に響く。
いつまでいなくてはいけないのかしら。早く終わってほしい。
この空気に耐えられないし、それに――彼らの鳶色の視線を浴びてるのもつらい。
思い出してしまう……。
「ねぇこのパン、カビてない?」
子供が沈黙を破った。慌てた母親がその子の口を塞ぐ。
ブランカは思わずオプシルナーヤ兵を見た。
「貴重な白パンですからね。切り取れば食べられますよ」彼は特に悪びれる様子もなく言った。「羨ましいですね、我々兵士は白パン自体なかなか食べられませんので」
「ありがたく……お受け取ります」アジェンダ人の男性は、変わらず硬い声で答えた。
「では、行きましょうか」
ブランカは少しだけ息をついて、兵士に続いて居間を出た。
あれ……?
印象的だったコスモスの絵が、なくなっていた。壁に掛かっていた他のいくつかの額縁も。
玄関を出ると、一枚の写真が落ちてた。ブランカはそれを拾った。
さっきのアジェンダ人の家族写真。
ブランカは振り返ろうとしたが、横から伸びてきた手に写真を引ったくられた。
さっきのアジェンダ人の女性。鳶色の目を強く細め、抜き取った写真を大事そうに抱えている。
彼女はブランカをひと睨みすると、家に帰って行った。
引ったくられたときに切れた指から、じわりと血が滲んだ。




