1-6.戦勝記念日
葉の揺れに光を見て進んだら、次の瞬間、森から閉め出されている。
ヴォルフは今そんな気分だった。
ブランカの深緑色の瞳は、底の知れない森のように掴みどころがなくなった。夕方、不良たちに囲まれていたときと同じ、表情のない顔。
しかしよく見れば、眉根がかすかに寄るし、揺らぎもある。返事に困ると、だいたい黙って目を閉じる――意図的なのかは分からないが。
そういえばさっきもこんな顔になった瞬間があった。
ふざけてブラッドロー語を使ってみたときだ。
明らかに彼女はブラッドロー語を理解している。しかし彼女は反応を示す代わりに表情を消した。探らせないためか……?
なら今はなんだ? 動揺した? 何かが気に障った?
「おやブランカ、かなりおめかししたね」
図書館館長が話しかけてきた。彼はヴォルフの方を見るとにっこり笑った。「楽しんでるかな、ヴォルフ君」
「はい、おかげさまで」
館長は近くの席に座ると、手のない片手を上げて料理を注文した。
彼はブランカを見て、嬉しそうに微笑んだ。「にしても髪型と少しの化粧で変わるもんだね。素敵だよ、ブランカ」彼の言葉は誇らしげだった。
「ありがとうございます」
ブランカは俯きがちに礼を返した。喜んでいる顔ではなかった。
ヴォルフは実はそれも気になっていた。今日の彼女はよほどいつもと違うのだろう、町の人はブランカを見るなり彼女の容姿を褒めるが、ブランカはかすかに眉根を寄せて微妙な顔をするばかりだった。考えすぎか?
「ブランカはね、いつも忙しそうなのに時間を見つけては図書館の仕事を手伝ってくれるから、たまには年頃の娘さんらしくゆっくりしてほしいと思っていたんだ」
「そんな……わたしは当然だと思うことをしているだけです」葉のように、深緑色の瞳が揺れた。
「これだよ、まったく」館長はヴォルフの同意を求めるように目を合わせるが、またも嬉しそうにブランカを眺めた。
三人ともしばらく何も言わなかった。
やがて館長は――涙を流した。
ヴォルフは――流石のブランカも――狼狽して立ち上がるが、館長はある方の手を振った。
「すまない、いきなり泣いて。ただ思い出しただけなんだ、孫が生きていたら……」館長は涙を拭ったが、涙は止まらなかった。
「おい、どうしたんだ泣き出して」近くにいた男性がそばに寄って来た。
「大したことじゃない」館長は嗚咽まじりに言った。「ただ娘や孫を思い出して」
「あぁ……あんたの娘はきれいで賢かった」男性は館長の隣に座って彼の肩を抱いた。「町を元気にしていたよ、俺たちは忘れない」
「あの日、あの子を行かせなければ良かったとずっと後悔している。ダムブルクにとどめておけば良かったって。でなければヘルデンズなんかに……」
「自分を責めるのはやめるんだ。悪いのはヘルデンズだ。あいつらはめちゃくちゃだった。好き勝手して町を荒らして全て奪っていった。あいつらさえ来なければ……俺の息子も……」男性も思い出したかのように悔し泣きし始めた。
近くにいた他の人がヴォルフたちの近くに椅子を寄せて小声で言った。「僕たちはブラッドロー軍に本当に感謝しているんですよ。ヘルデンズの悪魔たちは本当に最悪でしたから」
「最悪なんてもんじゃねえ」別の男性が割り込む。「痛めつけられたくなければ大人しく従うしかない。逆らったら食料配給を止められるか、下手したらあの世行きだった」
「あたしたちは奴隷じゃないのに朝から晩まで農場で働かされた。あたしたちはろくに食べられなかったのに」
ヘルデンズに占領されていたときを恨む声が、店の中に広まっていた。
フィンベリー大陸戦争中のヘルデンズ兵は、ありとあらゆる場所で傍若無人に振る舞い、無数の犯罪を犯した。ダムブルクも例外ではなかったということだ。リンチ、強奪、強姦――あらゆる暴力が横行していた。
「今朝の新聞にヘルデンズ人の今の暮らしに愚痴ってる記事が載っていたが、ふざけんじゃねえよ。占領中、あいつらが俺らにしたことを忘れてやがる」
その新聞は、ヴォルフも読んだ。
敗戦国ヘルデンズは戦後処理で混乱し、終戦から五年経った今も貧しく治安も悪化しているらしい。戦中ヘルデンズに占領され非情な対応を受けた国の人間からしたら、今のヘルデンズの窮状など知ったことではない。
「マジで人類の害にしかならない国だぜ。どうせならヘルデンズ丸ごと殲滅してほしいよ」
「ああそれいいな、軍人さん、頼むよ。国を解体してくれ」
ヘルデンズ丸ごと殲滅。国を解体。
ヴォルフは咄嗟に返事ができなかった。
彼らがそう思うのは分かる。だが――。
「なぁいくらあんたがブラッドロー人だろうが分かるだろ? アジェンダ人なら――」
「おい、やめとけ!」
別の男性が割って入るが、言わんとしたことをヴォルフは理解した。
フィンベリー大陸戦争中、大陸中のアジェンダ人の多くは、収容所に送られ、ほとんどが虐殺された。
ヴォルフは目を閉じた。灰色の世界が脳裏に広がる。
底のない屈辱と絶望に心が死んでいくのを感じた日々。
「俺は親戚を失いました……。どこで死んだのかも分からない。正直マクシミリアン・ダールベルクが憎くて堪りません」だから軍に入隊した。奴らに報復したくて。
「もしダールベルクが生きていたら」館長が静かに言う。「マクシミリアン・ダールベルクの目の前であいつの孫を殺してやりたいと思う私はどうかしているのかな」
「いや足りないくらいだよ。俺ならクラウディアの皮を剥いで火炙りしてからマクシミリアンを飢え死にさせたい。あいつらがいなかったらあんな悲劇はなかった」一緒に泣いていた男性が憎しみを込めて言った。
「神はすべてを見ている」ひとりが歌い出した。「あきらめるな、自由と平和は必ず訪れる、フラウジュペイに明日は来る」
他の人も一緒に混ざって歌った。戦中フラウジュペイで密かに歌われた反戦の歌らしい。
悪逆を恐るな、立ち上がれ我らの友よ
我らの怒りでヘルデンズの豚共を根絶やしにしよう
非道を許すな、戦え我らの友よ
ダールベルクを殺せるなら命は惜しくない
クラウディアもろとも串刺しにしてしまえ
我らの血で奴らを殺せ
フラウジュペイの怒りをみくびるな
ヴォルフはこの歌の存在は知っていたが、改めて聴くと、ひどく暴力的な歌詞だ。こんなのを実際に歌っている場面をヘルデンズ人に見られたらとんでもない制裁を与えられただろうに、それだけフラウジュペイ人の怒りと憎悪が蓄積されていたのが分かる。
ブランカもこれを聴いて育ったのだろうか。
ふと彼女を見ると、ブランカは真っ青な顔で――火傷痕のない左側から、生気が消えていた。目を閉じたまま、肩が震えている。
「ブランカ、大丈夫か?」
ブランカはハッとしてヴォルフを見た。
大きく見開いた深緑色の瞳に、ヴォルフは強い既視感を感じた。
しかし、瞳に浮かんだ膜を見た瞬間、既視感は消えた。
確認しようとした瞬間、ブランカは顔を伏せて立ち上がった。
「すみません、席を外します」
「え、いや待って――」
ヴォルフは止めようとしたが、ブランカは構わず席を立って店を出て行った。
すれ違いざまにロマンとレオナが店に入って来た。二人ともブランカに声をかけたがブランカは立ち止まらなかった。
ロマンが問いただすようにヴォルフを見てきた。「何があったの?」
ヴォルフはまだ反戦歌を歌っている人たちを目線で示した。レオナが泣いている館長に気づき、彼らの元へ行った。
「悔しいわよね、あたしも兄さんが恋しい」レオナは館長に腕を回し、お互い慰め合った。
ヴォルフはブランカの後を追おうとするが、ロマンに止められた。
「何があったかわからないけど、今はひとりにしてあげて。その方が彼女も気が楽だろうし」ロマンは懇願するように言った。
ロマンの口ぶりはよく知った保護者のようで、深入りするのを拒んでいる雰囲気があった。
いったい何があるんだ? ヴォルフは目を細めた。表情の変化の乏しいブランカが涙を浮かべていたことが気に掛かった。
それを今ひとりで放置しておくのか?
また森の奥に消えるのか?
無性に腹が立って、ヴォルフはロマンの手を振り払い店を出た。




