1-7.川①
店を出ると、ブランカは広場を抜けて町のはずれに向かった。
もうあれ以上、店に居続けることは出来なかった。
すれ違う人が怪訝な顔を向けてくる。とにかく人のいないところに行きたい。町役場の『祝・戦勝記念日』の文字から逃れたかった。
脇目も振らずに町を走っていたら、途中でぶつかった誰かに腕を取られた。「おい、前見ろよ」
いつも嫌がらせをしてくる不良グループのリーダーだ。彼はブランカに殴りかからんばかりに食ってかかったが、ブランカの顔を見た瞬間、目を丸くして固まった。
「お前、どうしたその格好……それに泣いて……」
ブランカは顔を背けて腕を振り払い、走り去った。
今は誰も構わないでほしい。
ダムブルクでのヘルデンズ人の悪逆行為は、この五年で聞き尽くしたと思っていた。
レオナのお兄さんや親友に加えて、館長のご家族……!
あの優しい人たちまでも、ヘルデンズに殺されていたなんて――。
ブランカは全速力で走った。
涙が止まらない。
わたしに泣く資格なんてないのに!
町外れの河辺にたどり着くと、ブランカは土手を降り柵に寄りかかった。月明かりに照らされた水面がブランカの顔を映した。
前髪を上げ巻いたくすんだ髪。顔の火傷痕を隠す化粧。レオナが失った親友に施したかったもの。館長はそれを見て喜んだ。わたしは彼らが殺したくてたまらない人間なのに。
ブランカは髪をくしゃくしゃにかき乱し、顔の化粧をこすった。服も脱ぎ捨ててびりびりに破きたかったが、レオナが今日のために縫ったことを思えば、流石にそれはできなかった。
ブランカは、膝から崩れ落ちた。
五年前に、ここにやって来たとき、目の前の現実に愕然とした。
咽せるような血の匂いが充満する部屋。馴染みのないフラウジュペイ語。ほどなくしてマクシミリアン・ダールベルクが死に、ヘルデンズが降伏したことを知った。
そのときからブランカはフラウジュペイ人になりすまして生きてきた。クラウディア・ダールベルクの全てを捨ててきた。それでいながら、祖父の悪行を知るたびに呪った。巷で言われているクラウディア・ダールベルクの噂を、心の奥底では否定していた。
けれど結局今のわたしは、噂通りの人間だ。みんなの大切な人を奪った側でいながら、彼らに紛れて日常を送っている。
ブランカは胸元に隠した布袋を取り出した。
花の装飾の付いたゴールドのブローチと、焼けこげの残る薄萌葱色の封筒。
――愛する私の天使、十一歳になった可愛い孫にこれを贈ろう。来年こそは、輝かしい王国を贈ると誓うよ。
祖父マクシミリアン・ダールベルクは、そう言ってこのブローチと手紙をブランカに贈った。封筒には『戦争が終わったら読むこと』という注意書きが為されていた。結局これを受け取ってから一年もしないうちに、この手紙を開けることになった。
中を開かなくても、一言一句覚えている。孫への祝い、願望、世の中への不満と自分勝手な妄想、数々の無念、そして文末には『ヘルデンズの運命は、お前の手に』というヘルデンズの古代文字で書かれた一文。
ブランカは封筒に顔を伏せた。涙が止まらない。
「何が輝かしい王国よ……」
フィンベリー大陸から輝きを奪ったのはあなたじゃない。
一方的に戦争を広げ、占領地で悪事を働き、気に入らない民族を排除して。親切な人々の何気ない日常を壊して、彼らの大切な人たちを理不尽に奪って。
「何が……」
ヘルデンズの運命よ。
ヘルデンズ人は暴力的ではなかったのに、彼らを扇動して恐ろしい計画や政策を推し進めて。その報復を受けたヘルデンズは今やボロボロで、国としての機能も失った。世界中から忌み嫌われる国。
誰のせいで、こんなことになったのか。
――神は見ている
やめて。
さっきの歌が頭にこびりついて離れない。悪いのはすべて祖父なのに。
――神は見ている
わたしは、ダムブルクの人たちを騙している。
――我らの怒りでヘルデンズの豚共を根絶やしにしよう、クラウディアもろとも串刺しにしてしまえ
館長やレオナが、怒りの形相でハンマーを振ってくる光景が頭に浮かんだ。
いや! こんなの耐えられない――!
ブランカは勢いよく立ち上がり、ブローチと封筒を持った右手を川に向かって振り上げた。
後ろから伸びてきた手が、ブランカの右手を止めた。
振り返ると、ヴォルフが立っていた。
彼は薄鳶色の瞳を大きく見開き、肩を大きく上下させて息を切らしていた。
ヴォルフはブランカを見た衝撃から立ち直ると、掴んでいたブランカの右手を彼女の胸元へ押し付けた。
「捨てたら二度と戻らなくなるぞ」
ヴォルフはそう言ってブランカの左手を取り、ブローチと封筒を両手で持たせた。
彼の落ち着いた物言いが癇に障った。ブランカは体を捻ってヴォルフの手を振り払い、その場を立ち去ろうとした。
しかしヴォルフが前に立ちはだかった。
「いったい何なんですか?」ブランカは苛立ちを隠さなかった。
「君は泣いている」
「だから何ですか」ブランカは乱暴に目元を拭った。「わたしだって泣くときくらいあります」
「当然だ。君は人形じゃない」
ヴォルフはまっすぐ言った。
ブランカは無性にいらいらした。「そうですか。だったら放っておいてくれませんか?」
彼は目を閉じて息を吐いた。「本当はそのつもりだったが、君がそれを捨てようとした瞬間に身体が勝手に動いたんだ」ブランカの手の中のブローチと封筒を顎で指した。
ブランカは鼻にしわを寄せる。「あなたには関係ないでしょう」
「関係ないかもしれないが――」ヴォルフは決意のこもった声で言う。「それはずっと持ってきたものだろ」
「そんなのわたしの都合です。あなたはこれが何かを知らないからそんなことを言えるんです!」
「じゃあ何なんだ?」
聞かれてブランカはハッとした。スッと頭が冷えていく。
感情を抑えきれずいつの間にか際どい会話になってしまった。絶対に知られてはいけないのに。
ブランカは無意識のうちにブローチと封筒を、守るように両手で握りしめた。
その様子を見ていたヴォルフは、辛抱強く言った。
「捨てたら二度と戻らない。ブランカ、出来るか、君に」
ブランカは、ブローチと手紙を捨てた後のことを想像してみた。
マクシミリアン・ダールベルクとの関係を示す決定的なものは、本来なら手放すべきだ。捨てようとしたのはこれが初めてでもない。祖父の悪事が次から次へと明るみになるにつれ、自分たちが世間からどう思われているかを知るたびに捨てたくなった。マクシミリアン・ダールベルクともクラウディア・ダールベルクとも縁を切りたくなった。
けれど毎回出来なかった。
――クラウディア、何があってもお前だけは私の味方であってくれるね?
このブローチと手紙をくれたときの祖父の顔は、今でも鮮明に思い出せる。揺るぎない自信に満ち満ちていたはずの彼は、そのときばかりは孫のクラウディアに縋るように弱々しかった。
——愛する我が天使に、光あらんことを。どうか、お前には健やかに長生きして欲しい。
祖父の手紙には、愚かな為政者の独りよがりな内容が半分以上占めているが、ブランカの――クラウディアの未来を憂う祖父の言葉もたくさん綴られている。
レオナや館長の悲しみが脳裏をよぎる。ダムブルクの人たちの悲しみも。ああ、最低だわ。彼らのことを思うなら捨てるべきなのに、わたしはこれを捨てられない。
ブランカはブローチと封筒に顔を伏せると、その場にくずおれて泣いた。込み上げてきた罪悪感に耐えきれない。
すると大きな手に肩を引き寄せられた。
「思う存分泣いたらいい」
規則正しい鼓動が心に沁みてきた。そういえば彼も親戚を亡くしたのではなかったかしら。
本来ならこの人に甘えてはいけないのに。
久々に感じる人のぬくもりに、涙が止まらなくなった。
ブランカは身体を震わせて、思い切り泣いた。




