6-5.焦燥
「撃て!」
号令と共に銃声が一斉に鳴る。噴煙が立ち込め、三百メートル先の的に穴が空く。
「前進!」
低い姿勢で身を潜めていた兵士たちが、次の目標に向けて一斉に走る。ヴォルフはいらいらを押し殺しながら、その中に混ざっていた。
「ノール! 鈍いぞ!」
グッと奥歯を噛み、遅れを取り戻す。背中に張り付いたシャツが、より不快だった。
ヴォルフはこの苛立ちをぶつけるように、次の号令で発砲した。
「あーようやく終わったぜ」
「最悪。口の中砂だらけだわ」
「お前ツイてんな。オレなんかもっとやべぇの食ったことあるぜ」
訓練終わりのブラッドロー語の軽口が、兵舎までの道に飛び交う。大抵が陽気でふざけた冗談を言い合い、良くも悪くも素直に反応する。ブラッドロー軍の兵士はみなこんな調子だ。
ヴォルフは冷めた目で、彼らに続いて歩いていた。流れた汗を拭いながら、無意識に、胸元に手を当てる。
「ノール、残れ」
訓練教官がヴォルフを呼び止めた。ヴォルフは渋々教官の前に戻る。
訓練教官はヴォルフを上から下まで眺めた。
「何故呼ばれたか分かるか?」
「自分は集中力を欠いていました」
なるべく機械的に見せるが、不承不承が滲んでいたのだろう。教官は視線を鋭くした。
「外れるか?」
ヴォルフは黙ったまま、教官に鋭い目を返した。
無言の睨み合いがしばらく続く。
やがて教官がため息をついた。
「お前の精神の乱れが仲間を殺すと思え」
今日のところはそれで解放された。
ヴォルフは釈然としないまま、兵舎に向かう。痛みが収まっていたはずの左肩が、やけに疼く。
ヴォルフは銃を反対側の肩に担ぎ直すと、防弾チョッキをゆるめ、軍服の内ポケットからブローチを取り出した。表面の花の意匠をなぞる。
ブランカ……。
俺はこんなところで何をしているんだ。
お前は無事なのか?
事態は何も進まない。
アロイスと西ヘルデンズに到達し、ブラッドロー軍駐屯基地に入ったところまでは良かった。だがその後は訓練に戻され、事情聴取で呼び出される以外、何も知らされない。アロイスともろくに話せていない。そのくせ、上はクラウディア・ダールベルクのことばかり聞いてくる。
気がつけばもう四週間だ。
今すぐにでも東に戻りたくて身体が疼く。呑気に訓練している場合じゃないのに。
兵舎に戻ると、同僚達の軽さに更にいらいらした。
「なぁ見ろよこれ。このケツやばくねぇ?」
「食堂のねえちゃん、絶対オレに気があるぜ」
「うわやべえ。またズボン穴空いた」
雑多で男臭い兵舎の中は、大体いつもこうだ。ヴォルフは装備を解いて、シャワーの列に並びに行く。
するとタオルを肩にかけた兵士が、無遠慮に肩に腕を回してきた。
「なぁヴォルフ! お前どうしちまったんだよ、ずっと暗ぇじゃん!」
「オレらお前の話を聞きたいんだよ、ノール」
「爆発列車に東からの帰還! 映画級の武勇伝だぜ」
ヴォルフは肩を揺すられるまま、無言で彼らの顔を見た。皆、同じ部隊の兵士だ。ヴォルフ帰還後にフラウジュペイから移送されてきた連中。
期待と励ましに目を輝かせている彼らの目を見ると、より苦い。
「また今度な」
ヴォルフは同僚の腕を肩から外し、シャワーを浴びに行った。
映画級の武勇伝。
笑える話だ。
ヴォルフはガシガシ頭をこする。
石鹸が、左肩の傷に染みた。
その夜、外のベンチで銃の手入れをしていると、デーニッツが両手にコーヒーを持ってやって来た。
「なぁ、ヴォルフ」
デーニッツは隣に座り、無言でコーヒーを差し出した。ヴォルフは銃を置いて、コーヒーに口つける。
「あいつら、みんな嬉しいんだ。お前が帰ってきて」
デーニッツは歯切れ悪く言った。
兵舎の中では、同僚達が酒を飲んでカードゲームをしている。
「分かってるよ……」
あいつらに悪気がないことも。
しかしあいつらは東ヘルデンズのことを知らない。ギュンター・アメルハウザーのことも知らない。
当然、ブランカのことも。
ヴォルフはポケットからブローチを取り出した。
花の装飾の付いた、ゴールドのブローチ。
「どうしたんだ、それ?」デーニッツが興味深そうに覗き込んだ。「すげぇ凝ったアクセサリーだな。誰かにあげるのか?」
ヴォルフは何度もなぞった花の表面を見ながら、乾いた声で言った。
「いや、預かりものだ」
デーニッツは首を傾げたまま、それ以上聞かなかった。
ヴォルフはブローチをじっと見つめた。
これは、あの男が贈ったもの。
ヴォルフのすべてを奪った男。
少年時代も、父も母も奪われた。ヘルデンズ人としてすらいられなくなった。収容所で過ごした記憶は消えない。
ブラッドローに来てみても、自分がよそ者だという違和感は拭えなかった。東ヘルデンズから戻ったことで、尚更感じる。
本当に、どれだけ呪っても呪いきれない。ブローチに隠した秘密のせいで、嫌悪感がより増した。
しかし――。
このブローチがなければ、ヴォルフは既に生き絶えていた。
ブランカ。
健気に働く姿。泣きながら必死に食らいつくあいつ。
けがれのない、純粋なブランカ。
儚く微笑むあいつを、この腕に閉じ込めたい。
どれだけ後悔していることか。早く取り戻したい。もう、どこにも行かせたくない。
「ノール」
兵舎の方から声をかけられた。ブロンソン少佐だ。
ヴォルフとデーニッツはベンチから立ち上がるが、少佐はお前はいい、とデーニッツに言った。
「ノール、客人がお前と話したいそうだ」
ブロンソン少佐は、客人宿舎の方を指差した。
ヴォルフは少佐に連れられて、そちらへ向かう。
「ノール、聞いてるぞ。調子悪いらしいな」
「……すみません」
「いい。気持ちは分かるが、辛抱強くな」
二人は客人宿舎に到着した。入り口の監視兵に断ってから、中に入る。
会議室には、難しい顔をしたアロイスと彼の仲間の数名がいた。空気が張り詰めている。
「ああ、兄さん」
ヴォルフが入っていくと、アロイスはあからさまに表情を取り繕った。アロイスの手の中で、紙の音がわずかにした。
「俺に話があるんじゃなかったのか?」
「ああ、そう。明日のことでな」アロイスはブラッドロー語に切り替えて、ヴォルフとブロンソン少佐に椅子をすすめた。
ヴォルフはブロンソン少佐を見た。「明日?」
「明日の会議で、東ヘルデンズ支援の決定が出る見込みだ」少佐は簡潔に説明した。
ヴォルフは息を飲んだ。
そこまで話が進んでいたのか。
「ようやくここまで来た。兄さんが連れて来てくれたおかげや」
「いや、俺は何もしていないが……」せいぜい軍の上に色々聞かれただけだ。
しかし、実際にはいつ動くんだ?
「ノール。お前とテールマン氏の働きかけで、ブラッドローも西ヘルデンズもようやく動こうとしている」ブロンソン少佐は讃えるようにヴォルフの肩を叩いた。「しかし、あとひと押しが必要だ」
ひと押し……。
アロイスは、確かめるようにヴォルフを見た。
「兄さん。明日、僕はひとつ手を打つ」アロイスはヘルデンズ語で言った。
「手?」
油田のことか?
それとも――。
アロイスは何をにおわせている?
後ろの仲間も緊張した面持ちだ。少佐の表情は、よく分からない。
くしゃ、とアロイスの手の中から音がした。
ヴォルフの視線が、そこに止まった。
「……何を持ってるんだ?」
アロイスは、わずかに目を細めてヴォルフを見た。「なんでもない。ただのメモ」アロイスは肩をすくめる。
ヴォルフは薄鳶色の目を細めた。
テーブルに身を乗り出し、アロイスの手を掴む。
「ちょっ兄さん――」
「ノール!」
構わずヴォルフはアロイスの指を無理矢理こじ開け、中身をひったくった。
小さな紙切れ。中を開く。
――CD、A管理下。洗脳中。精神崩壊寸前。
ヴォルフは紙を何度も左から右へ読み直した。
紙を握る手が、わずかに震える。
「兄さん……」
「確かなのか?」
ヴォルフは低い声で聞いた。
アロイスは小さく頷いた。「確かや。裏は取れてる」
「これはいつ届いたんだ?」
アロイスはちらりとブロンソン少佐へ視線を送ってから答えた。「今日の昼過ぎ。出されたんは、多分、もっと前や」
ヴォルフは紙切れを握りつぶした。
踵を返して扉に向かう。
「どこに行く?」ブロンソン少佐の、抑制の効いたブラッドロー語。
ヴォルフはドアノブに手をかけたまま、止まった。「東ヘルデンズに戻ります」
「軍規違反は除名だぞ」
「構いません」ヴォルフは振り返った。「構いません、それでも――」
「それでお前に何ができる」
ヴォルフは何も言えなかった。
「兄さん……」アロイスはヘルデンズ語で言う。「少なくともブランカちゃんは生きてる」
ブロンソン少佐も頷いた。
「だとしても」ヴォルフは首を横に振った。「だとしても、あいつ自身はどうなる!? ようやく微かでも笑えるようになったのに!」
エンゲル地方で。東西境界で。
最後に見たブランカは、心を開いて、控えめに微笑んでいた。
「あいつは……アメルハウザーは、ブランカを一度殺そうとした男だぞ。実の父親なのに!」
その男に付けられた火傷とまだら髪は、ブランカをいっそうダムブルクで孤立させていた。人形と揶揄され酷く心を閉ざした少女――。
そこまで考えて、ヴォルフは凍りついた。
アメルハウザーの洗脳教育。精神崩壊。
――今度こそ潰される!
「俺は行きます」
ヴォルフはブロンソン少佐をまっすぐ見た。
ブロンソン少佐は立ち上がった。
「行きたければ行けばいい」彼はヴォルフの前に立って言う。「せいぜいどこかの雑魚兵士にやられて終わりだ。そして、彼女も」
ヴォルフは目頭に力を入れ、少佐を睨みつけた。
少佐も目を細めてヴォルフを見る。
「さっきの話、聞いてなかったのか? 明日、東ヘルデンズの支援が正式に決定すれば、お前は軍を連れて行ける」
ブロンソン少佐は胸ポケットからタバコを取り出し火をつける。
ふぅと煙を吐いてから言った。
「賢くなれ、ノール。野垂れ死にたいなら、一人で行け」
ヴォルフは何も言い返せなかった。奥歯を噛み、硬く拳を握りしめる。
「兄さん。僕も同じ思いや」
アロイスがブラッドロー語で慎重に口を挟む。
「だから兄さんの力も必要やし、僕を信じてほしい」
アロイスは青灰色の瞳で、まっすぐ言った。




